第九話 アンタは、最低の顧問だ
剣道部の経験者組は、十人余りいる。
だが、総体の団体戦に出場できるのは、たった五人だ。補欠に回れるのも、二人だけ。
初心者組が抜けたことで、部内の緊張は、むしろ増していた。今まで初心者組が引き受けていた雑務――、道場の清掃、竹刀のささくれ削り、防具や道着の後片付け――、それらを、誰かが肩代わりしなければならなくなったからだ。
その役目を、いつからか、押し付けられている生徒がいた。
レギュラー争いの中でも、下位に位置する一人だった。稽古の後、皆が着替えを済ませて帰っていく中、彼だけが最後まで道場に残り、黙々と雑巾がけをしている。
ある日、俺がいつも通り道場の隅に立っていると、稽古後の片付けの最中、鬼塚が、その生徒に向かって声を荒げた。
「おい、竹刀、まだ削り終わってねえのか」
「わ、悪い。今日中には……」
「今日中じゃ遅いんだよ。明日の稽古、これ使うんだから」
鬼塚は苛立たしげに舌打ちすると、足を軽く振り上げる。
鈍い音が響いた。
蹴られた生徒は声も上げず、その場に片膝をつく。
「……次から、気をつけろよ」
鬼塚はそれだけ言うと、興味を失ったように背を向ける。
周りの部員たちは、誰も止めようとしない。見て見ぬふりを決め込んでいた。
俺は気づけば、道場の中央まで足を踏み出す。
「鬼塚」
声が、思いのほか低く出る。
「今のは見過ごせない」
鬼塚が、うんざりした顔でこちらを振り返った。
「先生には関係ないでしょう」
「関係はある。生徒に手を上げることを、俺は許さない」
鬼塚は取り合う気もないとばかりに、首を振った。
「は? 俺らの問題に、口出さないでくださいよ」
「これは、部の問題じゃない。暴力の問題だ」
俺の言葉に、鬼塚の表情が初めてはっきりと歪む。
「……偉そうに。未経験のくせに」
低い声で吐き捨てた。
「先生に、俺らの何が分かるんですか」
「分からない。だから、教えてほしいと言ってるだろ」
俺は、鬼塚の目をまっすぐに見返す。
「それでも、これだけは譲れない。誰かを蹴り飛ばすことは、勝つための努力とは、何の関係もない」
道場が、しんと静まり返った。
鬼塚はしばらく俺を睨みつけていたが、やがて忌々しげに顔を背ける。
「……マジうぜえ」
それだけ言うと、着替えもそこそこに、道場を出て行った。
残された部員たちは、気まずそうに視線を逸らしたまま、それぞれの片付けに戻っていく。
俺はまだ片膝をついたままの生徒に手を差し伸べた。
「大丈夫か」
生徒は、驚いたように俺を見上げる。だが、その手を取ることはなく、自分の力で立ち上がった。
「……大丈夫です」
小さな声だった。感謝でも、安堵でもない、どこか困惑したような響きがある。
助けを求めることにすら、慣れていないのかもしれない。
俺はそれ以上何も言わず、彼が竹刀のささくれを削り終えるのを、隣で黙って見守った。
小さな一歩だった。それでも、この部の中で初めて何かを守れた気がする。
だが同時に、俺には分かっていた。
鬼塚との溝は今日、決定的に深くなる。
そして、この歪んだ力関係が今の俺の一言だけで、簡単に消えるはずもないことも。
◇
それから総体まで残り二週間を切る。
道場の空気は日を追うごとに張り詰めていく。
専門の指導者がいない焦りは、生徒たち自身が一番強く感じていたのだろう。
保護者は結局、指導者を用意できなかった。なり手がいなかったのだ。やんわりと断られた場合もあれば、最初の一回だけ調子よく顔を出して、「仕事が忙しい」と言って来なくなった場合もある。
俺も最後の札として母の存在を打ち明けた。剣道の高段者で、皆の稽古を見られると思う、と。
返ってきた答えは冷笑だった。
「何処の道場の人ですか。剣清館? それなら、認めても良いですけど」
「いや、もう畳んでしまったが、自分の道場だった。段位は六段だったと思う」
鬼塚は段位を聞いて、少し考えた後、やっぱり駄目だと首を振った。
「駄目です。よく小さな剣友会とかにいるんですよ。年寄りで強くもないのに、偉そうにする奴ら。あいつら、勝ちたいって言ってるのに具体的な事なんて何も教えてくれない。先生の母親ってことは良い歳でしょ。うちらのやり方には合いません」
