第十話 先生、部活がやりたいです
総体の敗退から数日が経ち、七月に入った。
校内では上旬に予定されている期末テストに向けて、生徒はテスト勉強、教員はチェックと印刷で慌ただしくしている。
俺はと言えば期末テストの問題作成を秒で終わらせ、支援センターの教室で書類の整理をしながら、枯れた老人のように三人娘の様子を見守っていた。
手持ち無沙汰になると、つい大耀の机を拭いてしまう。今日だけで、もう三度目になる。
職員室にはあまり顔を出していない。居心地が悪いからだ。
俺と剣道部保護者が揉めた件は、瞬く間に噂として拡がっていった。よほど生徒との関係が悪化していない限り、総体は三年生の担任が応援に行くことが多い。恐らくは、あのやり取りを目の当たりにしていた教員が多かったのだろう。職員室内において、俺はまるで腫物のように扱われていた。
『長い教員人生。こんなことはざらにある! むしろ、廉君は今までトラブってこなかったことがすごいくらいだよ』
とフォローを入れてくれたのは瀬川先生だった。人情に篤い教員たち、同じような失敗を犯したことのある教員たちも、色々と気を回してくれている。
『そもそも管理職が悪いんだ。今年度の人事を弄りすぎたんだよ。地域の信頼を損ねたとか言って改革を進めようとしているけど、本当迷惑でしかないね。そう思うだろ?』
何人もの教員が、このようなことを言って賛同を求めてきた。彼らは俺への同情というよりは、管理職を攻撃できる格好の材料を手に入れたと考え、俺を肴に校長バッシングを始めたいようだ。
『ありゃま。小鍛冶先生。ミスっちゃったんですねえ』
教員としてのキャリアに瑕がついたと値踏みしてくる者もいる。首藤先生が露骨だった。体育会系の世界で生きる術を良く心得ているため、ヒエラルキーの変化に敏感なのだろう。
正直、どいつもこいつも放っておいてくれとしか言えない。善意から声をかけてくれている人たちも含めてだ。
今回の俺の仕事は『問題まみれの剣道部を、穏便に店仕舞いすること』にある。年度の初めに廃部をさせては、学校を相手取った抗議活動に発展しかねない。だから、俺が泥をかぶる必要があった。それだけの話である。
俺は目の前の教卓に乱雑に置かれていた退部届の束をぴらりと手に持つ。
失意のまま三年生が引退した翌日、経験者組として生き残っていた二年生も軒並み退部届を出しに来た。退部理由を書く欄には「もうこの部には何も期待できないから、総体に参加できる道場で剣道をやる」と書いてある。
だったら最初からそうしろよ、クソが……、とは言わない。俺も顧問になってから剣道業界について調べてみたのだが、どうやら総体に参加できる道場というのは道場同士の支部大会を勝ち抜いた、全国でも名の知れた強豪だけが選ばれているらしい。
そうした道場は会員数も三桁近くにまで達しており、当然ながら内部での競争は熾烈だ。故に移籍したから幸せになれるわけではない。
ならば俺にできることは一つ、レギュラー争い頑張れよ、とエールを送ることくらいだった。
「夏休みが待ち遠しい!」
物思いにふけっていたところに、麻倫の元気な声が聞こえてきた。相変わらず落ち着きはないが、自分の中でゴールが見えている時は静かに勉強もできる。俺はそういった静かな時の麻倫の状態を、ひそかに超集中モードと呼んでいた。
騒がしくなったということは、自分なりのゴールに行き着いたということだ。こうなったら、かまってくれる相手がいれば絡みに行くし、いなければ一人で遊びを始める。
今日は構ってくれる人のいる日だったらしい。
「麻倫ちゃんは、どこか遊びに行く予定があるの?」
と百花が麻倫に問う。彼女も勉強がひと段落したようだ。麻倫は構ってくれるのが嬉しいのか、満面の笑みで返した。
「お盆におじいちゃんとこ遊びに行くよ! もーてゃは?」
「私は……、特にないかな?」
言って、百花の表情に影が差す。
麻倫はそう言った相手の表情を読むことが苦手だ。だが、ルールとして「相手には相手のペースがある」ということが染みついてきているため、半ば機械的に相手の言葉を待つようになった。たっぷり三秒は待って、それから言いたいことを続ける。
