第四話 楽しみが増えたわ
約束していた土曜日の朝、俺は三人娘を連れて、小鍛冶道場の門をくぐった。
「わあ、ここが……」
乃亜が、蔦の絡まった瓦積みの木造建築を見上げて呟く。
「先生の実家、道場だったんだ!」
「もう潰れてるけどな」
麻倫が興奮した様子で辺りを見回している。まるで遠足の引率をしているかのようだ。問題は、遠足先が俺の家だということ……。勢いで発案したものの、こんなん母を絡めていなければ速攻で不祥事案件だ。
俺は内心、早まったか? と若干怖気づきつつも、
「歴史を感じますね」
「古臭いって罵倒と同義だぞ。それ」
軒先にかかった『小鍛冶道場』の額を、じっと見つめている百花に軽口を叩き、すっかり建付けの悪くなった木戸を開けた。
道場の中では、既に母が正座で待っていた。長い髪を一つに縛り、上下ともに真っ白な道着に袖を通している。普段から古武士の風格があると思っていたが、こうして見ると、いつも台所に立っている姿とはまるで別人だった。
「初めまして。廉平の母の静です」
三人娘が、それぞれに緊張した面持ちで頭を下げる。
「はじめまして! えと、静先生。よろしく!」
「今日はお世話になります」
「はじ、はじめ、まして……!」
三人をゆっくりと見まわし、母は彼女らに座るよう促す。
「剣道を学びたいと伺いました。道場と学ぶというならば、本来お月謝のお話もしなければなりませんが、今は置いておきましょう。一番大事なことをまずは一つ聞いておかなくてはなりません」
母の態度は決して優しいものではなかった。自然と背筋の伸びた三人が母の言葉を待つ。
「うちの道場で剣道を学ぶことは確かに可能です。ですが、市内を探せば他に道場や剣友会は山ほどにあります。私の道場で本当に良いのですか? うちは既に畳んだ、古い道場です」
三人は正座をしたままお互いに目配せし、母に向かって首肯した。
「うん。小鍛冶先生のお母さんなら信用できるから!」
「……私はちょっと事情があって。色々ネットで道場について調べたんですけど、保護者の付き添いとか負担というのが、きつくて……。小鍛冶先生から、やる気があるなら気にしなくていいと聞きました」
「……お願いします」
三者三様の返事であったが、剣道を三人でやりたいという気持ちは本物だった。全員が膝小僧を掴み、前のめりになっている。
母は満足げに頷き、口を開く。
「分かりました。それでは、あなたたちは今日からうちの門下生です。共に剣道を学んでいきましょう」
はい、という声が三色揃った。
◇
「まずは剣道の理念について説明しなければなりません」
「リネン……?」
こてんと首を傾ける麻倫。母は続ける。
「理念とは大切な考え方のことです。剣道は理念、そして理合と呼ばれる合理性を大切にします。これは最初に言葉で伝えた方が早いものです」
「勉強……、スポーツに座学があるんですか?」
「剣道はスポーツではありません。武道、武を通じて、人を成長させる道です」
目を輝かせる百花の言葉を母が訂正する。
「先ほども言いましたが、うちは古臭い道場です。当然古臭い剣道を教えます。よその道場なら、いくらでもスポーツとして剣道を学べるところがあるでしょう。合わないと思ったら、いつでもやめてもらって結構です」
「母さん、あまり圧をかけないように――」
「大事なことです。廉平さんは黙っていてください」
困惑する三人のフォローをするため口を挟もうとするも、ぴしゃりとやられる。妥協を許さないという目だった。
「やめますか? 続けますか?」