だよな、と鬼塚が部員たちに同意を求め、部員たちが一斉に頷く。やれ、歳が駄目だ。型に意味はない。試合で使えるテクニックが知りたい。
俺の提案を一蹴してから、誰に言われるでもなく、さらに練習量が増えていく。朝練、居残り、休憩時間の自主稽古。
その分、怪我も増えていく。
突き指、足首の軽い捻挫、竹刀ダコの悪化。俺にできることといえば、保冷剤を渡し、テーピングを巻き、あとは神崎先生に頼み込むことくらいだった。
「大した怪我じゃないから、大丈夫っス」
部員たちは決まってそう言って、稽古に戻っていく。応急処置さえしておけば、表面上は何とかなっているように見えた。
だが本当に問題だと感じたのは、身体の怪我ではなかった。
地稽古の中で、面越しに相手の顔を打ち抜くような必要以上に強い一撃が増えていることに、俺はうっすらと気づいていく。つばぜり合いもまるで取っ組み合っているようだ。お互いに腕を振り回し、相手を引き倒そうとしている。
「痛ってぇ、今の反則だろ」
「悪い、勢い余った。でも実戦的だろ」
そんなやり取りが次第に日常になっていった。誰も本気で咎めない。むしろ、それが度胸の証明であるかのように、双方が引かなくなっていく。
俺は何度か声をかけようとした。
「お前たちの剣道、少しラフプレーが過ぎるんじゃないか」
「先生には、分からないっスよ。これくらい普通なんで」
その一言で、いつも会話は終わる。
素人の俺では剣道の「普通」が分からない。格闘技なのだから、取っ組み合いはあってしかるべきと言われればそうかもしれない。
俺は彼らの抱える「危うさ」の正体を、正確に言い当てる言葉がまだ持てずにいた。
◇
総体を五日後に控えた放課後のことだ。
地稽古の最中、道場の中央でレギュラーの一人と、あの日、蹴られていた生徒が向き合っていた。
つばぜり合いになる。竹刀を押し合いながら、二人の距離が異様に近づいていく。
「ってぇ、押すなよ!」
「そっちこそ!」
声には既に稽古の緊張感を超えた、剥き出しの苛立ちが滲んでいる。
俺はその空気の変化に、遅れて気づいた。
「――待て!」
声をかけたが、間に合わない。
蹴られていた生徒が、力任せに相手を突き飛ばそうと身体ごと体当たりを仕掛ける。
それは稽古の駆け引きというより、ただの衝動だった。
押されたレギュラーが体勢を崩しながら、後ろに下がる。
その足が、もつれた。
二人の足が絡み合う。
そのまま、レギュラーの身体が大きく捻れながら、道場の床に叩きつけられた。
「ぐぅっ!」
くぐもった悲鳴が道場に響き、俺は慌てて駆け寄った。
「大丈夫か!」
倒れた生徒は足首を押さえたまま、顔を歪めている。動かそうとするだけで、脂汗が滲んだ。
「……足、変な方向に……」
声が、震えていた。
周りの部員たちが一斉に集まってきた。誰もが青ざめた顔をしている。
蹴られていた生徒は、突き飛ばした体勢のまま、その場に立ち尽くしていた。何が起きたのか、自分でも理解が追いついていない様子だった。
「救急車、呼ぶ」
俺は震える手でスマートフォンを取り出しながら、それでも努めて冷静な声を出そうとした。
このタイミングでの負傷が何を意味するのか、俺には痛いほど分かっている。
◇
総体当日、中央区の総合体育館には市内各校の剣道部が集まっていた。
うちの団体戦メンバーは、本レギュラーを一人欠いた形だ。
負傷したレギュラーの代わりに補欠から繰り上がったのは、あの日、鬼塚に蹴られていた生徒だった。彼を突き飛ばしたのが、他でもない自分自身だったという事実が、その顔に色濃く影を落としている。
ギャラリーで控える部員たちの空気は、重い。
誰も多くを語らない。鬼塚だけがいつも通りの仏頂面で、最終確認の声を張り上げていた。
「先鋒、次鋒で先取する作戦で行く……。抜けた穴は埋まらねえ。だったら、他で取り返すしかねえだろ」
その声には、これまでにない必死さが滲んでいる。
俺は生徒の隣に座って、無言で見ているしかなかった。
大会が始まる。
シードが決まっているため、二回戦からの勝負になり、初戦は順当に勝ち上がる。部員たちは喜びもしない。雑魚に勝つのは当然だと言わんばかりだった。