「うーん、そうなんだ? じゃあ、一緒に遊ぼうよ。のあちゃも入れて!」
ガタッと机が鳴る音がした。
静かにノートを広げていた乃亜が、まさかの誘いに驚いたらしい。
「な、何で……?」
小声でうろたえる乃亜を、麻倫は不思議そうに見る。
「だって、友だちは一緒に遊ぶものでしょ!」
あんまりにド直球な発言に、俺は思わず吹き出してしまった。
「せ、先生……」
俺は乃亜にしたり顔で言った。
「ほれ、予言当たったでしょ」
しばらく呆けていた彼女だったが、すぐに口元が緩んでいく。そして麻倫に向かって頷いた。
「う、ん……」
「やった! じゃあ、何処に遊び行くか決めようね! もーてゃは?」
「わ、私は特に予定ないけど……。じゃあ、一緒しようかな……。でもそんなことやってる暇は……」
百花もしばらく悩んだ後、彼女の提案を受け入れた。ただ、お金を使わない範囲でと念を押していたが。
俺はわちゃわちゃとしている三人娘を、頬杖を突きながら眺めていた。
上手くいかないことがあれば、上手くいくこともある。人生そんなもんだ。
価値がない。最低の顧問――。
まだ俺の中には剣道部の保護者に言われた言葉がくすぶっていたが、この三人が前に歩めている以上、まだ先生としての価値はあるはずだと言い聞かせられる。
麻倫がタブレットを取り出し、百花と一緒に市内のマップを見ている。乃亜は柔らかな表情でそれを見ていた。
ふと乃亜が俺の方をちらりと見た。それから一度躊躇い、やがて意を決したように、机の中から一枚の紙を取り出す。
質問用紙だった。
入学初日、彼女が初めて使ったあの紙を、彼女は今でも時々使ってくれる。
乃亜はしばらく紙の上でペンを迷わせていたが、やがて何かを書き終えると、そっとこちらへ差し出してきた。
俺は周りに見えないよう、静かに紙を開く。
『先生、次は部活がやってみたいです』
その一文を、俺は何度も読み返した。
「……へ? 部活? って、あ。これ言っていい奴?」
我ながら間抜けだなと思う声で問い返すと、乃亜はしっかりと頷く。
長い前髪の隙間から見える目は、確かに俺をじっと見ていた。
「そうか、センターの生徒が部活をやってはいけないという決まりはない。それじゃあ、文芸部や合唱部あたりに声をかけてみよう」
俺がそう言うと、乃亜はふるふると首を振った。そして自分の声で意思を伝えようとする。
「……運動部が」
その声は、月を跨いですっかり腑抜けていた俺の魂を揺さぶった。
いつぞやの授業を思い出す。
『雨が少しでも降ったら、 生まれ変わりレベルで洪水が起きるんじゃないかな。しおしおは、大変化の前兆なんだ』
この子は洪水を求めているのか。だったら、ちゃんと雨を降らせなきゃだめだ。俺はこの子のサポーターだから。
俺は彼女の願いを真摯に受け止め、どんな部活が最適かを考え始める。
「運動部、かあ……」
まずネックなのは、彼女がまともに人と顔を合わせられないということだ。慣れた相手でないと、まともな会話も成立しない。チームスポーツはまず無理だと思う。
また指導者との相性も問題だ。彼女は相性の悪い教員にひどいトラウマがある。下手な教員に繊細な彼女を預けることはできない。
「え、のあちゃ部活入るの? 何部!?」
と麻倫に詰め寄られる彼女に対し、俺は質問の回答を保留した。回答は後日。放課後の会議前に運動部の先生たちと話してみる、と言って。
その後職員室へ向かった俺は、会議準備中の運動部顧問に片っ端から声をかけていった。
「乃亜ちゃんね。授業は持ったことないけど、ちらっと見たことはある。良いよ。彼女がOKなら、バレー部で責任もって彼女を預かる。輝かせてみせるよ」
とは瀬川先生。シャキッとした姿勢で胸を張って笑う。この人に預ければ悪いことにはならないだろうという信頼感があった。
「あー、汐か。別にサッカーで預かっても良いぞ。あの子の真面目さは嫌いじゃない。元気はないけどな。いっそのこと、他の二人も入れて女子サッカー部にしよう」
