第四話 マイペースとユアペース
新年度が始まって数日。
学校全体が入学式という一大行事に向けて動いている裏、俺は校舎の片隅にある小さな教室で三人の生徒を出迎えていた。
教室内には、机が四つ。壁際には棚と、少し古びたソファが置かれている。ソファには海老原先生の善意で有名キャラクターのぬいぐるみが座っていた。
そのうち一つは、まだ誰も座らない大耀の机だ。三人が来る前に、俺はこれからの日々を思いながら、固く絞った雑巾でその天板を拭き上げた。
登校した時間帯はさまざまだ。汐乃亜は誰よりも早く登校し、促されるままに自分の席へ無言で座り、そのままセミロングの黒髪をばさりと広げて机に伏せた。
ほー、この子が乃亜さんね、と。俺は極力自然体を意識しながら明るく挨拶をし、不躾にならない程度に様子を見る。小学校からの引継ぎ資料の中に顔写真がなかったため、人物の見分けは消去法だった。購入したての制服が多少だぶついてはいるものの、きちんと真面目に着こなしている。長い前髪を伸ばしっぱなしにしており、俯くと表情がほぼ見えない。周りから浮くのが怖い、人の目を怖がる生徒に見られがちな特徴をいくつも見ることができた。
竹花百花は予定時間五分前に登校。折り目正しい挨拶をして、背筋を伸ばして座っている。つり目がちで一般的な中一よりも背が高く、ポニーテールの結び目はぎちぎちに強く結われている。
そして、一木麻倫は……、
「おはようございまーす!」
と予定時間を五分ほど遅れたところに、小さな体で転がり込むようにして入ってきた。スカートから見える彼女の足に擦り傷が見える。その後ろを、お腹を揺らしながら、走ってくる校長と養護教諭の神崎先生が見えた。さてはコイツ、転がり込むように、じゃなく、本当に転んだな……?
神崎先生の手当が終わるのを待ちながら、俺は教室の後ろに立つ保護者へと目を向けた。汐の母親と一木の両親がいて、竹花はいない。
「先生サンキュー」
礼を言う麻倫を見て、俺が感じたことは挨拶もお礼も言える生徒なんだな、ということだった。だから、俺は麻倫を大袈裟に褒めた。
「一木さんすごいな。ちゃんと先生の目を見て、お礼を言った。最近中々できる奴いないんだぞ」
麻倫はきょとんとした表情でこちらを見た。ショートボブに寝ぐせが目立つ。少したぬきを連想させる目が大きく見開かれた。
「先生、何で私の名前分かんの?」
ここは学級担任と同じ引き出しが使えるな、と俺は思った。
俺は自信たっぷりに胸を張る。
「知っているさ。一木麻倫さん。御伽南小学校から来たんだよね。登校も遠いし、大変だ。そりゃあ足だってすりむくね」
「すげえ」
麻倫が目を輝かせる中、さらに続ける。
「汐乃亜さん」
呼んだ瞬間、表情を隠している長い前髪の隙間から、引きつった口元が見えた。
「竹花百花さんの二人は玉手小学校出身だね。あの近くにある神社の盆踊りでは、俺も見回りに行っているんだよ」
"盆踊り"の単語にピクリと乃亜が反応する。事前に仕入れた情報通り、神社で伝統芸能の稽古をやっていたみたいだな。そして、人の話に耳は傾けている……っと。
「じゃあ、もしかしたらすれ違ったことも……」
「あるかもしれないね」
さて、と前置き、俺は教壇に立つ。
「皆さん、ご入学おめでとうございます。先生は、この教室の担任になる小鍛冶廉平です。先生と言っても、皆がこの教室で学ぶ際の、サポーターみたいなものかな」
「よろしくお願いしまーす!」
「あ、よろしくお願いします!」
俺の自己紹介に、まず麻倫が間髪入れずに返してきて、タイミングを掴みそびれた百花が続く。乃亜は黙ってぺこりと頭を下げてくれた。
はて……? いい子たちじゃないの。
今日は配るべきプリント、この教室で大切にしたいことなど確認したいことも多いため、話を続けようとする。そこにしびれを切らした麻倫が口を挟んできた。
「先生、あそこの棚、何が入ってるの?」
椅子の上でそわそわと身体を揺らしている。視線があちこちに泳ぎ、教室の隅の棚や、窓の外まで気になって仕方ない様子だ。
「ん、あれは――」
「あ、外にネコいる!」
