思念性プラシーボ(4)
思念性プラシーボは当事者である本人の理想を描く。
プラシーボによって過剰に逃避が行われたとしても、逃避としては完成する。
経緯はどうであれ、逃避が叶ったのなら喜ばしいものに思えるはず。
でも今の白波は悩んでいるように見えた。
「白波は、元に戻りたいって思っているのか?」
「……」
大きな瞳が俺に向く。一呼吸開けると、
「戻りたいです」
と意思を持って告げた。
「どうして?」
「え、だって見えなくなる意味がないじゃないですか」
「へっ、あ、うん。確かにそうだな……」
「馬鹿なこと言わないでください」
「ごめんなさい」
まるで俺がおかしなことを言っているかのような言い草だな……。
どちらにせよ、言葉が嘘でなければ、白波は逃避をよく思っていないらしい。
「でもそっか。なら俺もできることはするよ」
「え、いいんですか?」
「変に知った手前、ここで突き放すのも嫌だしな」
「あ、ありがとうございます」
「それに、思念性プラシーボは俺も個人的に気になる」
「え、どうしてですか?」
「ううん、なんでもない」
本当に同年代の男子では俺だけが見えないのだろうか。
もしそうなら、どのような理由があるのかは興味がある。
「とりあえず、逃避しようとする気持ちを失くせば解決すると思うよ」
「逃避……。本当に身に覚えがないですね」
「まあ悩みなんて色々あるだろうし、これって決めるのは難しいよな」
「え、だから履歴書は————」
「それ以外で考えてくれ。なんでそこに絶対の自信を持ってんだよ」
「いえ、本当に履歴書以外はないですけど……」
「これから友達ができるか不安とか、好きな人と高校が別になったとか。そういうのも?」
「本当に不安に思ったことはないです。でも、なんだろう。あるのかな……?」
悩みながらに白波はスマホを気にする。何かの着信があったらしい。
「どうかしたか?」
「すみません。連絡が入っていて」
そっと焦ったようにスマホの画面を伏せた。
「返していいよ。そんなに堅苦しくしなくていいって」
「ど、どうも。ありがとうございます」
俺も一度、思考を断ち切ることにした。
立ち上がり、細胞生物学の教科書を棚にしまいに行く。
この部屋は誰も使っていないらしく、使い古された教科書はページが茶色に劣化しつつある。
せめて空気だけでも入れ替えようと窓を開けると、教室内に新鮮な空気が入り込んできた。
その冷たい風が白波の長い前髪をゆらゆらと揺らしている。
それにしても顔が良いな。視界に映る景色だけで一枚の絵画として成り立つほどに綺麗だった。これほど綺麗なら男子が簡単に声をかけられないのも頷ける。
「……」
白波は真剣に画面上で指を転がすと、ちらっと気まずそうに俺を見た。
「ん、何かあった?」
「いえ、友達からどこか行こうって言われて。で、でも断るので気にしないでくださいっ」
慌ただしく手を横に振っている。
そこには先輩に対して自分から帰宅を告げてはいけないという社畜根性が込められていた。
「どこの社畜だよ。普通に行ってきていいよ」
「え、いいんですか?」
「うん。お開きにしよう」
言いながら自分の鞄を背負う。
「どのみち、このまま話していても分かりそうにないだろ?」
「そう、ですね。あ、ありがとうございます」
「はい、これ」
言いながらスマホを取り出して白波に見せる。
それに対して不思議そうに目尻を下げてきた。
「……? 私も持ってますから、いらないですけど?」
「いや、あげねえから……。そんなポケットティッシュ感覚で渡すかよ」
「じゃあ、なんですか?」
「連絡先。交換しとこうぜ?」
「……」
またしても無言で反応される。
ただ無言の要因は何かを躊躇っている白波にある。その何かは容易に想像することができた。
「あ、ごめん。連絡先は断ってる感じだった?」
「い、いえ、男の人と交換するのは初めてなので、少し動揺しちゃって。それも先輩ってなると余計に変な感じがして……」
「ああ、世渡り出来なさそうだもんな」
「あれ、私、いま馬鹿にされてます?」
「まあ、うん。かなり」
目端を細くして、むかーっと俺を捉える。
「別に交換ぐらい私でも出来ます。してこなかっただけでっ」