三人はしばし固まっていたが、やがて「や、やります!」と頭を下げた。
母は緊張しながらもやる気を見せる三人の様子に、頬を緩ませる。
「……まずは礼法からですね」
言って、三人の座り方を一人一人直し始める。
「良いですか。剣道の理念は、『剣の理法の修練を通じた人間形成の道』です。どんなに力のある剣士でも、人間ができていなければ未熟です。あなたたちは、剣と礼儀作法の両方で” 満点”を目指すことになります」
「レイギサホー」
「満点!?」
呆ける麻倫と、満点と聞いて目の色を変える百花。乃亜は当然とばかりに静かに聞いていた。
「し、静先生。ノートを取らせてください」
「殊勝な考えですが、それは後で」
そうして、母による礼法講座が本格的に開始される。
まずは道場への入り方。道場に入る時には、稽古で使わせてもらうという感謝を込めて礼をしなければならない。
「失礼します!」
「角度と向きが違います。やり直し」
「うひい! ただのお辞儀に角度なんてあるの!」
悲鳴をあげる彼女たちの所作を、母が丁寧に直していく。
「声は全て、鼻から静かに息を吸い、お腹から鋭く声を出します。間延びした声は許しません。前へ出る所作の動き出しは、すべて右足を先に出します。そう、その動き――」
挨拶の声の出し方やお辞儀の仕方。正座の仕方や、左座右起と呼ばれる立ち上がり方。頭を下げる角度は、神棚に向かってが三十度で人相手が十五度……。外野で聞いている俺も、頭がこんがらがりそうだ。
「呆けていないで、廉平さんも参加するように」
「え、いや。俺はただの引率で――」
「指導者も修行者たるべし。あなたのおじいさんの言葉です。良いからやりなさい」
まさかすぎる展開だった。後方で腕でも組みながら、完全にマネージャーに徹するつもりだったのに。
俺がひいひい言いながら、お辞儀の角度を直されていると、三人娘のにやけ顔が見えた。
「何だよ」
「べっつにー?」
意外なことに苦手だろうと思っていた麻倫も、しっかりと母の真似をしている。言葉で言うだけではなく、実践を繰り返していることに原因があるのかもしれない。
「人に向かったお辞儀を立礼、座礼と言います。頭を下げる時、絶対に相手の身体を視界に捉えること」
「なんでですか?」
百花は分からないことがあったら、どんどん質問する。母の言葉を暗唱し、「よく覚えましたね」と言われるたびに、にんまりとする。褒められたくてたまらないといった様子だ。
「不意打ちで斬られることを防ぐためです。このように油断しないことを残心といいます」
「不意打ちで斬られないようにすることが残心……」
「いや、今の時代。いきなり斬りかかってくる人いたら怖くね」
麻倫のツッコミに、内心同意する。思考が殺伐とし過ぎているだろ……。
「何か?」
「いや、何でも」
母の追及をかわしつつ、何とかお辞儀の仕方を身につける。
三十分後、ようやく形になってきた。いや、挨拶とお辞儀だけでどれだけ長くやっているの? という話なのだが、母曰く二十点らしい。お辞儀の道は険しい。
だが、これで道場で稽古を始めるスタートラインに立ったわけだ。
「正面に、礼! 先生に、礼! お互いに礼!」
「よろしくお願いします!」
百花が音頭を取り、最後に俺と三人娘の声が揃う。腹から声も出ているし、間延びもしていない。どうだ……? 今のは通ったか……? 戦々恐々とする俺たちを母はゆっくり見まわし、
「二十五点。合格です」
と短く答えた。俺たちは互いに見合い、ガッツポーズを取る。
さあ、いよいよ竹刀を持った稽古だ!
