君と日常の色を(3)
「琥珀……?」
静けさが募り、困惑に瞳を滲ませている。
橋の下。俺と同じ高さで、白波が岸辺に立っていた。
彼女の瞳は俺を見つける。
「あれ、美空さん?」
「白波、どうしてここに?」
「え、いえ。前に小豆と来たことがあったので」
そう言って、白波は橋の上に視線を移した。
でも首を傾げて、また平行線にいる俺に視線を戻す。
思い当たるところを別々に探し回っていたからか、白波も息が上がっている。
「それより、何をしているんですか。小豆を探すって言ったのに一人で川遊びですか?」
「衛藤の馬鹿がヘアピンを落としたんだよ」
「えっ、不法投棄ってやつじゃないですかっ。お揃いなのにっ」
口にしながら、白波は迷いなく川の流れへと足を踏み入れた。
冷たい水が膝下まで浸かっても、白波は一歩一歩を確かめるように進む。
水の冷たさや波の揺れを気にしていない。
「……」
俺とは違う。
何か馬鹿げた行動でもとらない限り、沈んでいく衛藤は話を聞き入れてくれない。
だから、俺は大して必要でもないヘアピンを口実に馬鹿みたいに飛び込んだ。
白波の行動は違う。
汚れることを臆さない姿勢は友情の証だった。
川面に反射する陽の光が揺れ、水しぶきが飛び散る。波に押されるたびに、足元の感触が変わり、流れが身体を微かに揺らす。でも動じずに、視線は迷いなく集中していた。
「小豆……」
その呟きは、勢いを帯びて川の空間に響いた。
頭に付けているヘアピンは黄金色に輝き、片割れを探していた。
視界の端で見えた衛藤の肩が小さく跳ね、驚きと戸惑いが顔に刻まれている。
「あ、あった。ありましたよっ」
白波の声が川面を弾ませた。
浅くなった石の上から小さく光るものを拾い上げている。
水に濡れた手が、確かにヘアピンを握りしめる。
小さな金属片を指先で確かめ、笑みを咲かした。
「よく見つけたな。正直諦めてたわ」
「私、かくれんぼは得意ですからっ」
白波の笑顔は、ほっとした安堵の色を帯びていた。
「あとは小豆を探すだけですっ」
浅瀬に足をかけ、続いてもう一歩を踏み出す。
冷たく流れる水を蹴り上げながら、俺も慎重に岸に向かって進んだ。
水が滴り落ちる狭間に、乾いた足音が近づいてくる。
「馬鹿……ですよ」
その声は、冷たい川から上がったばかりの二人に向けられた。
落とした張本人の口から出るには、あまりにも切ない響き。
二人を見つめる瞳には、安堵と同時に自分の不器用さを悔やむ色が混ざっている。
「小豆?」
ただ、予想外に声が落ちる。
意図せず白波から不意に溢れた言葉。
「……」
衛藤は何も言わない。顔を俯かせるだけ。
分かっているのだ。視線が自分に向いていないことを。
「あれ、先輩。小豆は?」
「衛藤ならどっか行ったよ」
本人を横目に芝居を見せる。
「え、どこに?」
「さあ」
「小豆、どこ行ったんだろ。今、いたような気がしたけど……。とりあえず探してきます!」
「あ、待って」
走り出そうとする白波を引き止める。
「白波はさ、衛藤のことをどう思ってるんだ?」
衛藤ならすぐ近くにいる。
でも衛藤を景色として認識している白波は見えていない。
だからこそ、俺は問いかけた。
息を落ち着かせると白波は水滴を拭う。
「どう、ですか?」
「うん。なんでもいいよ」
「……」
白波は拗ねたように唇を尖らせて顔を逸らす。
「おせっかい」
ただ一言。
「あと自分のこと話してくれない」
もう一言。
「私のこと世間知らずの馬鹿って思ってる。小豆の方が馬鹿なのに」
すかさず三発目。
「なんで……」
衛藤の感情がこぼれる。
ゆっくりと白波の方へ寄っていく。それでも白波は分かっていない。
「あと勝手に先輩と仲良くなってる」
「それはいいだろ、別に」
「いつの間にか仲良くなってる、って驚かせたかったのに。先を越された気分です」
衛藤は白波の前で止まった。
「……」
衛藤が目の前に到達しても、白波は気が付かない。
どうでもいいことを一人で拗ねているだけ。
認識できていない。衛藤を景色として捉えている。
だから白波は文句を堂々と口にしているのだ。
でもそれを伝えられただけでも充分だった。
「あと、」
「もういい」
白波の頬に両手を添えた。
「えっ、小豆? いつから?」
白波は驚いたように衛藤を見つけた。
景色は触れられない。だから認識することができた。
