第三話 剣道でなら相手と向き合えるかもしれない
鍵を開けて中に入ると、埃っぽい空気と、板張りの床特有の匂いが鼻を突いた。
「おほー、ここが道場!」
「和風!」
テンションがうなぎ登りの麻倫。犬養先生と妙に相性がいいらしく、意味もなくハイタッチを交わしている。
俺にとってはあまり良い思い出のない場所だが、三か月以上も出入りしていれば、何がどこにあるかくらいは自然と頭に入る。放置されていた卒業生の竹刀を適当に見繕い、三人娘に――、と何故か猛烈なアピールにより犬養先生にも――、手渡した。
「剣道と言ったら、まずは竹刀を振ることが第一だろう。まずは素振りから、やってみようか」
「ふふん、これくらい余裕ですよ」
犬養先生が竹刀を軽く構える。ぶんぶんと速度が乗っていて、意外にも様になっていた。ソフトボール部の指導で日頃からバットを振っているせいかもしれない。
「おーっ。私も!」
麻倫も負けじと竹刀を振り回す。
「イヤーッ!」
「ププー、クスクス! 麻倫ちゃん、それ完全に野球のバットの振り方だね。どうする? ソフトボール部入る?」
「何でそうなるの!」
犬養先生のからかい混じりの指摘に、麻倫がむきになる。
「だって、剣道は刀なんだから! もっと、上から振り下ろす感じじゃないと」
「こう!?」
袈裟切りの要領で思い切り振り回し、ぐるんと一回転する。まるで鍬を覚えたての農家だ。上手くいかない苛立ちに、麻倫は地団駄を踏んだ。
「小鍛冶先生教えて!」
まずやってみて、失敗して、そこから教わろうとする。百花や乃亜と比べても、明らかにフットワークが軽い。こういう子は知識に飢えているから、教え甲斐がある。
付け焼刃ではあるが、母から仕込まれた初歩の知識を披露することにした。
「野球っぽく見えるのは握り方の問題もあるかな。三人とユリT。左手で握手するような形作ってみな」
「はい、やってみた!」
「麻倫ちゃん痛いよ」
なぜか実際に犬養先生の手を握りしめている麻倫に苦笑しつつ、俺は続けた。
「そのまま、小指と薬指に力を入れて人差し指を軽く緩める……。そんな感じ。じゃあ、その手の形のまま竹刀を持つ。俺の持ち方がお手本」
いわゆる"斜め握り"と呼ばれるグリップを肌で理解するため、三人娘は思い思いのやり方で試行錯誤を重ねる。
麻倫は俺の手元をちらりと見ては、自分の心地よい握り方と見比べ、首をかしげる。百花はじっと目を凝らし、指の角度と力加減を細かく調整していく。完璧な模写を求めているらしい。
乃亜はというと、意外にも最初から一番"それらしい"握り方をしていた。初めてのはずなのに、何故だろう。
「先生、この持ち方……、力が入んない。振っても止まる気がしないよ!」
もどかしそうに麻倫が言う。先程から首をかしげていたのは、自分の中の違和感を拭えずにいたかららしい。指先の感覚は、案外麻倫が一番鋭いのかもしれない。
その感想を肯定しつつ、補足を加える。
「合っている。この握り方は力を入れないようにする握り方なんだ」
三人娘の、とりわけ麻倫の眉間に皺が寄る。頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいるようだった。犬養先生が苦笑しながら続けた。
「バットやゴルフクラブのヘッドを走らせる要領ですよね。固定するところ、してはいけないところの理解。この感覚を身につけるのが、何かを振る競技の第一歩になるんだよなあ」
「力が入んない握り方がいいってこと……?」
頷いて返す。
スポーツにおいて、グリップには必ず意味がある。野球、テニス、ゴルフ、剣道。指先一つ、雑にはできない。
麻倫は納得しがたいとばかりに口を尖らせた。
「振る方のお手本も見せて! 力を入れちゃ駄目な理由が分かんない!」
