第五話 少し前の私には、想像もできなかった
四月十五日。多分、曇り。
折角、中学校に入ったんだし、日記をつけてみることにした。
小学校の記憶は、ほとんどが灰色をしている。
教室の隅の席。まるで自分が空気になったかのような時間。ううん、違うかも。私は周りからずっと見られていたのだと思う。ただ、その視線がどんな種類のものだったか、分かりたくもなかったけれども。
休み時間、机に突っ伏している私の背中に、くすくすと笑う声が刺さる。何がおかしいのか、聞く勇気もなかった。
やがて、学校に行けなくなった。
自分の部屋は、いつもカーテンを閉め切っていた。昼なのか夜なのか分からない、薄暗い空間。スマホの画面の光だけが、やけに眩しかったのを覚えている。
お母さんは、毎朝私の部屋の前に立って、小さくノックをした。
「乃亜、今日は……、どう?」
その声には、いつも申し訳なさが滲んでいた。私のせいで、お母さんにそんな声を出させてしまっている。それが、たまらなく辛かった。
私は返事もできず、布団の中で丸まっているだけだった。
中学校の入学式が近づいた頃、お母さんに連れられて、私は初めて玉手中学校の門をくぐった。
期待なんて、していなかった。
どうせ、また同じだ。灰色の教室と、灰色の視線。私みたいな人間には、それがお似合いなんだと思っていた。
だけど――、支援センターの先生は、なんだか、今までの大人と違っていた。
勉強のやり方も、今までとは違った。
プリントをただ黙々と進めるわけじゃない。好きな教科を、好きなペースで進めていい。そう言われた時は、正直、何をすればいいのか分からなかった。
でも、勉強を進めていくと、思いがけないタイミングで、先生から「問い」が降ってくる。それが、すごく難しい。
特に印象に残っているのは、社会の勉強を、三人揃ってやっていた日のことだ。
麻倫さんが手遊びを始めそうになったのを見て、先生は地球儀を貸してあげていた。麻倫さんはくるくると地球儀を回しながら、指で適当に国を差す遊びを始める。
「地球ってサッカーボールみたいだよね」
その言葉に、百花さんが訳知り顔で返した。
「水の惑星って言われていて、大陸と海洋の割合が三対七なんだよ」
麻倫さんは「ふーん」と生返事をするだけだった。私は、静かに教科書と地図帳を見比べていた。私まで会話に入る勇気は、まだなかった。
そんな中、先生から問いが降ってくる。
「大陸よりも海洋が多いと、人々の生活って変化するのかな」
えっ、と私は固まった。そんなこと、考えたこともなかったから。
「そんなこと考えても、意味ないと思います」
百花さんが、すぐに反論する。だけど先生は笑わずに、こう返した。
「いや、地球温暖化で海水面が上昇しているじゃない。地球儀と地図帳でツバルを探してみな。現在進行形で国土がなくなろうとしている国なんだよ、そこ。それに、過去には逆に下降した例もある。将来、宇宙に水資源を輸出したら減ってしまうかも。三対七は、未来永劫不変の数字じゃない」
百花さんが、口をぱくぱくとさせていた。
そのうち、麻倫さんが「分かった! サーフィンが盛んになる!」と、頓珍漢なことを言い出す。百花さんが「そんな馬鹿な」と呆れ笑いをした。
でも、先生は笑わなかった。
「どうやって証明する? 調べる? 現代だと、マリンスポーツはどういう場所で盛んなんだろうな」
さらに問いが重なる。麻倫さんはあたふたしながら地球儀を見まわし、やがて叫んだ。
「逆だ! むしろ減る! サーフィンは海沿いでやるものだ!」
「そっか。じゃあ、ここでもサーフィンやってるの?」
先生が、地球儀の南極を指差す。
「そこではサーフィンしない……。寒そう」
「じゃあ、暑いと寒いも関係あるんだ。地形は?」
その一言から、麻倫さんは地図帳の気候のページを、むさぼるように読み始めた。普段の落ち着きのなさが嘘みたいに、静かだった。
百花さんも負けじと言葉を継ぐ。
「海上輸送が発展する。工業が発展するかもしれません」
「海と工業が関係するんだ」
先生がそう返すと、百花さんも教科書と地図帳を調べ始めた。例外はいくらでも見つかるらしく、二人とも夢中になっている。