「それでは、次は精神統一法について学びます」
「はい!」
「セイシントーイツ……?」
素直に指導を受ける乃亜と百花。あんぐりと口を開ける俺と麻倫。俺はしびれた足に耐えられなくなり、正座しながらこけた。剣道という言葉がどんどんスポーツから遠ざかっていくのを感じる。
母にぎろりと睨まれたため、そそくさと痺れた足に鞭打って、再び畳む。
「そう、精神を統一する方法です。基本的に稽古始めと稽古終わりに行います。うちで行っているのは” 黙想”と” 静坐”、そして” 数息観”です」
まずい。単語から漢字が全く想像できない。剣道ってこんな難しい習い事だったのか……? 絶望する俺に蜘蛛の糸を垂らしてくれるのは百花だった。
「一つ一つ教えてください!」
「よろしい」
母の説明をかいつまんでみれば、要するに座禅の一種ということらしかった。目標を静かに考えるのが黙想。無の心を作るのが静坐と数息観。数を数えていると無の心になるらしい。
「寝なきゃいけない時に、羊の数を数えるあれか!」
大発見だとばかりに声をあげた麻倫には悪いのだが、多分違うと思う。
◇
「よろしい。いよいよ稽古に入ります」
そうして、長く苦しい――、数々の礼法と座禅をくぐり抜けた俺たちは、ようやく待ちに待った稽古を体験する段階へと至った。
母が上座から立ち、道場の隅に置かれたかご型の竹刀立てのもとへと向かう。いよいよだ。
痺れた足に血が通うよう、こまめにもぞもぞとしながら、まるで餌を待つ雛のように母から竹刀が配られるのを待った。本当ならば「手伝うよ」と駆け付けたかったのだが、満足に歩けず、静かに断念したのは秘密だ。
そうして母は道場の隅に辿り着き、竹刀立てには一瞥も向けずにスルーする。
「え?」
母が見ていたのは壁だった。壁には様々な大きさ、長さの木刀や模造刀が架けられている。
母ががちゃりと両手に二本ずつ手にしたのは、白っぽい木刀だった。
「これ……、竹刀じゃ、ない?」
「はい、木刀と言います。材質は桐。当面はこの桐の木刀でのみ稽古をします」
手渡されたものを見ながら、呟く乃亜の言葉を母が肯定する。
俺は手に収まった、やけに白っぽい木刀を見ながら戸惑いを隠せなかった。子どものおもちゃだと言われれば、信じてしまいそうなほどに軽い。軽く頭をはたいても怪我すらしなさそうだ。初心者は軽いものを使えと言うことか?
三人も同じことを思っているのだろう。説明を求める目をしていた。
「先生、試合では竹刀を使うんですよね? なぜ、この木刀で練習するんですか?」
「悪い握り、悪い刃筋を身につけないようにするためです」
良いですか? と母が竹刀と木刀の柄を俺たちに見せる。
「何が違うか、指摘してみてください」
「形が違います。竹刀は丸くて……、木刀は楕円。小判みたいな形」
「この形状の違いを意識しておかないと、悪い癖がつくのです」
言って、母は竹刀と木刀、二刀の柄の先を握る。
最初はまるでトンカチを握るみたいに” グー”で握った。先日、麻倫が失敗したバット握りにも近い。すると、二刀の剣の先に変化が現れる。木刀の先がやたら上に持ち上がるのだ。
「木刀は悪い握りがすぐに分かります。反面、竹刀は悪い握りを手首の柔らかさで隠しやすい。うちの道場では誤った握りを許しません」
俺たちはちらりとお互いに見合い、先日学んだ斜め握りを再現する。
母が無言で俺たちを観察する。
「一応、小指半掛け、人差し指の緩ませ方は勉強したのね。ただ――」
母は一人ずつ手を取り、指の位置を直していく。
「まだ甘い。力の配分は左七割、右三割。握る強さは卵を潰さない程度に緩める。そうすると、肩が落ちてくる。そう、それくらい」
さらには背筋の伸ばし方、前で握る拳の位置まで細かくみられる。左拳をへそから拳一つ分だけ離し、木刀の先は胸元から喉の範囲を狙うように向ける。肘は床に向ける。まるで、両手で水をすくうようなポーズから、手首だけ握手をするように回内動作を行う。これ……、