栗岡先生からは、若干野望を感じさせる言い回しだったが、三人との相性の良さを感じた。この人も強面、高圧的ながら、元気のない生徒と関わるのは得意な方だ。ただ、バレーもサッカーもネックなのはチームスポーツだということ。
「うちが預かってみたいっす!」と息巻いていた犬養先生と同様に、生徒間のトラブルが起きる可能性をどうしても拭いきれない。かと言って、うちは個人競技が少ないんだよな……。卓球や陸上、バドミントンの顧問にはやんわりと断られた。既に人数が多すぎる。トラブルの種になりそうだから、と。
もう会議が始まってしまう。俺は自分の席に座り、背もたれに体重を預けて背伸びをした。
◇
「それでは夏休み前の職員会議を始めます。お手元の資料をご覧ください」
教務主任の言葉を聞き流しつつ、集中できていない自分を自覚しながら会議資料に目を通す。議題は合唱祭と校外学習、動画発表祭と秋の学校行事についてだ。
会議資料をめくりながらも、頭の中では乃亜の「……運動部が」という小さな声が繰り返されていた。
音楽科の能見先生が合唱祭本番までのスケジュールを説明する。例年と変わらず、問題なし。校外学習は各学年主任から説明された。今年度の俺には関わりのない行事だ。
最後の動画発表祭について、例年と違う内容が犬養先生から語られた。
「あー、えっとですね。今年も昨年に引き続き動画発表祭を行いたいと生徒会本部役員から提案されました。また昨年度の提案資料にもありました通り、今年度は五、六時間目を利用するのではなく、丸一日行事の時間に充てる予定です」
その言葉で、職員室内の空気が一瞬で変わった。
カタカタと職員会議を無視してキーボードを打っていたベテランの教員の手が止まる。
「それ、必要ですか?」
「え? いや、昨年度に議題として提案して通っていましたし、今年度の年間行事予定には一日実施と書いてあるんで」
「私、一度もやっていいと言ったことはないんですけど」
段々とベテラン教員がヒートアップしていく。他の教員もざわつき始めた。昨年度も反対意見は出ていたが、最終的には校長の判断でGOサインに至った経緯がある。
見ていられないとばかりに、花咲校長が口を挟んだ。
「先生。学校行事の実施判断については、原則として校長判断です」
「その判断が間違っているから、再三考え直せと言ってきました。準備期間中、四六時中生徒たちがタブレットを弄っていますよね。中には動画とは全く無関係の、ゲームをやっている生徒もいました。生徒指導が増えることは分かってるじゃないですか」
ベテラン教員のその言葉に、外部から赴任した桐生先生が「ゲームは、まずいですね……」と同意する。
犬養先生はじっとベテラン教員を見つめ、感情を隠すように無表情を貫いていた。
「……ゲームの件は、昨年度に生徒から反省で出ています。休み時間や放課後のタブレット使用を届け出制にして、許可証を腕章の形でタブレット使用者がかけることで対策をするという案が”生徒”から出ています。去年、資料に載せました」
「そういうことを言ってるんじゃないんだよ。分かんないかなあ……!」
分かんねえよ、と小声で呟いた犬養先生の声が、不思議と俺の耳には届いた。
「犬養先生は、『生徒が、生徒が』と生徒を人質にとって話しますがね、動くのは私たち教員でしょう。生徒指導が起きる行事を何で増やすんですか」
「企画、許可証の受付、当日の運営。すべて私と生徒会、行事の実行委員でまわしますので、先生は純粋に行事を楽しんでいただければと思います」
ここまできたら感情論だった。
動画の発表内容。聞き方。振り返り。学習発表も今回は入れる、など。SNSにあるような動画とは違うんだと説明しても、ベテランは頑なに受け入れない。
「生徒の思うがままに行動させた結果が、昨年度の”いじめ”だったんじゃないですかね!?」
だが、その言葉はラインを越えていた。
がたりと俺は立ち上がる。
アンタの意見を押し通すために、都合よく大耀の事件を使うんじゃない――!