「変なところでムキになるんだな」
「交換しなかったのに思念性プラシーボってやつのせいですからっ」
自分に声をかけてきた男子を認識できないなら仕方がない。
でも男子と話した記憶がないと言っていましたけどね。
「それに友達には初対面の人とは交換するなって言われていますし」
続けて、言い訳にならない口実を述べている。
思わず笑ってしまった。
「友達からもそんな扱いされてるのかよ。ウケる」
「琥珀は箱入り娘だから怖い。とはよく言われます」
「まあ分かる気がする。ちょっと危なっかしいよな」
「笑わないでください」
「わるいわるい。それなら、やめとくか」
放っておくと不審者にもついていきそうな危なさがある。
俺が数分で感じた感想は、白波の友人も感じていることらしい。
ただ、なぜか拗ねている白波は素直に引き下がることはなかった。
「いえ、大丈夫です!」
「え、いいの?」
「はい。これも成長です」
「え、ああ、うん。そだな」
小さな成長をした白波はぎこちなく肘を伸ばしてスマホを差し出してくる。
スマホの画面から連絡先を読み取り、ポケットにしまった。
一方で白波はスマホをしまうこともなく、じっと静かに画面を眺めている。
「……手慣れていますね」
何を思ったのか、画面を眺めたあとに懐疑的な視線が向けられていた。
「あの、先輩って俗に言う、女たらし……なんですか?」
「はあ? なんでだよ」
「だって、交換ってさらりと言ってきたり、それに誰も付けていないのにピアスしていたり」
「別に交換ぐらい誰でもできるだろ。ピアスなんて女子でもしてる」
「あっ、あとお昼も女の人といたので」
「あれは友達」
女たらしというのは随分と緩い定義のようだ。ただ、これだけで女たらしと認定するということは本当に男子に免疫がないらしい。これはこれで情報かもしれない。
「そういえば、高校生になって、男女問わず初めて連絡先を交換しました」
「まじ?」
「はい」
「……。寂しかったらいつでも連絡していいからな。俺はずっと友達だぞ?」
「だから哀れむ顔をしないでくださいっ。別に寂しいって思っているわけではないですからっ」
確かに友人と遊ぶと言っていたから、友達がいない訳ではなさそうだ。ならその友人とは交換していないのか、それとも同じ中学ですでに交換しているのか。
ちらりと時計を見ると、それなりにいい時間になっていた。
「じゃあ俺は帰るよ?」
「あ、私も帰ります」
先に教室を出ると白波も早足で付いてくる。
「……」
「行かないんですか?」
その位置取りはごく自然に俺の隣に置かれていた。
思春期の女子高生にしては深く考えていないと感じてしまうのは考えすぎだろうか。
周囲からは『男子を避けている』という評価をされているのに、男子と歩いている姿を同級生に見られるっていう危惧は白波からは微塵も感じられなかった。
分かっているけど気にしていないのか、それとも単に気づいていないのか。
間違いなく後者だろうと勝手に答えを決めつけた。
「高校ってやっぱり中学とは違いますね。教室とか、あ、あと音楽室とかもっ」
無言が気まずいのか、一人で話している白波を無視して耳を澄ませる。
運動部の声が微かに聞こえてくるだけで、まだ一人で話を続けている白波を除けば静寂が広がっていた。
「あ、実は書道とかも憧れていたりしてっ。で、でも高校生になったら園芸部もぉ、」
「今から遊ぶって、なにするの?」
純粋に白波琥珀という人間が何をして遊んでいるのかが気になって聞いてみる。
「多分、ドーナツかカラオケのどちらかです。前もそうだったので」
「へえ、意外と女子高生っぽいことしてるんだ?」
「意外とって、私はもう女子高生ですからっ」
膝下まであるスカート丈が、今日話して感じた彼女の性格を表していた。
一年しか変わらないのに、初心な高校一年生という感じがして可愛らしさがある。
それからまた無言が続いたが、白波も会話を続けることを諦めて静かになった。
北校舎に足を踏み入れると、下足室に人影が見えてくる。
こんな時間まで、と思ったけど、その子は俺たちを見ると顔を上げた。
「あ、琥珀やっときたぁ。ミスド行かな……い?」