「めちゃめちゃ窮屈だな。余計な力が入る」
「隙のない構えというものは窮屈で正解の限られたものですよ。少なくとも立ち位置の決まっている初太刀は」
俺は母の答えに、将棋や囲碁にある定石のようなものを感じた。
母は続ける。
「よろしい。構えは一通りできましたね。それではその構えをずっと保ったまま、今日はここから。足さばきだけ、ひたすらやります」
「え、それだけ……?」
「それだけ」
乃亜の意外そうな呟きに母は返し、道場の端から端まで見渡せる距離を指し示した。
「まずは剣道の大前提となるすり足を学びます。私が見本を見せますので、真似してやってみなさい」
そう言うと母は木刀を構え、ゆっくりと足さばきを始めた。確か歩み足と呼ばれる足さばきだったはずだ。右足と左足が交互に前に来る、普通の歩き方にも似た動き。だというのに、
「わぁ……」
長い前髪の隙間から乃亜が目を輝かせた。母の歩き方は、まるで足の裏が床に吸い付いたかのように離れず、頭の位置が上下に揺れない。木刀の構えは崩れず、ただ袴だけが静かに動いている。
「すご、幽霊みたい!」
麻倫の言葉は言い得て妙だと思った。振り返った母が俺たちに” 問”を出す。
「床から足の裏を離さない歩法をすり足と言います。剣道は基本的に全ての動きがすり足から始まります。なぜだと思いますか?」
三人娘があたふたとしながら、ああでもないこうでもないと話し始める。
「スピードは飛んだり跳ねたり、陸上みたいな動き方の方があるよね」
「逆に考えたらいいんじゃね。飛んだり跳ねたりしたらいけない理由。分かった。ゲームだと空中でガードができない!」
「剣道に、空中戦……?」
俺の知っている格闘ゲームだと大抵空中ガードあるんだけどなあ、多分想定しているゲームが違うのだろうな、と内心世代間ギャップに戦慄していると、母から水を向けられた。
「廉平さんも修行者です。ちゃんと答えを考えなさい」
「ん、いや。これは答えが分かるからさ。混ざるとネタバレになると思って」
三人娘の注目が一気に集まる。俺は母に良いのかと目で問うた。良いらしい。
俺は続ける。
「要するに地面に足をつけておかないと力が入らないって言う話だよ」
俺は木刀をラケットのように持ち、足を肩幅まで広げた。
「テニスというか、スポーツ全般にはスプリットステップというものがある。これは相手の動きに対応できるよう、パワーポジションをとるためのステップ。地面の反力を貰って、右へ左へと瞬発する。こんな感じ」
と、俺は姿勢を落として右へ跳び、姿勢を落として左へ跳んだ。
「ラケット競技は、このパワーポジションをとるまでリラックスする。競技時間も長いしね。相手の球が飛んでくる直前まで。多分なんだが、剣道は相手の打突が飛んでくる距離が短すぎて、リラックスできないんだ。いつでも動けなきゃいけない。常にパワーポジション」
説明を続けながら、俺自身も思考を整理する。
要するに剣道はあれだ。陸上の”よーいどん”を常にできるよう構えながら、位置取りの微調整を行い、隙を窺い打ち合う競技なのだ。窮屈だし、常に気を張る。そうか、これが――、
「あ、残心……」
乃亜の言葉に閃くものがあった。礼法の角度まで決まった、やたら堅苦しい動き方も、すべてはここに繋がるのだ。
「それを私たち剣道家は足の”つくり”と言います」
母は満足げに頷いた。
「手より先に足のつくり。足より先に姿勢。姿勢より先に、怖がらず踏み込む心。心より先に隙を見抜く目。剣道では一眼二足三胆四力という言葉があります。刀の振り方は最後で十分」
意味が分かると、稽古の順番もすんなり飲み込める。
正直、目から鱗だった。
俺は部活での指導中、ここまで理詰めの教え方をしただろうか。習うより、慣れろが基本だったと思う。球を打ち合い、競争する中で学ぶことがあると考えていた。これをテニスの指導に持ち込めれば……、いや。
俺は考えを振り切るように首を振り、構えた。