俺の答えを待たずに、麻倫は窓の方へ身を乗り出した。
このままでは、話が一向に進まない。
俺は、指を組み替えながら、麻倫に声をかけた。
「麻倫さん、ちょっとこっち見て。手品、見せてやるよ」
「手品?」
その一言に、麻倫の視線が、ようやくこちらへ戻ってくる。
「これ、できるか」
俺は、両手の指を組み替える簡単な手遊びをやってみせた。単純な動きだが、テンポよく手拍子を交えると、それなりに目を引く。
「え、なにそれ、面白い! もう一回!」
麻倫が食いつくように身を乗り出す。
「よし、じゃあ一緒にやってみるか」
俺が手本を見せると、麻倫は真剣な顔で真似を始めた。何度か失敗しながらも、負けず嫌いらしく、諦めずに繰り返す。
――こういう時、身体を動かす方から入ると早いんだよな。
視覚優位、というやつなのだろう。見本を見せると、驚くほど早く飲み込んでいく。
その様子を、乃亜と百花が、それぞれのやり方で見ていた。
頃合いだと思い、俺は三人に向けて語る。
「先生からのメッセージ。三人に大切にして欲しいことがあるので、黒板に書くよ」
俺はでかでか『マイペースとユアペース』という言葉を白チョークでカカっと書いた。
「あなたのペースを大切にしてください。でもそれと同じくらい他の人のペースも大事にしてあげてください」
「分かった!」
聞いているのか、いないのか。麻倫が元気よく返事した。
百花は首を傾げ、乃亜は前髪の隙間から見える目を丸くしていた。
「折角だから自己紹介といきたいけど……」
乃亜の警戒が目に見えて強まったことを感じ取り、俺は思った以上に”今までのノウハウが使えるな”と思った。
「実は先生、自己紹介が嫌いなんだ」
えっ? と三人から声が漏れる。俺は努めて快活に笑った。
「だって、自分から紹介するより、相手に聞いてもらった方がいいじゃないか。その方が、ずっと話しやすい」
でも、と指を立てる。
「無理に聞き出すのは警察の役目だ。ユアペースで聞く力を磨いてみよう。手始めに先生への質問を考えてみな。一人一つ。話し合っても良いぞ」
俺のお決まりの導入であった。学校で起きるイベントが苦手な生徒は、たいていの場合、コミュニケーション能力が必要なもの、運動能力が求められるものを嫌う。もめ事が起きる導入は極力変化球にして投げるのが俺のスタイルだ。
そうして、三人はまごまごしながら、一人だけずけずけと無遠慮にお互いを見合った。
「えっと、名前忘れた。誰ちゃん?」
「百花です。あなたはえっと、麻倫さんだっけ」
「ちゃん付けの方がいい!」
几帳面に一つ縛りにした長い髪を揺らして、百花が戸惑っている。麻倫のような手合いを相手にしたことがなかったのだろう。麻倫は戸惑いを見せる百花に頓着せず、うんうんと悩み始めた。
「じゃあ、百花ちゃんのあだなは、もーてゃで」
「も、もーちゃ……?」
「違う、もーてゃ!」
リピートアフターミーと笑う麻倫と、満更でもなさそうにする百花。俺は会話の流れに危うさを感じ、打開のネタを探り始めた。
「もう一人は……、名前教えて?」
「あっ……、うっ……」
明らかに乃亜の様子がおかしかった。後ろの保護者も心配そうにしている。そこに百花が助け舟を出してくれた。
「えっと、彼女は汐乃亜さん。悪いんだけど、あだ名はつけないであげてください」
「のあちゃね。何で? あだ名つけたい!」
百花が困ったように乃亜を見るが、乃亜がフルフルと顔を振り拒絶するばかりだ。そこに俺はラケットを持って乱入した。
ぽんぽんと簡単なボールリフティングをしていると、麻倫の興味がこちらに移る。
「先生ずるい! 何でラケット持ってるの!」
「それが麻倫さんの質問ということでOK?」
「ずるい! のあちゃ、もーてゃ。助けて!」
麻倫は二人に助けを求め、改めて質問の内容について話し合う。予想だにしない急展開に乃亜の拒絶反応も引っ込んだようで、俺も内心ほっとした。
あだ名を極度に嫌がる傾向について、保護者との打ち合わせで聞いていなかったら、今のは防げなかったはずだ。
やがて、麻倫が自信満々に手を挙げる。
「先生はテニス部の顧問ですか?」
「ほう、どうしてそう思った」