その要求に、思わず目を見開いた。フォームを気にする初心者はごまんといるが、動作の過程まで意識する初心者は珍しい。できる奴の考え方だ。
だが困ったことに、素振りの手本を見せられるほど習熟してはいない。俺は置物顧問だった。少し考え、先程のタケとの会話を思い出す。
「そこは文明の利器を使おう」
「文明の利器……?」
「別名スマートフォンとも言う」
スマートフォンをポケットから取り出し、皆の見ている前で剣道高段者の投稿する素振り動画を検索した。
「クソ初心者の蘊蓄よりも、こっちの方がどう考えても正しい」
「確かに。天才だ!」
「いや、それくらい誰にだって分かりますよね……?」
絶賛する麻倫と、冷たい目を向けてくる百花。コロンブスの卵という逸話を知らないのかと返しつつ、八段の先生が投稿していた動画を手本に、素振りを真似ることにした。
結果は、一目瞭然だった。
「ふんふん、成程ね」
麻倫の素振りは、見るからに竹刀のヘッドが走っている。
「な、何でぇ……?」
逆に百花はというと、形は綺麗なのに、どこかぎこちない。
「やあ」
乃亜は不思議だった。一見すると動画の通りに素振っているように見える。だが、何というか――。
「何か、乃亜ちゃん斬ってないなぁ。これ、言語化がめっちゃ難しいぞ。上手なんだけど、すごい違和感ある……」
解せないという顔で犬養先生が唸る。同感だった。同じ竹刀を振っているはずなのに、物を斬っている手応えがまるでない。
「まあでも、試合をしないなら、斬ってなくとも無問題では?」
「そうだなぁ……」
実際、前髪の隙間から覗く乃亜の表情は、教室にいた時よりずっと明るく見えた。こちらから何も言わずとも夢中で竹刀を振っているし、このまま気の済むまでやらせておくだけでいいのかもしれない。
そう思った矢先だった。
道場の鉄扉ががらりと開く。
そこに立っていたのは、朝倉紗良。先日退部届を持ってきた、元剣道部の二年生女子だった。
肩ほどに伸ばした髪を後ろで一つに縛り、前髪の一部を顎のラインに沿って両サイドに垂らしている。教員たちの間で「触覚」と呼ばれているヘアスタイルだ。まつ毛も眉も丁寧に整えられ、いかにも今どきといった風貌をしている。
「ありゃ、紗良ちゃん」
「ユリちゃんに、小鍛冶」
犬養先生の声に紗良が反応する。道場を見回し、竹刀を持つ三人娘を見て怪訝そうな顔をした後、俺を見てこれ見よがしに舌打ちした。
「何これ。あたしたちがいなくなったから、不登校児捕まえて剣道やるって? 大人しくテニスに戻ればいいのに。うざっ……」
「あっ、紗良ちゃん、それはいかんでしょ。今、たくさんの人に無礼かましてんよ」
毒づいた紗良に対し、犬養先生が表情を消して咎める。
「駄目なところをちゃんと言葉にするけど、小鍛冶先生に失礼。小鍛冶先生が剣道部にいることを紗良ちゃんが不満に思うのは筋が違う。小鍛冶先生は剣道部存続のために動いてくれた人。あなたたちは差し伸べられた手を振り払った人」
「ウザい。そいつに頼んだ覚えねえし――」
「――それとね」
口答えする紗良を遮るように、犬養先生が割って入る。いつも生徒の話を最後まで聞く彼女が、途中で言葉を止めるのは珍しいことだった。
「ここにいる三人は、ちゃんと学校に通っている。不登校なんて言葉を決して使うな!」
ソフトボール部仕込みの一喝だった。
「紗良ちゃん剣道部退部したんだよね。紗良ちゃんがこの一年半、部活を頑張っていたことは良く知ってる。だったら、事情を知らない外部の奴に『県に行けなかった。サボってたからだね』と言われたら、ムカつくよね。あんたが今言った言葉は、それと同じだよ!」
道場の空気がピリピリと震えた。犬養先生は生徒との距離が近い。英語の教科担当として、時には生徒会担当として行事の中で、紗良とは入学以来の一年半、途切れずに関わり続けてきた。二人の間には積み重ねがある。だからこそ、その言葉は彼女に届いていた。