「もう、いいよ」
もう一度、衛藤が言う。
目頭に集まった涙が、頬を伝って流れ落ちている。
「もう、……いいから」
繰り返していくたびに大粒になって制服を濡らしていく。
白波はむっとした表情を浮かべた。
「よくない。小豆はずっと何も言わないもん」
「そういうところだよ。変なところで意地を張る」
「小豆は何も言ってくれないじゃん」
白波の手も衛藤の頬を捕まえる。
お互いが力強く押さえているのか「んーん」と唸り声も聞こえてきた。
「だって私が話しても琥珀には伝わらないじゃん」
衛藤が顔を前後に振った。
白波はそれを振り払おうとした。
ただ振り解いたタイミングが悪く、後方へ尻もちをついてしまった。
「いたっ」
「ご、ごめ————」
「でも話してくれたらいいじゃん! 勝手に諦めないでよ!」
手を差し伸べた衛藤の腕を掴み、白波が衛藤を抱き込んで地面へ引き込む。
ぱちんっと乾いた音が広がる。衛藤の頬がじんわりと赤くなっていた。
その瞬間、勢い余って二人のバランスが崩れた。
足元の濡れた砂利に滑り、手を取り合ったまま、冷たい川に沈み込む。
ぱちゃん。水しぶきが飛び散り、驚きが混ざって空気を震わせた。
ただ浅瀬に足首をつけても、二人の熱は引くことがなかった。
「……っ、叩くのは違うじゃん!」
衛藤も白波の髪を掴んで、背中を水面へ押しつける。
「話したらわかるかもしれないでしょ!」
「小豆は話してもくれないじゃん!」
「琥珀には分からないから話してないの!」
白波が衛藤の頬をつまみ返すと、衛藤はその手を払いのけて鼻をつまみ返した。
白波も負けまいと耳をつねる。
「小豆より国語の点数いいもん!」
「国語なんて授業を聞いていたら誰でも取れるの!」
「小豆は取れてないじゃん」
「うるさい!」
言い合う二人のそばで俺は一人で残される。
「子供だ……」
俺の声に気が付かないほど、未就学児のような争いをしている。
やいやい、わーわーとつねっては転がり、押さえつけて水飛沫をあげる戦いを繰り広げている。二人とも新品だった制服が汚れていることを気にも留めていない。
「変なところで意地を張るのは小豆だって一緒! パンケーキ食べに行ったときも、無糖のコーヒーを雰囲気に呑まれて頼んだのに、結局飲みきれなかったじゃん!」
「それは見栄でしょ! 琥珀だって部活でもらった差し入れのアイス、余ったやつでいいって言って、溶けてたの悲しんでた!」
「それは関係ないじゃん!」
「先に関係ないこと言ったの琥珀!」
「小豆は子供!」
「子供はどっち!」
互いの頬は赤く腫れ、髪の毛は花の女子高生と思えないほど乱れている。
「私は間違ってないもんっ。小豆がおかしい!」
「なにそれ、琥珀だって十分おかしいでしょ!」
「おかしくない!」
「私だっておかしくないよ!」
絞り出した想いは少しずつ涙に濾過されて流れていく。
うるさいのに静かで、騒々しいのに穏やかだった。
溜め込まれていた二人の遠慮が、一つ一つ吐き出されていく。
それは些細なことでも、二人に必要なことだ。
依存の関係を変えるには、この工程が必要になる。
「琥珀は遅刻しても走ってこないしっ!」
「小豆だって食べるの遅いの本当にいや!」
「琥珀の嫌いなものを食べてあげているから遅くなってるんでしょ⁉︎」
「小豆が私に聞かずに次々と頼むからそうなるんじゃん!」
「おかしいの琥珀でしょっ」
「小豆だもん!」
二人の揉め合いを見ていると不思議と笑顔が溢れる。
本当に可笑しくて、俺は二人を一枚の写真に収めた。
「いいや、二人とも充分おかしいぞー」
パシャと念の為、もう一枚。
画面の中では白波の髪を掴む衛藤と、衛藤の頬をつねっている白波がいる。
「ほら、どっちもガキだ。高校生にもなって見苦しいから程々になー」
シャッター音に反応した二人に写真を見せた。
二人は掴み合っていた手を離して画面に釘付けになる。
「……」
ぐちゃぐちゃになった二人はお互いの顔を見合わせた。
ただ二人して、視線を俺に戻して眉を寄せる。
「変態!」
「なに、勝手に撮ってるんですか!」
「ぐぉっ、やめろって!」
白波は俺を川に押し戻す勢いで猛進して、衛藤は耳を引っ張ってくる。
俺からスマホを取り上げて、俺は白波に川へ突き落とされた。
バシャン、頭までは濡れていなかったのに全身が涼しむ。
