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君と日常の色を(2)

 放った手の動きは静かで、力も完全には入っていない。

 本当は終わらせたいわけじゃない。

 川に落ちた小さな金属片を見下ろす仕草に、心の奥で何かを押し込めているのが透けて見える。

 思念性プラシーボで隠されていた記憶が、鮮明に蘇るほどに強い感情。

 心では終わらせようなんて思っていない。

 それでも彼女は、誰にも見せない涙をこらえ、精一杯の演技をしている。

 それは疑いようもないほどに美しい感情だ。


「……」


 橋の柵を掴み、足底が地を蹴った。

 ぱしゃん。川面が大きく跳ねて冷たい水しぶきが風に混ざって顔を打つ。

 飛沫が頬を濡らし、髪の先にまとわりついていた。

 水は膝の周りをぐるりと包み込むように広がる。


「美空さんっ⁉︎」


 正面にいたはずの衛藤の声が上から聞こえてくる。

 足首には軽い痛み。飛び降りたから当たり前だ。

 川の流れも静かではなく、時折小石や枝を巻き込みながら橋の下へと進んでいる。

 水面に映る空や山の輪郭が揺れ、身体もそれに合わせて軽く揺れていた。


「なに、して。なんでっ!」


 空からの声音が震えている。

 足元を包む清流の冷たさを感じつつ、視線は川の底へと向ける。


「ヘアピンなんて、あっても無くてもいいんだよ」

「じゃあ、どうして……」

「それでも、あったら大事なもの。そう思える物って大切だから」

「……大切って、どうして美空さんがそこまで」

「俺で言えば、このピアスだってそう。衛藤が気にしてくれたピアス」


 言いながら、耳たぶに触れた。

 水滴に包まれた指先が耳元の髪を濡らす。


「母親の誕生日に、俺が買ったピアス。渡す前に、両親は事故で死んじゃったけどな」

「……え」

「俺は二人を気に掛けるのは後悔してほしくないからだよ」


 いつかの白波が聞いてきた。

 どうして思念性プラシーボを知っているのか、と。

 理由なんて簡単だ。


「おかしな話だけどさ、このピアスを外すと途端に母親のことが思い出せなくなるんだよ」


 外した途端、母親に関わる記憶が飛んだような感覚に陥る。

 当時は母親を亡くした記憶を消し去るために、母親を思い出すことを拒否していた。葬式にも、墓参りにも顔を見せなかった。そのまま時間が過ぎ、ふと思い出そうとした時には、母親の記憶が思い出せなくなっていた。


「でも、ピアスを身に付けている間は、不思議と鮮明に思い出せる」


 これも、思念性プラシーボの一つと千草さんが教えてくれた。


「物や記憶は、その人との繋がりになる」


 自然と指先は耳元から離れていた。


「人は忘れる生き物だから、こうして形や思い出が大切になる。忘れても、また思い出して。忘れて思い出して。それを何回、何百回も繰り返していくと、思い出が自分の一部になっていく」


 自分ではない何かと戦っているわけではない。

 楽しさも、嬉しさも、悲しさも、辛さも、全てをひっくるめて自分の人生だ。

 自分にしかない記憶だ。


「辛いことは人生で絶対に起きる。だから辛いのも、人生の一つだよ」

「……」

「でも今の俺を見てみろよ。すげえ馬鹿っぽいだろ?」


 無邪気に笑ってやると、衛藤がようやく視線を向けてきた。


「我慢でも、取り繕っているわけでもない。これが俺で、これからも同じ。どんなことがあっても、全部を受け入れて楽しくやっていくだけ」


 千草さんに言われた。


————どうして絵馬がそこまで肩入れをするの


 助ける道理もないと言われた。その通りだ。


 ただ心のどこかで、悩みを続ける衛藤に同情していた。


 同情できたからこそ、言えることがあった。


「だから衛藤も、自分を好きでいてやれよ」


 拭いきれない感情の、その先を教えてあげたかった。


「嫌いな自分も、辛い記憶も、すべてを受け入れてやっていこうぜ?」

 

 俺は乗り越えてきたから。立場は違えど、事実は俺の中にある。


「……美空さんは、すごいです」


 ぽつりと、小雨のように弱い呟き。

 噛み締めた下唇は頬を揺らしていた。


「私は、美空さんみたいになれない……。頑張れない……」


 笑いかけても、衛藤には伝播しない。

 簡単に考えが変わるほど、安易な想いではなかったはずだ。


「衛藤は、白波との記憶を忘れようともしなかっただろ?」

「……っ」

「それって、思い出を抱えて生きていこうって頑張った証拠だよ」


 忘れることも考えられたはずだ。

 ただ思念性プラシーボは白波の記憶を消さなかった。

 それが答えだと思う。

 だから俺も、衛藤に余計なお世話をすることに決めた。


「俺は、頑張っている衛藤は好きだよ」

「……そんなの、誰でも頑張っていますよ」

「なら衛藤も頑張ってるじゃん。自分くらいは自分を褒めてやれよ」

「私は……、私なんか、頑張ってない……」

「それでもっ」


 震える声を、強引に言葉で蓋をした。

 一度、息を整えて、また優しく息を吐く。


「それでも、衛藤が頑張れないって言うなら」


 両の頬を指先で強引に持ち上げる。

 それを衛藤に向けて、意地悪く笑ってやった。

 俺なら、こう声を掛けて欲しかった。

 辛い時に一番元気になれる言葉。


「いつでも俺のところに来いよ。自分を褒めない衛藤を、いつでも俺が褒めてやるよ」

「……」

「もし乗り越えられないなら、そのときは、本当に片想いの相手になってやるからさ?」


 一人じゃない。


 そう伝えたかった。


 でも、単なる気休めだ。本当に隣にいてやるべきなのは……。


「小豆……?」


 横から声が割り込んできた。

 それは俺でも衛藤でもない。


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