「それでは歩み足。端から端まで。はじめ!」
俺はこの子たちと剣道を始めたのだ。今は剣道に専念しよう。
意気揚々と稽古を始め、一時間後には足がつりそうになった。
「もう一度、はじめ!」
ただひたすらに。
「もう一度、はじめ!」
本当にひたすら足さばきだけが続くのだ。
道場いっぱいを使い、前へ、後ろへ、何度も何度も、同じ動きを繰り返す。
「静先生、足、つりそう……」
麻倫が半泣きで訴えても、母は表情を崩さなかった。
「余計な力が入っている証拠。正しい足さばきはいくらでも続けられます」
容赦がない。
俺自身、正直に言えば侮っていた。普段からテニスの指導で走り込みには慣れている。三人娘よりは、よほど動けると高を括っていた。
だが、実際にやってみると、想像以上に堪える。
「……思ったより、キツいな、これ」
木刀を右手に、膝に手をつきながら、俺は素直な感想を漏らす。太ももとふくらはぎが痙攣している。母は、それを聞いて小さく笑った。
「大人と子どもじゃ、体重が違う。同じ足さばきでも、足腰にかかる負担は、あなたの方がずっと大きいわね」
「じゃあ、これは子どもの方が楽ってことか」
「楽、なんて言ったら、その子たちに睨まれるわよ」
実際、じとっと睨まれていた。手刀で謝罪をしておく。
母は、俺と三人娘を等しく見渡しながら続けた。
「剣道の理合いを分かっていない者ほど、どれだけ速く竹刀が振れるかを最初に考える。でも足ができていれば、自分の間合いで剣道ができる。相手の隙を逃さずに打ち込める。頭を使って、稽古の意味を考え続けること。これは大人の方が上手なはずよ。人生経験があるから。子どものあなたたちは、その分ひたすら繰り返すこと」
まだ繰り返すの? と三人が青い顔をしたところに母が微笑みを向ける。
「そろそろ変化をつけましょう」
三人の表情が、ぱっと明るくなった。
「次は送り足。右足と左足を正しい位置に保ったまま、すばやく移動する歩法です。コツは水たまりを、水面から足を離さず、飛び越えるように足を運ぶこと。さあ、頑張って」
「意味分かんないよ!」
たまらず悲鳴が上がったのも無理からぬことだった。
◇
三人の足さばきを、俺は自分の疲労と戦いながら見守る。
その違いは、思っていた以上にはっきりと表れていた。
麻倫は、半泣きながらも飲み込みが早い。元々の運動神経の良さがそのまま出ているのか、送り足の重心移動もスムーズで、次第に音を立てずに床を滑るようになっていく。
百花は、対照的だった。
「膝を曲げずに左足で体を押す。力ではなく体重で体を押す。上半身を傾けずに体重を動かす……」
理屈では理解しているはずなのに、身体がどこか硬い。膝の伸ばし方がぴんと張っていて、関節の無いロボットのようだ。ひざの裏を”ひかがみ”と言うが、麻倫はそこの伸ばし過ぎず、曲げ過ぎずと言った塩梅が上手い。だが、百花は同じように動かそうとして、ぎこちなく足がもつれる。
「……何で、こんなに、上手くいかないんですか」
悔しそうに呟く百花に、母は淡々と返した。
「頭で分かることと、身体ができることは別。焦らないで」
そして、乃亜だった。
俺は、彼女の足さばきを見て、思わず息を呑んだ。
恐ろしいほど静かだった。
足音がほとんどしない。重心の上下動もなく、まるで水面を滑るように、すっと前後左右へ移動し、すぐ自然体に戻る。剣道を習いはじめた生徒の動きとは、到底思えない。
稽古を見守っていた母の指導が、途中で止まった。
「……乃亜さん」
「はい……?」
「あなた、何か武道をやってた?」
乃亜は、ふるふると首を振る。
「それなら、日舞のお稽古をしていたとか」
「日舞って、何ですか……?」
首を傾ける。言葉の意味が分からないようだ。
母はしばらく乃亜を見つめたまま、考え込んでいた。
「じゃあ、その握り方は、どこで覚えたの」
母が指したのは、乃亜の手の内だった。先日もそうだったが、彼女の握りは妙に様になっている。決して一朝一夕ではない積み重ねを感じさせるものだった。