「ごめっ、ちょっ、ほんとごめんって!」
「先輩は本当に痛い目にあった方がいいです!」
「ちょっ、マジで耳ちぎれるって。今はパン屋でも有料なんだから大事にしろっての!」
「……」
「あ、本当にすみません。琥珀さん、腹パンはやめてください。パン屋だけに」
「ふんっ!」
「ごほっ!」
川から上がってうずくまる。
「おい、衛藤助けろ……、胃がへこんだ。あいつ、意外と武闘派だぞ……」
「……」
「衛藤さん?」
俺のスマホの画面に釘付けになり、固まっていた。
その表情は少しずつ明るくなっていく。
「子供みたい」
小さな声は写真を見たうえでの感想だった。
その感想に俺も腹を押さえながら口を挟んだ。
「そうだよ、どっちもおかしくて、どっちも馬鹿丸出しで、どっちもくだらないことで揉めている」
淡々と言ってスマホを回収する。
下流に見える別府湾で脳を落ち着かせて、また二人に向き合った。
水滴を全身に感じながら、笑って言う。
「ほら、お互いの顔を見てみろよ。すげえクソガキだろ?」
ぼさぼさになった髪。赤く染まる耳や頬。汚れている制服。
それも川水で濡れている。
わんぱくな小学生でもここまでにはならない。
「……ぷっ」
顔を見合わせて、二人は大きく笑った。
お互いの瞳に各々の顔が映る。
「本当にひどい顔」
「琥珀も同じだよ」
「ほら、ここ。髪の毛乱れてる」
「琥珀のせいじゃん。あと琥珀も同じ」
「……」
「……」
お互いに相手の身だしなみを整えている。
「これ、もう捨てちゃ駄目だよ。犯罪になっちゃうもん」
白波は静かに差し出した。
自分の頭にも付けているお揃いのヘアピンを。
「……」
「あれ、五年以下の懲役もしくは罰金ですよね?」
「知らねーよ」
俺に向けられたが、仰向けに空を見て投げやりに答える。
今は何も言いたくなかった。
口を挟みたくなかった。
二人が二人だけの時間を大切にして欲しいから。
「……」
衛藤は何も言わない。
数秒間、二人は無言で見つめ合うと白波が衛藤を強く抱きしめる。
「ごめんね。私、馬鹿だから小豆が何かを思っていても分からないの」
「……」
目を見開いた衛藤は、またすぐに視線を下にする。
「でも、小豆とは離れたくない」
「……私も、ごめん」
「ううん、私もごめんね」
「ごめんね……」
伝わったか不安になったのか、もう一度繰り返す。
声が震えを帯びて、衛藤の瞳はまた潤い始めた。
すでに赤い目元がさらに赤くなっていく。
衛藤の腕が動き、白波を捕まえる。
「わたしも琥珀と離れるの、やだ……」
くしゃっと顔を歪ませる。
涙も堪えようと頑張ったが、それも無理だった。
「ううあああああ……っあああああ」
子供のように泣きじゃくり、嗚咽が空へと消えていく。
声を上げるたびに白波が力強く抱きしめていた。
快晴の下、衛藤の雨が落ちていく。
今までよりも強く、多く、流れ落ちていく。
ごめんね、ごめんね。
長々と滲み出る感情の切れ端を、白波は頭に手を添えて受け止めていた。
衛藤の顔を隠すように、ずっと受け止めていた。
「あのね、小豆」
嗚咽が緩まっていき、衛藤の呼吸が肩に触れる。
白波は微笑んで、静かに言った。
「私、小豆とはずっと親友でいたいな」
「……」
それは幸せの皮を被った残酷な肩書き。
衛藤はきっと、その関係を欲していなかった。
「小豆は親友でいてくれる?」
それでも、顔の見えていない白波はそう続けた。
瞠目して、また衛藤が涙を落とす。
「でも、」
感極まって、再び感情がむき出しになる。
「私は、……私は、」
鼻をすすると口元の筋肉が収縮する。
何かを言いかけて、首を振った。
「……」
俺を捉えて、衛藤は目端を緩めた。
強張っていた口元がゆっくりと解けていく。
————やっぱり、忘れません
心なしか、そう笑った気がした。
「私も、ずっと琥珀と親友がいいなぁ」
顔は見せないまま、白波を強く抱きしめた。
人生の分岐を噛み締めて、衛藤は道を見つけた。
親友でいる、と。
この日、初めて二人は感情を共有した。
気持ちを馬鹿正直に伝えることがすべてではない。
少しでも同じ思いがあること、それを共有しただけでも二人の距離は縮まる。
隣にいることを約束してから二人は離れた。
それでも、いつまでも白波と衛藤は一緒にいる。
俺はひとり、そう思うのだった。




