君と日常の色を(1)
線路沿いに進み、くねくねとした坂道を登っていく。
『ゆ』と大きく書かれた建物が見えてきた。
大分県ではよく目にする温泉の証だ。
手前にあるカフェを通り過ぎて、俺は見つけたかった人物を見つけた。
「衛藤」
張り詰めていた感情が、ようやく逃げ出していく。
安心の波が一気に駆け上がってきた。
「……」
衛藤が驚いたように俺を見つめる。
「あれ、どうしたんですか?」
「ちょー探したぞ。やっと見つけたぁ」
「どうして、私がここにいるって分かったんです?」
「前に言っていただろ。お気に入りの場所って」
一時間近く、闇雲に走り続けていたが、屋上庭園で衛藤が言っていたことを思い出した。キラキラした別府湾を一望できる温泉があるって。
衛藤は石段に腰を掛けて海を見ていた。
山と名乗るには半端な高さだが、想像以上に眺めが良い。
そんなところまで走ってきたせいで、春になったばかりなのに汗が染み付いている。
とりあえず熱を溜め込んだブレザーを脱ぎ、腕にかける。
「なあ、俺の話を聞いてくれよ?」
「なんです?」
「衛藤は、俺を好きになれないよ」
ふう。と聞こえるように息を整える。
「だって、衛藤は白波を大事に思っているだろ?」
好きな人が幸せならそれで良い。
そうは思っていても、本当はみんな、自分が幸せにしたいと思っているはずだ。
衛藤の世界が、衛藤が中心であるのは当然。
でもそれは白波も同じだ。
「今は、勘違いをしているだけなんだよ。俺を好きになろうとしてさ」
「……」
「衛藤は白波が好き。それは忘れられないほど強く残ってる」
俺が言っていると、衛藤は顔を上げた。
「どうして、他人を相手にそこまでするんですか?」
「だって二人でいる方が幸せそうじゃん?」
「ここまで自分勝手な人とは思っていませんでしたよ?」
「俺からしたら衛藤の方が百倍ぐらい自分勝手だよ」
「……」
黙々と見つめられる。
でも気がつかないふりをして続けた。
「俺はさ、白波は衛藤といる時が一番楽しそうで、幸せに見えるんだよ」
「だから嫌なんですよ。楽しそうにされたら、……私が辛いから」
顔を俯かせて、本音がこぼれる。
「知ってると思いますけど、琥珀ってどうしようもないアホっ子なんですよ」
感情を殺した声だった。
「連絡先交換しよって言ったら端末ごと渡してきたり、写真撮ろって言っても、それぞれ個人で撮るって思っているし。それに琥珀の撮る写真は、いつも指がかかっているから撮れてないんです」
「それはあいつらしいな」
「本当にどうしようもない子なんです。どうしようもなくて、馬鹿な子」
子を思う母のように、優しくて愛のある言葉。
その熱は低温でも長く続いている。
「だから平然と私に刺さる行動をとる」
「……」
「カップルを見れば羨ましがるし、友達も増やそうとする。誰よりも普通の女の子で、どこにでもいる女の子として真っ当に生きていこうとしている」
まばたきの後で、衛藤は影を追った。
「それで、ちゃんと普通の女の子になってる。琥珀は琥珀だけど、段々と私の知らない琥珀になっているんです」
「なんだよそれ」
雰囲気を逸脱して、軽い声音を送った。
でも衛藤には伝染しない。
衛藤は俺から距離を空けるように歩き出した。
俺も後ろを追いかけていく。
細い道を下っていくと川沿いの橋が現れ、その上に差しかかる頃には、彼女の背中には言葉にできない影がまとわりついていた。歩幅は小さく、立ち止まりそうで止まらない。
「私が琥珀の人間関係を閉ざしていた。私がいない方が琥珀は女の子らしい」
それは衛藤が白波と衝突した後と同じ言葉で、同じ思いが綴られている。
「だから琥珀に私はいらないんです」
「いらないってお前な。そんなこと」
「実際に私がいなくても立派な高校生ですよ。私がいない方がよっぽど普通です」