「……不登校呼ばわりしたのは謝ります。ゴメン。でも小鍛冶には謝らない」
言って、紗良は俺を睨む。
「こいつが来てからの剣道部の空気、マジ最悪だった。稽古中、窓からテニス部見てたし。さっさと剣道部潰れろって気持ちが見え見え」
痛いところを突かれた。思わず怯む。
剣道部で置物になっていた頃、何度窓辺からテニスの練習を見ていたか分からない。それを「心を剣道部に置いていなかった」と言われれば、反論のしようがなかった。
……これも、俺の至らなかったところだ。
胸が痛む。申し訳なさもある。
だからこそ、はっきりと言葉にした。
「テニス部には戻らない」
「……はぁ?」
「一度剣道部を受け持った以上、このまま続ける。生徒がいる以上、俺はやめないし、拒まない」
紗良は一瞬言葉を失い、すぐに表情を歪めた。
「何それ、責任とかそういうの? うざ、マジでうざっ……!」
力いっぱい拳を握り、憎悪のこもったまなざしで俺だけでなく、三人娘までも見まわす。
「もう勝手にしろ……! でも、責任だって言うなら、大会には出ないで欲しい。玉手が雑魚学校になっているの、受け入れられないし、あたしの視界に玉手のネームが映るのも嫌。このまま道場に引きこもっててよ」
「は? 何だそれ」
あまりの言いように、麻倫が怒りを孕んだ声を返す。
「のあちゃが折角やる気出そうとしてんのに、ムカつくこと言うなよ!」
大股で紗良の目の前まで詰め寄り、思い切り張り倒そうとする。だが、その手を紗良が難なく捌き、麻倫の体勢が崩れた。
「――このっ!」
「何、暴力? これで剣道部廃部決定ね」
「だったら、剣道で勝負しろ! ぼこぼこにしてやるから!」
麻倫の言葉を聞いた途端、紗良の顔に冷笑が浮かぶ。
「まだ始めてすらいない素人が? 私をぼこぼこに? 良いよ、やってあげる」
心底馬鹿にした態度だった。それが余計に麻倫の怒りへ油を注ぐ。紗良はそのまま道場に入り、竹刀置き場から一本手に取ると、肩に担ぎながら俺を横目で見た。
「あんたがその子の防具つけたげてよ。それくらいできるでしょ。私はこのままでやるから」
「待て、これは喧嘩だ。認められない。怪我したらどうする」
制止も聞かず、紗良は笑みを深める。
「喧嘩になんて、絶対にならない。怪我もさせない。あたしらの稽古見てたんなら、防具つけずに寸止めで試合ってたのも見てんでしょ。こいつの打突なんて、かすりもしないから大丈夫」
「ふざけるな! だったら、私だって何もつけずにやる!」
怒りで我を失った麻倫が、紗良に向かって駆け出し、思い切り竹刀を振り下ろす。
その瞬間、身体を入れ替えるように前へ出た紗良が竹刀を捌き、横から麻倫を腕で押した。
「う、うわっ――」
姿勢を崩した麻倫の首に竹刀を押し付け、さらに倒す。尻もちをついたところに、紗良が竹刀を振り下ろした。
「ひっ――」
「はい、一本。腕で防御に、竹刀も落とした。ルール上反則だけど、もう負けを認めたってことでいいよね」
にやにやと見下ろしながら、紗良が言う。呆然としていた麻倫だったが、次第に実力差を思い知り、大きな両目からぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「チクショウ……」
「麻倫ちゃん……!」
百花と乃亜が駆け寄り、肩を抱く。その様子をつまらなそうに眺め、紗良は嘲るように笑った。
「アハ、完全に弱い者いじめだったけど、アンタから仕掛けた勝負だったからノーカンだよね。これに懲りたら、もう喧嘩売ってくんなよ」
言って、紗良は俺を見る。
「これなら、暴力事件じゃないからOKでしょ。もう、マジで目障りだから引きこもらせておいてよ」
「朝倉」
紗良がふてぶてしく笑みを深め、それから怪訝そうに眉を寄せる。再び竹刀を手に取り、立ち上がった者がいたからだ。
