第七話 これで、廃部ですね
土曜日の午後、体育館脇の多目的室には、剣道部員の保護者たちが集まっていた。
用意した椅子は、ほぼ全て埋まっている。出席率の高さそのものが、この件への関心の強さを物語っていた。
最前列には校長が座っている。事情が事情だけに、今日は同席してもらうことになっていた。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます」
俺は、努めて落ち着いた声で切り出した。
「今年度、剣道部の顧問を務めることになりました、小鍛冶廉平と申します」
一礼する。だが、返ってきたのは拍手ではなく、値踏みするような視線の集中だった。
「まず、自己紹介からさせていただきます」
俺は、あらかじめ考えていた通りに話し始めた。
「これまで、ソフトテニス部の顧問をしておりました。剣道については、正直に申し上げます。経験はありません」
その一言で、会場の空気が目に見えて硬くなった。
「未経験ですが、皆さんと一緒に、稽古に励みたいと思っています」
俺なりの、精一杯の誠意のつもりだった。
だが、返ってきたのは失望の混じったため息だった。
「先生、それは邪魔になりませんか」
最前列に座っていた恰幅の良い母親が、遠慮なく口を挟んできた。
「うちの子たちは、ブロック大会進出に向けて、真剣にやってるんです。素人の方に、練習に付き合われても、正直、困ります」
「……そうですか」
俺は一度言葉を飲み込んだ。
「では、次に、活動方針についてご説明します」
資料を配りながら、俺は本題に入った。
「今年度から、活動ガイドラインを見直します。下校時間の厳守、週一日以上の休養日の設定、そして土日の活動は、どちらか一日までとさせていただきます」
その瞬間、会場がざわついた。
「今までは、夜まで練習があったはずですが」
「土日は、両方とも練習だったと聞いていますが」
次々と不満の声が上がる。
「はい。ですが、これは市の方針でもあり、教員の勤務環境を守る観点からも――」
「子どもたちの実力を伸ばす機会が減るということですよね」
鋭い声が飛んだ。会場の空気が一段と冷たくなる。
「加えて」
俺は続けざるを得なかった。
「部活動は、本来、生徒たちの自主的、主体的な活動です。先生が全てを管理するのではなく、生徒たち自身で考え、動いていく力を育てたいと考えています」
その言葉に会場が、一瞬静まり返った。
「……それは、つまり」
誰かが疑わしそうに呟く。
「先生は、指導する気がない、ということですか」
「いえ、そういうわけでは――」
「放任だ、ということですよね」
別の保護者が被せるように言った。
「未経験で、時間も減らして、それで自主性に任せる。それは、指導を放棄しているのと、同じじゃないですか」
俺は言葉を返そうとした。だが、その前に会場のあちこちから次々と声が上がり始めた。
「うちは、本気で強豪校に入れたつもりでした」
「今の説明で、余計に不安になりました」
反論する隙もないほどの勢いだった。
校長が、たまりかねたように立ち上がる。
「皆さん、少し、落ち着いてください」
その一声で、会場がいくらか静まった。
「小鍛冶先生は、誠意を持って取り組もうとしています。ガイドラインについても、これは玉手中だけの特別な措置ではなく、市全体の方針です。どうか――」
「校長先生」
最前列にいた父親が鋭く遮った。短く頭を刈りこんでいて、いかにも剣道経験者だと容易に分かる引き締まった体格でジャージを着こんでいる。
「もう一度、伺いたいのですが」
その声には、明確な険があった。
「先生は、段位をお持ちでないんですか」
会場が、一瞬静まり返る。
「……段位は、持っていません」
俺は正直に答えた。
「先ほども申し上げた通り、剣道の経験自体がありませんので」
だが、と俺は続けた。
「土日については、段位をお持ちの保護者の方に、指導者としてご協力いただければと考えています。もし心当たりがなければ、学校の方でも、外部から探してみます」
精一杯の対案のつもりだった。
だが、父親はゆっくりと首を振った。
「正直に言わせていただきます」
その声は抑えられているようで、抑えきれていなかった。
「あんたみたいな素人は、要らないんですよ。価値がない」
会場の空気が、凍りついた。
「うちの子たちには、きちんとした指導者が必要なんです。代わりを、寄こしてもらえませんか」
その一言が耳の奥で、鈍く反響した。
――代わりを、寄こせ。
これまで、飲み込んできたはずの言葉が、腹の底から一気にせり上がってくる。
