第八話 ワジのしおしお
五月二十日。肌が痛いくらいのお日様マーク。
不思議なもので、私の日記は三日坊主にならずに、コツコツとページ数が増えている。
学校には毎日登校できているし、最近のお母さんはすごく明るくなった。ご飯もおいしい。それだけでも、頑張って学校に通っている甲斐がある。
勉強も相変わらずのマイペースだ。私は小学校5年から6年の勉強がまともに受けられていないので、毎日国語と数学は小学校の範囲を勉強している。
英語や社会は皆と一緒。最近は初めて、二人の前で英語を発音できた。
自分の口はもうおんぼろの機械みたいにさび付いて動かなくなっているものだと思っていたから、声がちゃんと出た時には私が一番驚いた。
「へぁっ!?」
と変な声まで続いてしまったので、麻倫さんが床を転げまわりながら、大笑いしたのがだいぶ恥ずかしかったけど。
そんな麻倫さんだけど、案外勉強ができた。案外というのは失礼なんだけど、運動ばっかりやってきたのかなって思っていたから、通常学級でもやっている理科の小テストで満点を取ってた時には、すごいびっくりした。
本人曰く、得意不得意がはっきり分かれているらしい。一番の得意教科は体育。小学校時代にもサッカーのクラブチームでエースだったらしい。
私たちの体育は、栗岡先生っていう怖い顔の先生が担当してくれた。最初は裏庭でサッカー。いきなりサッカー? と思ったんだけど、三人と先生だけでボールをパスし合うのは、意外に楽しかった。勝ち負けで足を引っ張らないのも好き。
栗岡先生は最初の授業で鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていて、ギャップが面白かった。
「おいおい、お前らやれるクチだな。汐も竹花も運動できるじゃねえか。んで、一木。お前、うちの部に入れ。大会には出せねえが、良い女子サッカーの名門校探してやる」
「もう、サッカーはやんなーい!」
次の体育はバレー、その次は卓球をやるみたい。私は地元の神社で踊りをやっていたから、いつか来るダンスの時間が楽しみだったりする。
◇
五月二十三日。いつまでも続くお日様マーク。
百花さんは、何でこの教室にいるのか分からないくらいに勉強ができる。五教科の小テストはいつも九割を超えているし、普段の勉強はどんどん先取りで問題集を解いていた。
それでいて、私や麻倫さんが苦手教科の問題で悩んでいると、嬉しそうに教えてくれる。彼女とは同じ学校だったけど、同じクラスになったことはなかった。もし、同じクラスだったら、小学校はもっと楽しかったのかな?
そういえば、この教室には机が四つある。一つはいつも空っぽなのに、先生は毎朝、その机を一番丁寧に拭いている。誰の机なのか、私はまだ聞けていない。
教室で勉強をしていると、体育祭に向けた練習にいそしむ掛け声が、グラウンドの方から聞こえてくるようになった。
私たちは体育祭に出ないことになっている。まずは学校生活に慣れること優先らしい。お母さんからそうやって聞いた。
でも正直、小学校の運動会は大嫌いだった。誰かが失敗すると、「戦犯」って誰かが馬鹿にしてくるんだ。私はあの空気が本当に嫌で、いつだったか「戦犯」って言われた子をかばったことがある。
その結果、私は「A級戦犯」って呼ばれるようになった。塾で先取りで勉強してた頭のいい男子が言い始めたことだったけど、どんな意味か怖くて聞けなかった。
多分、その頃からだったと思う。私はあだ名が大嫌いになった。
日に日に元気がなくなっていき、学校へ行くのが億劫になる。
「汐さんは、もっと元気良く。そんな”しおしお”じゃ駄目よ」
そうして、四年生の担任の先生から叱られ、新しいあだ名に「しおしお」が追加された後、それからしばらくして、私は学校に行けなくなった。
だから、中学校に入ってからも怖かったんだ。いつかまたあだ名で傷つけられるんじゃないかって。
麻倫さんの言う「のあちゃ」なら許せる。でも。
「うへえ、あっつい。日差し強すぎでしょ! 外の花も”しおしお”になっちゃうよ!」
そんな風に麻倫さんが叫んだ時には、本当に体が強張った。それに彼女は頭がいい。すぐに自分の言葉が、百花さんと私の名前にかかっていることに気が付いた。
「そうだ、”しおしお”! 汐ちゃんだから”しおしお”だ!」
ここで私は、少しは楽しめた中学校生活も、これで終わりかと思った。でも、
「はい、三人とも。地図帳を開いてください」
私たちの担任の、小鍛冶先生が急にそんなことを言い始める。
麻倫さんは何か面白いことが始まると思って、地図帳を机の上にバンと出した。百花さんも戸惑いながら、出す。私も急な話にびっくりして、悲しい気持ちが吹き飛んでしまったから、出した。
先生は続ける。
「中東探してみ。教科書にも載ってたでしょ」
「ここです、先生」
百花さんが素早くアラビア半島あたりを指さす。探すというより知っている動きだった。
「そだね。麻倫さん、ここいらの気候覚えてる? 調べてたでしょ」
「乾燥帯。雨が降らないとこ」
先生は、うんと頷き、いつもみたいに「問」を降らせてきた。
「雨が降らないってことは川もないのかな。川がないと人も生活できなさそうだけど」
私は地図帳を見た。青い線が川のはず。イラクには大きな川があった。ティグリス川とユーフラテス川。雨が降らないのに何でだろう?
「先生、西アジアにはオアシスもありますし、山脈から流れる大河もあります。気候とは関係ないです」
「うん、そうだね。じゃあ他に小さな川とかはないの?」
先生の「問」は本当に難しい。クイズみたいにぱっと答えられるものがないんだ。理久君はこれがいいんだよって力説してたけど。
「あ、川あるじゃん。青い点線」
麻倫さんが大発見したとばかりに、地図帳を持ち上げた。百花さんは、「それは川じゃないんじゃ……」と言いながら、索引を見る。私も一緒に覗き込むと、枯れ川って書いてあった。
「今君たちが見つけた点線をワジと言う。普段、水の流れていない川のこと」
「じゃあ、いつ水が流れるの!」
麻倫さんの疑問はもっともだった。私も気になる。
先生はタブレットを起動して、NHKのドキュメンタリーを流してくれた。そこには、少しの雨がきっかけになって、大洪水に成長するワジの映像が映っていた。
「長年、雨が降らなかったことで地面が硬くなり、鉄砲水が発生するんだ。感覚としてはアスファルトの坂道を流れる、雨水に似ている。しおしおということは水が欲しいってこと。 そんなところに雨が少しでも降ったら、 生まれ変わりレベルで洪水が起きるんじゃないかな。しおしおは、大変化の前兆なんだ」
私は、家に帰ってからも先生の言っていた鉄砲水のシーンが頭から離れなかった。
それは、なにかきっかけか、勇気があれば私にも洪水が起きるんじゃないかと思ったからだ。ワジのしおしお。不思議と不快感はなかった。
そうしてベッドに潜り込んで、
「あっ」
とようやく思い出すくらいには、あだ名の存在が薄れてしまっていた。