乃亜だった。
「……何よ、あんた。あんたもやるの?」
不機嫌そうな紗良の言葉に、乃亜が頷く。口も動かしているが、聞き取れなかったのか、紗良の機嫌がさらに悪くなった。
「ぼそぼそと何言ってるか、分かんないんだけど」
「……剣道部、入りたいって、言ったの……、私だから」
乃亜が道場の隅に積まれた防具に目をやる。
「小鍛冶先生、それ、どうやってつければいいですか」
◇
「乃亜さん、本当にやるのか」
人と向き合うのが怖くて、人のいなくなった部活を選んだはずの彼女が、硬い表情でこくりと頷いた。
「……やってみます」
母から教わった手順を思い出しながら、垂れ・胴・面・小手を不格好に装着させる。犬養先生が乃亜の面をつけるのを手伝ってくれた。
紗良は意外にも悪態をつかず、彼女が防具をつけ終えるのを待っていた。表情は不機嫌そのものだったが。
二人が向き合う。
先程の喧嘩じみた始まりとは違い、開始線に立ち、構えてからの勝負だった。
紗良も竹刀を中段に構えたまま、ピクリとも動かない。
道場の空気が、ぴんと張り詰めた。
「始めって言って」
「え……?」
いきなりの話に平静を欠いていた俺は、意味が呑み込めず、間抜けな声で聞き返した。こんなことも分からないのかとばかりに、紗良がぎろりと睨んでくる。
「試合なら、宣告が必要なんだって。それくらい、アンタがやって!」
「あ、は、はじめ!」
急かされ、慌てて宣告した瞬間、
「キェェェェェェェッッ!!」
紗良が本物の試合さながらの声を出した。空気がビリビリと震え、防具越しにそれを浴びた乃亜が、圧倒されて後ずさる。
その一瞬を狙いすまし、紗良が一撃を放つ。
「ツァァァァァァァァァァッッ!!」
床を踏み抜く乾いた音と、面布団が叩かれる鈍い音が同時に響いた。誰の目にも一本と分かる、綺麗な面打ちだった。紗良は打った勢いのまま乃亜とすれ違い、振り向きざま喉元に竹刀の先を突きつける。
「一本。二本勝負なら、もう一回。やる気ある?」
「あ、あ、あ……」
乃亜は圧倒されていた。
無理もない。生まれて初めて、剥き出しの戦意を浴びたのだ。百花を見て、麻倫を見て、犬養先生を見て、俺を見る。面越しにも戸惑いが見て取れた。
そして、意外にも小さく頷いた。
「……やるの? なら、また開始線に戻って」
再び二人が向き合う。
合図とともに、紗良が吼えた。歴戦の余裕を漂わせながら、一歩前に出る。その直後――、乃亜が大きく肩で息を吸い込んだ。
「――――――――――――――――――――――――――――――――」
一瞬、耳がおかしくなったのかと思うほど、鼓膜が震えた。
乃亜の絶叫だった。単に腹の底から出している、大きな声というだけではない。
生まれ変わりたい。
その一心が、痛いほど伝わってくる気合いだった。
紗良の右足が、半歩下がる。その事実に紗良自身が驚いたように固まり、
「ヅァッッ!!」
勢いをつけた紗良の面打ちが、乃亜の面布団にえぐり込まれた。
勝負あり。
ぺたんと座り込む乃亜。紗良は信じがたいものを見たという顔で彼女を見つめ、
「わ、忘れ物を取りに来ただけだから」
ひったくるように私物を持って、道場を出て行った。
残された俺たちは、慌てて乃亜の面を外す。
乃亜は泣いていなかった。手拭いで長い前髪がまとめられているおかげで、初めて彼女の顔をまともに見ることができた。その性格からは想像もつかないほど透き通った両の瞳が、驚きに満ちていた。
「先生、私、試合に出たい」
「え?」
思わず聞き返す。予想もしていなかった言葉だった。
「すごく怖かった。でも、相手を見ることができた」
乃亜が顔を上げる。涼しげな顔立ちに、隠しきれない高揚が広がっていた。
「私、剣道でなら相手と向き合えるかもしれない――」
◇