「もしかして、太鼓の撥は握ったことがあるのかしら」
「……あ」
乃亜が、初めて何かに思い当たったような声を出した。
「神社の……、お祭りで、和太鼓を、叩いていました……」
「神社……、里神楽もやっている? 場所は御伽神社?」
乃亜が、小さく頷く。
「神社の氏子会で、毎年呼ばれてたから……。お面をつけると緊張せずに踊れるし……」
母は、納得したように息を吐いた。
「なるほどね」
それだけ言うと、また指導に戻る。だが、その横顔には、隠しきれない興味の色が浮かんでいた。
◇
休憩を挟んだところで、母がふと道場の壁に掛けられた古い写真立てに目をやった。
「乃亜さん、麻倫さん、百花さん」
母が、三人を手招きする。
「せっかくだから、ちゃんと聞かせてちょうだい。何で剣道をやろうと思ったの?」
最初に口を開いたのは、麻倫だった。
「勝ちたいから!」
迷いのない即答だった。
「私を叩きのめしたアイツに、あんな負け方して、そのままでなんかいらんない。次会った時は、絶対に一本取る……!」
負けず嫌いな性格がそのまま声に出ていた。
「それに」
麻倫は、少し照れくさそうに続けた。
「のあちゃが、私が勝てなかった相手にすごい声出して、後ろに下がらせてた。勇気がある。すごいと思って……、私も、あんな風になれるか、試したくなった」
百花が、ぽつりと続く。
「私は……、正直、まだよく分かりません。でも、あの日の乃亜さんの気合い、忘れられなくて」
二人の視線が、自然と乃亜に向かう。
乃亜は、しばらく俯いていたが、やがて、小さな声で答えた。
「私……、ずっと、変わりたかったんです。涸れたままじゃ、嫌で。ワジみたいに、洪水が欲しかった」
その言葉の意味を、母は問い返さなかった。ただ、静かに頷いただけだった。
「そう。なら、続けなさい」
短い言葉だった。だが、そこには、これまでの人生で剣道と向き合ってきた母だからこその、重みが宿っていた。
◇
稽古が終わり、三人娘を見送った後、俺は母と二人、道場の片付けをしていた。
「どう?」
「筋はいいと思うわ。短髪の子は目が良い。長い髪の子は真面目。どちらも呑み込みは早いはず。でも、一番は……、あの前髪の子」
母の口ぶりに、珍しく熱がこもっている。
「乃亜さん?」
「ええ。あの子は他の二人とは立っている位置が既に違う」
母は、床を丁寧にモップで拭きながら、続けた。
「御伽神社の祭り、見たことあるわよね?」
「まあ、地元だしな」
返事をしながら、俺は記憶を思い起こす。
御伽神社は地元の氏子会が元気で、やたら祭りが多い。獅子舞も盆踊りも、例大祭では神楽も出る。地域学習で動画を生徒に見せたこともあったな。ただ、そのいずれもが剣道をやる上での強みになるとは、ちょっと思えない。体幹が強くなるとかか?
母はため息をつき、答えを言った。
「里神楽は、武人も演じるのよ」
「あっ」
「うちの里神楽は帰農した武士の影響が強いから、よその地域よりも武の要素が強いの。多分、本人も気づいてないと思うけど、こと足さばきに限って言えば……、彼女はもう出来上がっている」
俺は稽古中の乃亜の動きを思い出していた。静かであるという点にばかり目が行っていたが、むしろ注目すべきは自然体――。自然体とは無理のない姿勢、すぐに動ける状態のこと。それはすなわち” 残心”だ。
「やるからには責任を持ってみようと思っていたけど……、正直楽しみが増えたわ」
その声には義務感からは程遠い、隠しきれない弾みがあった。
ふと、いつかの母の言葉を思い出す。
――ようやく、願いが叶いそうだから。
あの時は、自分が竹刀を握ることを指して言った言葉だと思っていた。だが、結果としてみると、本当に叶おうとしているのはもっと別の何かなのかもしれない。
昼を過ぎ、道場の窓から差し込む光が、埃の舞う空気を一層輝かせている。
晴天は、恐らく明日も続きそうだ。




