思念性プラシーボ(1)
「ここ、勝手に入っても大丈夫なんですか?」
警戒を灯しつつも一年生は生物準備室を軽く見渡していた。
薄暗い部屋では傷の付いた机や木材の匂いが不穏な空気を漂わせている。
「ずっと下足室で話すわけにもいかないだろ?」
「でもここって先生が使う場所じゃないですか。準備室って名前があるぐらいですし」
「いつも人いないから平気だと思うけど」
「て、適当ですね。大丈夫かなこの人……」
スイッチを押すと、蛍光灯が一拍遅れて点灯し、白い光がぼんやりと広がる。長く閉ざされていた静寂が破れ、ガラス瓶の並ぶ棚がゆらりと影を落とした。
彼女こと一年生の白波琥珀は、観念して教室内に足を踏み入れる。
てっきり初対面の相手と話すことが苦手なのかと思っていたけど、この教室に向かう道中では普通だった。
『そういえば名前は?』
道中で俺が切り出すと素直に白波琥珀と名前を教えてくれた。
ただ問いかけた時に、「私ですか?」となぜか疑問符を持たれたけど……。
「え、この状況なら私のことだろ?」
「あっ、確かに」
その考えはなかった! という顔で納得していた。
なんて会話があり、かなりの天然であることは数分だけでも分かった。
他にも「かっこいい名前だな」と名前を褒めた時に、
「あっ、先輩は絵馬って顔じゃないですもんね!」
と『道理で羨ましがってるわけだ』みたいな顔をしてきたから無礼でもある。
「……」
白波はきょろきょろと辺りを見渡して落ち着かない様子。
それもそうだ。異性の先輩に、二人きりの部屋に連れて来られる状況は警戒するのが当然。早いこと話を始めた方が良さそうだ。
「わぁ、顕微鏡って久しぶりに見ましたぁ」
警戒してなさそうだった。お気楽に指で顕微鏡を突いている。
なんだか、さっきから拍子抜けが続くな……。
凛とした容姿とのギャップで驚きはあるけど、これはこれで親しみやすさがあるから良いとしよう。
「それより、どうして白波は俺の名前を知ってるわけ?」
問いかけると、白波の視線が俺を捉える。
「集会の時、私が新入生代表で挨拶をしたこと覚えていますか?」
「え、うん。覚えてるよ」
「挨拶を終えて、最後に『変態』って言いました」
「ああ、言ってたな」
「口にした時に、壇上から先輩を見つけて。そ、それに、先輩とは、教室に戻る前にも目が合ったので、二年生に聞いてみたんです。そしたら、男子でピアスをしているのは美空絵馬かなって教えてくださって」
「うん……うん?」
俺のことを尋ねる動機がまったく読めてこなかった。
これは俺が現代文で学年最下位であることが関係しているのだろうか。もっと勉強しておけば良かった。
白波は、俺の反応を確認せずに首を傾げる。
「聞いたらすぐに先輩の名前が出てきましたけど、先輩って有名なんですか?」
「そんなことないけど。見ての通り、健常で純粋な男子高校生」
「え、見ての通り……?」
「おーけい。忘れてくれ」
冗談と伝わらなかったか。真剣に考え込まれると恥ずかしい……。
色々と聞きたいことは多いけど、それは後々から分かってくると思う。強引に頭を納得させて、本棚にある埃被った数冊から細胞生物学の教材を取り出した。
「それより、話を戻そうぜ」
ここの教室に来たのは雑談を長々とするためではない。
白波が口にした『男子を認識できない』という言葉の意味を確認するためだ。
それは本人が一番気になっているはず。
「なんだかゴキブリが出そうですね。この教室」
気にしてないのかよ……。さっきから見た目に反してマイペースすぎる。
コツコツと机を叩いて「ゴキブリは出たことないから安心しろ」と白波の意識をこちらへ戻す。
「それで、男子が認識できないって言っていたけど、どういう意味?」
「そのままです。男子が私には見えていないらしくて」
「俺は見えてるのに?」
疑問に思っていたところはそこだった。
男子が認識できない。俺に伝えた時点で、その言葉は破綻している。
「先輩は見えています。でもどうしてなのかは、私にも分からなくて」
ブレザーの袖口を握りしめ、丸い瞳が不安そうに現れる。
「男性は、姿だけじゃなくて声も聞こえないんです。それなのに先輩だけは見えるし、声も聞こえてきて」
「……本気か?」
「本気じゃないと見知らぬ先輩と二人きりの部屋になんか入りません」
「それはそうだろうけど」
嘘はないと思う。それでもすぐに納得できるほど馬鹿ではない。
ただ本当なら、それはそれで納得できる点もあった。
「あー、だからあのとき廊下で男子を無視していたのか」
「む、無視をしていたつもりはなくてっ。端から見れば、そう見えたかもですけど……」
確かに無視にしては露骨で、白波は本当に存在すら気がついていないようだった。
今、会話を交わした数分だけでも、白波は誰かを無視をする性格には思えない。
「俺の他に見える人はいないの?」
「それが、見えてるんです。普通にいる男の人は」
「え、どういう意味だよ。言ってる意味がさっきから変わってるぞ?」
「例えばですけど……」
言いながら、白波は窓を開けて外を眺める。
窓の向こうには住宅街が広がり、街灯がぽつぽつと灯り始めて夕暮れの茜色と入り混じっている。
「あっ、あの人は見えています」
そう言って、白波は外に指をさした。
三階から視線で追うと、一人の男子生徒が帰路に立っていた。カバンを背負い、少し疲れたような足取り。時折スマホを取り出して画面を覗いている。
「でも私を気にかけてくれた人は、いつも知らないうちに無視しているらしくて」
窓から視線を戻すと、綺麗な顔立ちに影が落ちている。
「じゃあ声をかけてこない人は見えているってことか?」
「目が合わない男の人は見えています。あと、大人の人は男性でも話せるし見えています」
「大人は見えてる……?」
「はい、パパとかは見えてます。……話したくはないですけど」
それは話してやれよ、パパが可哀想だろ。
「あ、あと先生も見えています。だから授業にも支障とかはなくて」
自分に声をかけてきた同年代の男子を対象として無意識に無視しているのか。
ただ目が合わない男子は認識ができている。それと大人は見えている、か。
簡単に脳内をまとめたが、全くもって意味が分からない。