あの後、麻倫が「私も剣道部に入る。絶対にリベンジする!」と叫び、百花も「せっかくできた仲間なので。置いていかれるのは、嫌」だと言ったことで、廃部寸前だった剣道部は、部員数三人の過疎部活へと生まれ変わった。
三人が帰った後、道場の片付けをしながら、犬養先生がぽつりと呟いた。
「カジT、すいません。うち、敢えてさっきのやり取り、止めませんでした」
「ユリT」
彼女は俺を見ずに、続ける。
「紗良ちゃんの溜め込んでいた怒りは吐き出させた方がいい。うちらの見ているところでなら、致命的な決裂に至らない。これは成長につながると判断したからです。でも怪我をしてたら、大問題でした。だから謝ります」
「あー」
責める気にはなれなかった。まったく同感だったからだ。
「啐啄って言葉あるだろ」
「ああ、卵の殻の話。確か、雛が内側から叩く音が啐で、親鳥が外側から叩く音が啄でしたっけ」
頷いて返す。
「すごい音だったと思う」
「ああ、乃亜ちゃんの……。親鳥は合わせるの大変ですね」
苦笑する犬養先生に生返事をしながら、乃亜の気合いを思い返していた。
あれだけの勇気を見せられて、だ。
俺はこれから、ただ緩く眺めているだけでいいのか。
『先生、私、試合に出たい』
彼女は確かにそう言った。
あの瞬間、俺には責任が生まれた。彼女の啐に対し、それに見合った啄を返さねばなるまい。
万難を排して、彼女を剣道の表舞台に立たせる。そのためには……。
道場の隅に立てかけられた竹刀を眺めながら、俺は静かに、心を決めた。
◇
学校からの帰り道、自転車を漕ぎながら、俺はずっと乃亜の「試合に出たい」という一言を反芻していた。あの気合い、あの覚悟に見合うだけの指導を、俺一人で用意できるとは到底思えない。
だから、人に頼ることにした。
「私が……、子どもの指導を?」
夕飯の席で切り出すと、母は箸を止め、まじまじと俺の顔を見た。
「うん。前に言っただろ。教えてくれるって」
俺は大量のおかずを箸で一つまみにしては、口に放り込みつつ、そう答える。
今日は瓜の味噌汁に、豆苗と豚肉の醤油炒めだった。特に瓜が、夏を感じられてうまい。
「あれは廉平さんに教えるという意味で言ったのだけれど……」
戸惑う母に対して、俺は続ける。
「昨日、部活をやりたいって言ってきた子と、今日剣道をやってみた」
「ええ」
母は箸を置き、先を促すようにこちらを見た。
「上手いとか下手とかは正直まだ良く分からない。でも、気持ちが強かった。生半な向き合い方では駄目だと思った。だから、母さんに頼みたいんだ」
「ふうん」
母はすぐに頷かなかった。
「人一人を預かるということは、軽いことではないものね。廉平さんは正しいわ」
「あ、いや……。一人じゃない。三人。言葉が足りなかった」
「それははじめに言ってちょうだい」
母は、そう言いながらも、口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「一人一人個性の違う三人娘。まだ本当に始めたばかりで、型もへったくれもないような状態だけど」
「経験の有無は問題じゃありません」
母は、味噌汁をひとすすりしてから続けた。
「確認するけど、本当に私の指導で良いのね? 期待しているものと違うかもしれないわよ?」
「母さんにお願いしたい」
俺ははっきりと言う。
地元にはいくつも道場がある。探し回れば、受け入れてくれる場所もあるかもしれない。だが、複雑な事情を持つ三人娘を、無責任に放り込むというのは絶対にダメだ。
人に頼ると決めはした。だが、俺が見なくていいわけではない。
俺が首を突っ込んでも煩がられず、その性格も理解できている母は、まさに理想の外部指導者だった。
母は茶を口に含み、それから言った。
「そこまで言うなら、受け入れます。今週末の土曜の午前から。準備をして待っているわ」