大耀のこと。学年を外れたこと。テニス部を手放したこと。トモやタケ、宝田や三雲の顔。剣道部の生徒たちの、冷えきった視線。
全部を、俺なりに、受け入れてきたつもりだった。
だが、この一言だけは飲み込めなかった。
「――分かりました」
気づけば、そう口にしていた。
自分の声とは思えないほど、低く、平坦だった。
「そこまで仰るなら、じゃあ、やりません」
会場が、しんと静まり返る。
「これで、廃部ですね」
その一言が、多目的室の空気を完全に凍らせた。
校長が、驚愕の表情でこちらを見る。
「小鍛冶先生――」
父親も明らかに動揺していた。
「え、いや、そこまでは……」
「未経験の人間じゃ、指導する資格がないと、そう仰ったのはそちらです」
俺はもう止まらなかった。
「代わりを寄こせと言われても、他に手を挙げる教員はいません。それが、この学校の現実です。それでも、部の存続を望まれるなら――」
言葉が、そこで一度途切れる。
多目的室にいた誰もが、俺の次の言葉を待っていた。
その沈黙の中で、俺は自分がどこまで踏み込んでしまったのかを、ようやく自覚し始めていた。
「小鍛冶先生」
校長が静かに、だが有無を言わせない声で割って入った。
「少し、頭を冷やしましょう」
それから、会場全体を見渡す。
「廃部にする、という話は、誰もしていません。今この場で決めることでもない」
校長は一度、深く息を吸った。
「小鍛冶先生が未経験であることは、事実です。ですが、この学校には、他に剣道経験のある教員がいません。それも、また事実です」
淡々とした物言いだった。だが、その声にはこれ以上の混乱を許さない重みがあった。
「経験者を連れてきてほしいという気持ちは、痛いほど分かります。ですが、それが叶わない以上、今できる最善の体制で、生徒たちを見ていくしかない」
父親は苦い顔のまま、それでも何も言い返さなかった。
「……失礼しました。言い過ぎました」
やがて、絞り出すようにそれだけを口にする。
だが、その声に心からの謝罪の色は薄かった。撤回というより、これ以上の追及を諦めた、という響きに近い。
会場の空気は、いくらか落ち着きを取り戻した。だがそれは納得ではなく、単なる沈静化に過ぎないことを、俺は肌で感じていた。
「本日は、これで終了とさせていただきます」
俺がそう告げても、拍手はなかった。
保護者たちはそれぞれに複雑な表情を浮かべたまま、一人、また一人と席を立っていく。誰も、俺の目を見ようとはしなかった。
最後まで残っていた恰幅の良い母親が、帰り際、一言だけ残していった。
「先生の気持ちは、分かりました。でも、気持ちだけで、強くなれるわけじゃないので」
それだけ言うと、振り返ることなく、多目的室を出て行った。
誰もいなくなった部屋で、俺はしばらく立ち尽くしていた。
校長が隣に立つ。
「悪かったな。会の進め方が、まずかった」
「いえ……。俺が、我慢できなかっただけです」
「我慢すりゃ良かったってもんでもないさ」
校長はそう言って、力なく笑った。
「ただ、な。今日ので保護者たちとの間に、しこりが残ったのは間違いない」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
窓の外では、既に日が傾き始めている。
部の存続を、自分の言葉で人質に取ってしまった。その事実だけが重く胸に残った。
――もう取り返しは、つかないかもしれない。
鬱屈したものを抱えたまま、俺は片付けの手を動かし始めた。
◇
家に着く頃には、既に夜も更けていた。
玄関の戸を開けると、居間から線香の匂いが漂ってくる。
「おかえりなさい、廉平さん」
母の声には、いつもと変わらない穏やかさがあった。だが、俺の顔を見た瞬間、その表情がわずかに曇る。
「……何かあったのね」
「分かる?」
「三十六年、あなたの母親をやってるのよ」
母はそう言って小さく笑った。それから、何も聞かずに台所へと向かう。
夕飯を終え片付けも済んだ頃、母がふと洋間の窓の外――、離れの道場に目をやった。
「少し、竹刀を振らない?」
「今から?」
「こういう時は、身体を動かした方がいいの。頭で考えても、堂々巡りになるだけだから」
断る理由もなく、俺は母について道場へ足を運んだ。
電灯に照らされた板張りの床は冷え冷えとしている。母は俺に竹刀を手渡すと、自らも一本を手に取った。
「今日、何があったの」
素振りを始めながら、母が静かに問う。