「ラケットを持っているからです!」
俺はできる限りの邪悪な笑顔を浮かべて、麻倫に答えた。
「不正解! 実は先生、剣道部の顧問です」
「なんだと!? じゃあ何でラケットを持ってるの!」
「去年までテニス部の顧問だったからです」
ずるい、と席につきながら足をばたつかせる麻倫。
そんな俺たちの様子を、百花と乃亜は珍獣でも観察するかのように眺めていた。
「じゃ、じゃあ私も質問を」
「はい、どうぞ」
「先生、大学はどちらですか」
百花からのいきなりな質問に、今度は保護者の方から「えっ?」と疑問の声が上がった。そうだよね、今まで一番”普通”に見えた生徒が、いきなり脈絡のないことを言い出したら驚く。俺は微笑みながら、確認する。
「俺の通っていた大学について知りたいの?」
「はい。先生は偏差値が大事って塾で聞いて。人によっては大学院まで行く人もいるって言っていたから」
偏った考え方だな、とは言わない。子どもの頃にインプットした知識は、例外を実感するまで相対化が難しいのだ。学歴があるのに失敗した人、学歴がないのに幸せな人と出会うほど、彼女は人生経験を積んできていない。
「旧帝国大って言って分かるかな。そこに通っていたよ。大学院まで行ったかな。史学専攻。何なら、数年は歴史の研究者だったよ」
「研究者……、何で続けなかったんですか? 研究者の方が先生より上だと思うんですけど」
率直すぎる問いに、俺は苦笑した。
「別にどちらが上とか考えていないから、ここにいるって答えで良いかな? あなたの疑問は大切だよ。俺が上下をつけていない理由も、一緒に社会を学んでいけば分かるかもしれない」
百花は、しばらくこちらをじっと見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
まだ何かを測っているような表情だったが、ひとまず追及はそこで止まる。
最後の一人になった汐乃亜は、俯きながらも、こっそりと横目でこちらを窺っていた。俺は彼女を見て言う。
「乃亜さん、質問は――、いや良いこと考えた」
わざとらしく名案だとばかりに手を打ち、乃亜の机に紙を数枚置いた。
「質問用紙。今でなくても良い。いつでも良い。ユアペースだ。聞きたいことがあったら、聞いてください」
他の二人の注目が集まる中、乃亜は紙を机の中に入れようとして――、意を決したように何かを書き始める。
俺たちは質問が書き終わるのをゆっくり待つ。麻倫も不思議と楽しそうに体を揺らしながら、乃亜を見ていた。
できあがった紙を俺は受け取り、二人に見えないように質問を確認した。
『みんなには言わないでください。どうしたら、友だちができますか』
声を漏らさぬよう平静を装うのに苦労する。
彼女らは、何らかの決心のもと、この教室に登校しに来ている。
学校に適応できない生徒が山ほどいる中で、この三人は少なくとも初日から学校に来ている。それは並大抵の勇気ではできないはずだ。
俺はにっこり笑って、彼女に返した。
「先生、実は占い師なんだ」
三人が三者三様のはてなマークを見せる。乃亜は質問の意図と違った回答が返ってきたこと、他の二人は乃亜が一体なんて質問したのかを疑問に思っているようだった。
俺は続ける。
「だから、予言します。頑張らなくても、すぐにできるよ」
前髪の隙間から、乃亜が口を開けたのが見えた。
「のあちゃ、何て質問したの! 教えて!」
「これは確かに気になるかもしれない……」
二人に詰め寄られている乃亜を見ながら、俺は思う。
三人が三人とも別の個性を持っている。
正直に言って、最初は学年を外され、不貞腐れる自分もいた。だが、今は何か体の中に灯ったものがあることを自覚している。
ゆっくりでいい。目の前にいる三人と向き合う時間は、これから、いくらでもある。
それから俺は彼女らに重要なお手紙類を渡し、改めて帰りの挨拶をした。「さようなら。また明日」の言葉に、麻倫は元気よく手を振り、百花は静かに一礼し、汐乃亜は小さく頷いた。
三人の反応を見送りながら、俺は、柄にもなく――、この一年が、少しだけ楽しみになっている自分に気づいた。




