思念性プラシーボ(3)
白波は関心の表情を灯す。
「すごい話ですね。でもどうしてそれほどの事が話題になっていないんですかね?」
「プラシーボを介さなければ、何億、何兆、何京とか。人間がいる間に、起こるのかも分からないような確率らしいから、信憑性もないんだと思う。だから今は都市伝説みたいな扱いだな」
普段は正常だが、突然と身体の機能が正常に働かない時があったり、誰かの考えが目に見えて分かったり、一時的に記憶が書き換えられたり。それ以外にも無限に不可解な現象が起こる可能性がある。
「あれ、でもそれほどの確率なのに、どうして先輩は存在を知っているんですか?」
「えっ、……俺はまあ普通に?」
「聞き覚えもない名前ですし、どういう経緯で知ったんですか?」
「まあなんでもいいだろー。話を戻すけど、主に逃避現象で引き起こされるって聞いたことがある」
「逃避現象?」
「心身に大きなストレスを抱えた時に、人間は無意識に回避しようとするんだよ。脳で自分が助かる方法を無意識に考える。ほら、テスト前に勉強をせずに部屋の片付けを始めることも逃避の一つ」
「へえ、それを逃避って呼ぶんですね。……はっ、じゃあ夕食が嫌いなものだって知らされた時に、ついつい甘いパンを食べたくなるやつもっ。私だけじゃなかったんだ……」
「それはお前が食いしん坊なだけだ」
どんな現象だよ。よく分からないが白波は夕飯から逃避しているらしい。
俺は教科書に挟まれた三枚のプリントを取り出した。
ホッチキス留めにされたプリントに白波も興味津々に覗き込んでいる。
「これは?」
「思念性プラシーボの一つの仮説」
一枚目には『神隠し』と左上に記載され、その下には細胞の構造が説明されている。二枚目からは視覚の伝導路や細胞膜の透過性、精神的ストレスによる逃避行動の説明がつらつらと書かれていた。
「……」
数秒間、それを眺めていた白波はごくりと息を呑んだ。
「こう理屈を見ると信憑性が増しますね……」
「神隠しを生物学的に証明するなら、全身の細胞が分裂をする瞬間に皮膚や臓器を分子レベルに分解して見せることで、皮膚が光の反射レベルに至らずにそのまま透けて見えるって事らしい。分裂の瞬間は存在情報が不安定になるから、瞬間的に見えなくなる」
「……へ?」
「全身の細胞を分子レベルに分解して見せることで、皮膚が光の反射レベルに至らずにそのまま————」
「い、いや聞こえていますけど。ぶ、分子レベル? ……分解?」
「意味は分からなくていいよ。とりあえず理屈で説明ができるのが思念生プラシーボ。だから神隠しもいろんな理屈があって生物学上では説明が可能になる」
白波はプリントを持ち上げて、ほえーっと口を丸くしている。
また読もうと頑張っているが、意味がわからないと顔を青くして目を離していた。
白波が頑張っている隣で、俺は丸椅子を引き寄せて腰を下ろした。隣に置いていた椅子を寄せるが、当人はそれに気づかずに、すごいなーと立ち尽くしている。
「でもすごいですね、これ。先輩が作ったんですか?」
「いや、これは俺の先輩が書いたやつ」
「先輩の先輩、ですか?」
「そう、水泳部の。去年に卒業したけどな」
思念性プラシーボの存在も、車より速く走る理屈や神隠しの理屈まで、去年に気まぐれな先輩から教えてもらった雑学の一つだ。
「それより、何か悩んでいることでもあるの?」
これが本当に思念性プラシーボなら、白波の細胞が逃避を誘発するストレスが存在するはずだ。
現状を解決したいのならストレスを無くすことが一番手っ取り早い。
「……」
問いかけつつも俺の中では薄らとは察していた。
おそらく白波が抱いているストレスは異性である男子が関係している。そのストレスから逃れるために、『男子を認識しない』という安易で最短の逃避を思いついたはず。
「悩みですか?」
「うん、嫌なことされたとか」
「悩み、悩みですか……ありますか?」
「俺に聞いてくるなよ、知らないから」
「えー、悩みぃ?」
意外なことに長考を始める。
たっぷりと頭の中を探ると真剣な表情のまま何かを閃いた。
「バイトの履歴書にどんな長所を書くか……?」
「すげえ平和な人生だな?」
時間を使ったわりにくだらない答えだった。それも想像していた悩みと違う。
「だ、だって自分の長所なんて自分で分からなくないですか?」
「長所なんて『自分の長所に気が付かない謙虚なところ』って書いとけばいいんだよ。店長に変な顔をされて面接に落とされる以外は何も問題ない」
ちなみに短所は『自分の短所に気がつかない傲慢な心』である。俺はこれで二店舗からまたの機会に、と言われている信頼と実績がある。そう考えると、今のバイト先はなぜ俺を採用してくれたのか分からない。
「落ちたくないから悩んでいるんですよぉ」
「落ちてもなにもないだろ。経歴に残るわけでもないし」
「心が削られます」
「それはどうでもいいとして」
具体的な悩みは出てこないようなので話を進める。
「男子が見えないとバイトもできそうにないな」
「そう、ですよね。どうすればいいですかね?」
「どうにかしないと見えるようにはならないと思うけど」
「どうにか、……検討もつかないですね」
「本当に普段から男子とは話さないのか?」
素朴な疑問に、白波は思考を固めてから頭を縦に振る。
「男子と話す機会はあまりなかったです。最後に話したのも覚えていないぐらいで。おっ、幼馴染とかは憧れていましたけどっ」
「別に聞いてないけど」
「聞いてくださいよ」
「どうして聞かせたいの?」
でも確かに、白波が男子と話しているイメージは浮かばない。
実際に会話を交えれば、気軽に話すことはできる。
でも初見だと美人特有の人を寄せ付けない雰囲気がある。
それに数回の会話を重ねた今でも、白波という人物がよく分からないのも事実。
なんというか、一言につかめないのだ。
「……」
だからだろうか。白波はこの現象を悩んでいるように見えた。