次の試合から雲行きが怪しくなってきた。素人の俺にはよく分からないが、剣道が嚙み合っていない。疲労も溜まっているようだった。
引き分けの多い、僅差の勝利が増える。部員たちは苛立ち、物に当たるようになった。
そして、県大会出場をかけた決勝リーグ。一戦も取りこぼしのできない戦いの中で限界が訪れた。
先鋒戦は辛くも一本勝ち。次鋒戦は引き分け。だが、中堅――、繰り上がったばかりの生徒が務めるその一戦で、流れが変わった。
緊張からか、動きが硬い。踏み込みも浅く、練習で見せていたはずの粘りが、まるで発揮できていない。
二本、続けて取られた。
副将、大将と、鬼塚たちが立て続けに取り返しにかかったが、一度傾いた流れは、そう簡単には戻らない。
結果、僅差での敗北だった。
県大会出場を懸けた、大事な一戦。それを、うちはあと一歩のところで逃す。
試合が終わった瞬間、体育館の隅で誰かが崩れ落ちるように座り込む音が聞こえる。
繰り上がった生徒だ。
誰も彼を責めない。だが、誰も慰めもしなかった。
ただ、重い沈黙だけがその場を支配している。
鬼塚は竹刀袋を担いだまま、しばらく動かずにいる。やがて、絞り出すように呟く。
「……終わったな」
彼の言葉は彼だけのものだ。
俺は剣道部の三年間をつぶさに見てきたわけではなかったため、彼の一言に込められた感情の重さを、正確に言い当てる言葉を持てない。
だが、三年生にとってこれが最後の総体だった。積み重ねてきたものがこの一戦で、全て断たれる――、そのことは理解できる。
俺は何も言えないまま、ただその場に立ち尽くしていた。
◇
会場の片付けを終え、保護者席の方へ目をやると、数人の保護者がまだ残っている。
その中に、あの保護者会で「あんたみたいな素人は要らない」と言い放った父親の姿があった。
彼は真っ直ぐにこちらへ歩いてくる。
「先生」
その声は、静かだった。だが静かであるほど、かえって底冷えするような怒りが滲んでいる。
「うちの子が、ずっと頑張ってきたのは、ご存知ですよね」
「……はい」
「団体戦、あと一歩だったんです。負傷者さえ出なければ、県大会に行けていたかもしれない」
俺は何も言い返せなかった。
レギュラーが怪我をした直後、被害者も加害者も保護者を交えて校長室を舞台に、訴訟もちらつかせた大喧嘩に発展した。このタイミングでの廃部を防ごうとしたのか、「事故だった」と生徒同士が証言したため、加害者の保護者が治療費を払う形で収まってはいるが、既に双方は絶縁状態だ。
今日だって怪我をしたレギュラーも、その保護者も応援に来ていない。もう自分の総体は終了したから関係ないと言わんばかりに……。
この父親も、そう言った経緯は知っているはずだが、それでも文句を言わずにはいられないのだろう。
怪我に至る前後関係はどうあれ、それが事実である以上、教員として反論する資格はない。
「未経験の人間に、無理に任せた結果が、これですか」
父親の声が、わずかに震えた。
「うちの子たちの三年間の集大成が、これで終わったんです。取り返しのつかないことだって、分かってますか」
俺は、何も言わない。
言い訳になる言葉はいくらでも浮かんだ。指導者不在の体制。生徒と信頼関係を築くことができなかったこと。部内の歪んだ力関係。積み重なった不和。だが、そのどれを口にしても、目の前にいる父親の怒りを和らげることはできないだろう。
「先生」
父親は最後に、俺の目をまっすぐに見据える。
「アンタは、最低の顧問だ」
その一言が、静まり返った体育館の中に、はっきりと響いた。
周りにいた保護者や生徒たちの視線が、一斉にこちらへ集まる。
誰も否定しない。
鬼塚も、他の部員たちも、俯いたまま、何も言わなかった。
その沈黙こそが、何よりも雄弁な答えだ。
俺は深く、頭を下げることしかできなかった。
「……申し訳、ございません」
顔を上げた時には、既に父親の姿はない。
体育館の外は、既に日が暮れかけていた。
俺はしばらく、その場を動けずにいる。
罪に対する罰を、俺は受け入れたつもりだった。
だが、これは……、俺はこんな思いをするような罪を犯したのか?
答えの得られぬ問いを抱えたまま、俺は暮れゆく空の下、重い足取りで家路についた。