この子も見覚えがある。白波の落とし物を預かった愛想のいい一年生だ。
白波を見て、明るく染められた顔が性格までも明るい子だと教えてくれた。
だが、その明るい顔は俺を捉えると困惑したものに変わっていく。
「あ、この子は衛藤小豆です。中学の頃からの同級生です」
自然な成り行きで白波が紹介してくる。
衛藤小豆は困惑した表情のまま、たどたどしく口を開いた。
「こんにちは……?」
突然のことに理解が追いつかないのも無理はない。笑って寄り添うことにした。
「友達が見知らぬ先輩と歩いてきたらびっくりするよな?」
「えっ、まあ、はい。そうですね。びっくりしちゃいました」
気恥ずかしそうに衛藤は口端を緩めた。
思わず気を許したくなるような人懐っこい笑み。
白波とは対照に、人を引き寄せる空気感を持っていた。
「まあ説明は白波からってことで」
面倒事は白波に投げ付けて、靴を履き替えに行くためにロッカーへ向かう。
「どういう関係?」
俺が場を離れると、早速、白波が問われていた。
あたふたが容易に想像できる反応をしてから、白波は言葉を仕上げていく。
「え、あー、えーっと。そうだっ、バイト。バイトのこと聞いてたの。うん、バイト!」
「そう……なんだ?」
「ぷはっ!」
思わず吹き出してしまった。
履歴書に記載する長所の話をしていたから間違ってはいないけど、もう少しまともな言い方ができただろ。
白波は靴を履き替えた俺を見るや、強引に腕を掴んで衛藤の前へ連れて行く。
「あ、小豆。この人は、」
「二年の美空絵馬先輩……ですよね?」
真意を問うように視線が飛んでくる。
問いつつも、確信が目に見えているようだった。
「え、うん。そうだけど」
「やっぱり。先輩のことは知っていますよ」
「えっと、どうして?」
「それはまあ、企業秘密です。でも、悪い理由ではないから安心してくださいね?」
衛藤は、いたずらっぽく微笑む。所作だけでも愛嬌があることは分かった。
かなり気になるけど、ここで「え、なんで。ねえ、なんで。教えて、ねえ教えてよぉ」と頼み込むのも先輩として格好がつかない。それに深追いせずに見逃すのが大人の振る舞いっぽいな、うん。
「これからドーナツでも食べに行くの?」
俺が聞くと、衛藤の表情も合わせて和らぐ。
「はい。今日で限定のやつが終わってしまうので」
「そっか。それは食べておかないとな」
「ですね、今だけですもんっ」
顔を明るく灯した衛藤は、音も無く横目で白波へ移った。ただすぐに俺に戻る。
それより、二人はどういう関係ですか?
そんな言葉が内面に透けていた。笑顔を作って気がついていないふりをする。
「なら、楽しんでいってらっしゃい」
「え、もう帰るんですか?」
なぜか白波が驚いた表情を浮かべてくる。
「なぁに、俺とも一緒に遊びたいってぇ?」
「いえ、全然。さよならっ」
「衛藤さんもまた会ったら」
「はい。さようなら。……」
また横目に白波を見ていた衛藤は、咄嗟に儚い笑顔で応えてくれた。
ただ俺が背を向けようとした瞬間、瞳の温度が微かに下がった。
選別するような、そんな視線。
もしかすると、白波が男子と話すこと自体が本当に珍しいことなのかもしれない。
衛藤の俺に対する警戒はそれを表している気がした。
そんな二人から距離を空けて、俺は完全に一人になる。
「男子が認識できない……か」
歩きながら、ふと考える。
そもそも男子が認識できないのは生物学的にはあり得るのだろうか。
局所的に、それも広義の対象を認識できないことは人間の構造上で可能なのか。
女子ではなく男子で、大人ではなく同年代。同年代の異性に関わることは恋愛関係、もしくは異性が関わることで生じる同性間のいざこざしか想像ができない。白波の場合は、容姿端麗なことから同性に妬まれている線は十分に考えられる。
ただ本人はストレスがないと言っている。
ストレスにならないなら思念性プラシーボも起こらないよな。
一人では完全に手詰まりとなった思考は俺だけで解決することは難しい。
ストレスを知ることができなくても、生物学的な理論を知れば、逆算的に何かが分かるかもしれない。
思った頃には、一本の連絡を入れていた。