黒板は使わない。何なら、先生は基本を教えてもくれない。それなのに、皆、むさぼるように教科書を読んでいた。
本当に、不思議な授業だった。
私も、いつの間にか地図帳のページをめくっていた。
◇
四月二十二日。
そんな日々が続くある日、教室に、通常学級の生徒が遊びに来ることがあった。
柏尾理久君。麻倫さんと同じ小学校から、わざわざ越境してこの中学校に入学したらしい。
猫背で、私みたいに伸ばしっぱなしの髪の毛で、寝ぐせがぴょんと飛び出てる。
制服も一年生なのにだらしなく着崩していて、何処か浮世離れしたまなざしの男の子だった。
麻倫さんも、彼が来たことは意外だったようだ。
「カシ男! なんでここに!?」
「いや、お前のクラスメイトだよ。久度先生から手紙預かってきた」
理久君は、そう言って封筒を差し出した。
「のあちゃ、もーてゃ、紹介するね。この子、南小の超絶問題児」
「お前が言うな。校長室登校のくせに」
「今は違うよ!」
二人の掛け合いに、私は思わず小さく笑ってしまった。
麻倫さんが説明してくれたところによると、理久君は頭が良すぎて、いつも小学校の担任と喧嘩していたらしい。
「あれは小学校の担任が悪い。三分で分かることを、四十五分以上かけて勉強するとか、意味が分からない」
理久君が、平然とそう言い切る。
「てっきり私立に行くものだと思ってた。カシ男、頭いいし」
「何で私立に行かなきゃいけないのさ」
心底不思議そうな理久君に、麻倫さんが首を傾げる。
「いい大学に通うため?」
「別に、大学に向けた受験勉強なら、自分でできるし。有名私立中に行ったところで、高校の先取りして勉強するだけでしょ。数学なら、皆でチャート式問題集解くだけ。そんなの自分でできるから、意味がない」
その一言に、百花さんの表情が強張ったのを、私は見逃さなかった。
百花さんは、点数や受験、偏差値という言葉に、いつも敏感に反応する。今までも、何度かそういう場面があった。
「あなたの偏差値は?」
挑むように、百花さんが聞く。
「どこの模試の結果を聞きたいのか知らないけど……。試しに受けた奴なら、七十八」
その数字に、百花さんが絶句した。
「じゃあ、何で玉手中に来たの、遠いじゃん」
麻倫さんが、素朴な疑問を挟む。
「小鍛冶先生の授業を受けたかったから」
理久君は、あっさりとそう答えた。
小学六年生の最初は、人脈作りも兼ねて有名私立でも良かったと思っていたらしい。でも、親と一緒に回った学校見学で、私立も公立も見て、一番刺さったのが小鍛冶先生だったという。
「自分は、将来研究者になりたい。その意味で、先生の授業には、受験のテクニックでも、分かっていることの羅列でもない、新鮮な気づきがある。楽しい」
「でも他の先生はどうなの?」
麻倫さんが尋ねる。
「久度先生がだいぶマシ。自由進度学習って言って、ほぼ自習。ぼくの邪魔をしない。逆に門田と海老原は最悪。門田は勝手なことをすると怒鳴るし、海老原はネイティブでもないのに発音にうるさい。アクティビティが多いのも嫌。高遠は授業はクソつまらんけど、こっち見てないから勝手に自習できる」
「えー、エビちゃん楽しいのに」
麻倫さんが不満そうに口を尖らせた。海老原先生は、センターの英語の授業を担当してくれている。体を使う授業が多くて、麻倫さんのお気に入りだ。
「とにかく、小鍛冶先生の授業があるから、週三回は楽しいよ」
理久君の言葉に、私は先生の新しい一面を知った気がした。
「もし、一年の教科担当じゃなかったら、どうしてたの?」
百花さんが聞くと、理久君は本気で頭を抱えた。
「……その発想はなかった。センターに入るわ」
その一言に、麻倫さんが弾けるように笑った。百花さんも、口元をわずかに緩めている。
私は、その光景を、少し離れたところから眺めていた。
灰色だったはずの教室の中で、こんな風に誰かと笑い合える日が来るなんて、少し前の私には、想像もできなかった。
その日の終わりに、社会の授業だけは一緒のタイミングでやりたい。話すのが楽しいと麻倫さんが言ってきたので、私と百花さんはOKを出した。