俺はぽつりぽつりと、保護者会でのやり取りを話した。段位を聞かれたこと。「素人は要らない」と言われたこと。感情のまま、「じゃあ、やりません」と口走ってしまったこと。
母は黙って話を聞いていた。竹刀を振る音だけが道場に規則正しく響く。
「……甘かったな、俺」
自嘲するように呟くと、母の竹刀がぴたりと止まった。
「甘くはないわ」
その声には、俺が初めて聞く種類の強さがあった。
「あなたは、間違ったことは言っていない。ただ、剣道の世界は、正しさだけでは動かない場所なの」
「……どういうことさ」
「段位や実績が、そのまま人としての価値みたいに扱われる。それが、この世界の狭さであり、怖さでもある」
母は竹刀を構え直す。素人の俺から見ても容易に分かる、ぞくりとするほど整った構えだった。
「剣道の理念は、剣の理法の修練を通じて心身を鍛え、人間形成を目指す道である。日々の稽古を通じて他人を敬えるような人間を目指しなさい、ということ」
でも、と母は続ける。
「実際のところ、この世界のほとんどはそうなっていない。勝利を求めて、他人を敬わず……。人間形成の部分は、ただ上下関係に厳しいという形で広まっている」
そのまま竹刀を振りかぶり、空間を切る。竹刀が空を切る音が、はっきりと聞こえた。
「私も、道場を継いだばかりの頃、散々言われたわ。女に何が分かる、って。理念ばかりで勝てるのか、って。私が道場を畳んだのは、そんな人たちに剣道を教える気が失せてしまったからよ」
初めて聞く話だった。
「だから、あなたの悔しさは、痛いほど分かる。でも――」
母は俺の目を、まっすぐに見た。
「あなたは畳めないのでしょう? 剣道部という看板を。先生だから」
「……うん」
大耀の顔が目に浮かんだ。
「だったら、食らいつくしかないでしょう。今日失敗したと思うことを、明日に繋げればいい。これも剣道の理念よ」
厳しい言葉だった。だが、不思議と納得できた。
「その上で」
母は、ふっと表情を緩めた。
「基本の素振りだけでも、教えておく。せめて格好だけでも様になるように」
「今更?」
「今更でも、やらないよりはいいでしょう」
母はそう言うと、俺の構えを一つ一つ丁寧に直し始めた。
手の内の締め方。竹刀の握り。足の運び。
厳しい指導だった。だが、その厳しさの中には確かな温かさがあった。
冷えた道場に竹刀の風切り音だけが、いつまでも続いていた。
◇
保護者会から明けた月曜日、俺は初めて顧問として剣道部の稽古に臨んだ。
道場に入ると、経験者組は既に準備運動を終え、素振りを始めていた。
「おはよう」
声をかけても、誰も振り返らない。
俺は道場の正面に立ち、稽古の様子を見渡した。せめて声出しだけでも一緒にやろうと、腹から息を吸い込む。
「よし、声、出していこう!」
「先生」
鬼塚は竹刀を止めないまま、面倒くさそうに息を吐いた。
「口、挟まないでもらえますか」
「……声出しくらい、構わないだろう」
「邪魔だって、言ってるんですよ」
「それなら、素振りだけでも参加させてくれないか」
俺は食い下がる。
「防具も、当てがある。持ってこられる。皆が積み重ねてきた苦労を、俺も少しは体験してみたいんだ」
鬼塚がようやくこちらを向いた。その目には明確な拒絶の色がある。
「素人に見様見真似で振り回されたら、こっちの集中が乱れる。防具だって、付け焼き刃で構えられても迷惑なだけです。俺ら、ふざけてるわけじゃないんで」
周りの部員たちも手を止め、こちらを見ていた。誰も鬼塚の言葉を止めようとしない。
俺は開きかけた口を、そのまま閉じる。
「……分かった」
それだけ言うのが、精一杯だった。
結局、俺は道場の隅に立ち、彼らの稽古を見守ることしかできない。
面越しに響く気合いの声。竹刀のぶつかる音。整然と続く素振りの列。
顧問という肩書きだけを持った俺の入る隙間は、その輪の中にどこにもなかった。
◇
それから数日、俺の役割は「見ているだけの人間」に固定されていった。
声をかけても、事務的な返事しか返ってこない。稽古メニューは鬼塚がすべて組み立てている。俺が口を挟もうとすると、露骨に空気が悪くなる。
顧問という肩書きだけが、宙に浮いていた。
それでも、俺は毎日道場に足を運び続ける。
できることは、何もない。それでもそこにいることだけは、やめないと決めていた。
誰も俺を必要としていない場所に、それでも立ち続けることが、今の俺にできる唯一の贖罪の形だ。
大耀のような生徒を、二度と生み出さない。
去年までと同じ剣道部には、絶対にしない。
それだけが、今の俺を支えている、譲れない一線だった。