そう叫ぼうとした瞬間、
「そこまで! ……今回の続きは書面で行います。お疲れさまでした!」
大音量で花咲校長から会議の打ち切りが宣告された。
見れば会議の予定時間は大幅に遅れ、勤務時間の定時寸前に差し掛かっている。
海老原先生がいそいそと帰り支度をし、
「すいません、子どもが……」
とタイムカードを押しに行った。
破裂しそうなほどに張り詰めた空気は急速に萎えていき、皆が「お疲れさまでした」と職員室から出ていく。文句を言っていたベテラン教員もその一人だ。
俺は振り上げたこぶしを下す先を失い、もやもやした思いを抱えたままセンターに戻ることにする。
◇
「カジさん! カジパイセン! センターに戻るんですよね? うちも遊び行きます」
センターへ戻る途中、目を大きく見開きっぱなしの犬養先生に声をかけられた。
何となく彼女のやりたいことを察せられたため、
「おう」
と言葉少なに答えてセンターへ向かう。犬養先生は大股でずんずんと歩いていた。
そして校舎の片隅にあるドアを乱暴に開け、
「ふっざけんじゃねえ! あのクソオヤジ!」
と思い切りソファを蹴り飛ばした。
「ユリT。それ、つま先痛くないの?」
「痛いっすよ! でも痛いから、怒りが少し紛れます!」
「そうなんだ。アンガーマネジメント上手だね……」
犬養先生はそのままぬいぐるみを振り回し、ソファにダイブする。
「あー……、これ来年度の合同発表会通らないわ。もう絶対……」
声が震えていた。
「合同発表会?」
「生徒会の子たちが企画練ってたんですよ。自分たちの卒業後、もっと動画発表会を凄いものにしたいって。近隣小学校や隣接学区の中学校も交えた形にって。もうやだ、あの子たちに会わせる顔がない……」
「そっか」
犬養先生は他の教員と比べても、フットワークが軽い。フットワークの軽さは軋轢を生む。
「動画だからこそ、人前だと上がっちゃう子たちにも役割をあげられるってのに……」
俺の後に赴任してきた彼女のこうした姿を、今までに何度も見てきた。
しばらくめそめそしていた彼女は、気持ちが落ち着いた途端、すぐに立ち直り、
「うし、泣き言終了。お疲れさまでした!」
と帰っていった。本当に強い女性だと思う。
◇
俺はソファに腰掛けながら、ぬいぐるみの位置を直す。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
帰ろうと思った瞬間、
「やべ、乃亜さんの件どうしよ……」
大事なことを思い出す。
チーム競技はダメ。個人競技だって相手と向き合う。教員との相性次第では不登校のきっかけになりかねない……。
一体全体どんな部活だったら行けるんだって言うんだ。どの部活も厳しい――。
俺は自分の頬をぺしりと叩いた。
犬養先生と生徒会の子たちは、感染症で面と向かってできなくなった文化祭を、リモートという形で救い出している。
乃亜の前に立ちふさがる障害を細かく分ければ突破口が見えてくるかもしれない。
例えば、面と向き合わない形で個人競技はできないか。例えばEスポーツとか……? いや、うちに部がないし、そもそも乃亜の考える運動に当てはまるか疑問だ。
俺はソファに深く体を預けながら、何かヒントになるものはないかと部屋中を見まわした。壁に立てかけたテニスラケット。何かの参考になると思い購入した剣道雑誌。
「ん……?」
閃くものがあった。面と向き合わない。例えば、ひたすら素振りやフォームの練習をやっていたっていいわけだ。現にうちの母は、そうやっている。
大火傷をしたが、折角店仕舞いしたものを再び開くのはどうなんだ、という思いもあった。このまま捨て置けば、またテニスに関われる可能性は高い。だが。
「後は、乃亜さんが受け入れるかどうかだな……」
あの子は洪水を求めている。可能性があるのなら、大雨を降らしてやるのが先生の仕事だ。
「いや、でもキャラ的に合わねえよなあ。……まあ、物は試しだ。明日言ってみるかあ」
とびっきりの、旧約聖書に書かれたみたいな大洪水を起こしてやろうと、心に決めた。