「そりゃ高校生だしな。生きていたら普通になる」
「だから、私じゃダメなんですよっ」
慟哭が俺に向く。
押し殺していた何かが爆発するように。
橋の中央で、衛藤は唐突に足を止めた。
「私が、琥珀といると普通になれないから……」
川面に反響する声は掠れて、苦しくて、泣いているように聞こえた。
振り返った彼女の瞳には、涙と怒りと寂しさが入り混じっている。
「友達ができて、好きなことをして、好きなものを食べて、みんなと笑っていて……」
感情を堰き止めていた堤防が少しずつ崩れ落ちていく。
「そこに私はいなくて、でも琥珀は楽しんでいて」
自身の存在価値を自分自身でなくしていく。
自分の口で決壊を早めていく。大きな感情が場の空気を塗り替えている。
「だから琥珀は私を見なくなった」
「違う」
「何も違いませんよ。琥珀は私が見えなくても高校生らしく楽しんでいます」
「だから違う」
「違わないっ。私がいなくても琥珀は生きていける。今の方が楽しく生活してる!」
パァンっと大きな音がした。
衛藤が橋を叩く音。気を取り戻すように手を赤く腫らす。
「だから、……琥珀に私はいらないんですよ」
振戦を取り込んだ悲痛な感情が響いた。
それでも、俺に負けるわけにはいかない。
「衛藤は間違ってるよ」
「だから何がっ!」
「確かに、白波は衛藤がいなくても楽しんでる。普通の女の子にもなってる」
「ならっ、」
「でも普通じゃなくていいじゃん。二人が楽しければそれでいいだろ?」
「そんなの、なんとでも言えますよ」
「そうだよ。だから俺は言ってる。二人は二人の方がいいって」
「なら、そう思わせる証拠は⁉︎ 何もないのに言わないでよ!」
「証拠ならずっとあっただろ?」
衛藤の叫びを全て笑い飛ばす。
「衛藤の方こそ、白波を見てないんだよ」
「見てますよ、ずっと見てたっ」
「なら、白波の何を知ってるんだよ?」
「好きな食べ物も、好きなスポーツも、漫画も、服も、嘘をつくときの癖も、変なところで意地を張るところも、全部知ってる」
「一番大事なことが分かってない」
「……なにが」
「あいつは衛藤といることを楽しんでる。それは変わらない事実だろ?」
「そんなの嘘、そんなの、私じゃなくても」
「衛藤じゃないと駄目なんだって」
まだ続けようとした衛藤の言葉を、俺は上からかき消した。
「二人が二人で過ごしてきたのは事実で。白波が馬鹿なのも事実で。衛藤が白波を好きなことも事実で。二人が忘れられない時間を過ごしてきたのも事実。二人が一緒に居たいから、高校に入って感情を隠してまで、崩れずに関係が続いてきたんだろ?」
「……」
「それに、もう自分でも分かってるだろ?」
言葉は挟まれない。
だから笑って続けた。
「それだけ白波のことを話せるじゃん。やっぱり、衛藤は俺を好きになれないよ」
「……っ、それは、美空さんの都合です」
「そうか?」
「そうですよ。私は、琥珀と離れたい、から。だから、一緒にいたくない」
「俺にはそうは思えないけどな?」
「だから、何を根拠にっ」
「ヘアピン」
「……っ」
「これからも一緒にいたいって思っているから、お揃いにしたんだろ?」
その言葉に、衛藤の手がわずかに震えた。
握られていた小さな金属が光を取り出す。
白波が付けていて、お揃いと言っていた物。
指先で握りしめたまま、衛藤は目を伏せる。
「……関係ない」
ポツリと洩れる言葉と同時に、頬を伝う一筋の涙が光る。
名残惜しさと切なさが混ざり合い、風に揺れる彼女の髪をかすかに揺らした。
握りしめたヘアピンは、逃れようとした感情の証だった。
全てはその小さな金属片と彼女の震える肩、そして涙が語っていた。
「なら、これで終わりになりますね」
小さく呟くと、顔を伏せたままヘアピンを放した。
ゆっくりと落ちて水面に触れた瞬間、光が小さく弾けて消えていく。
「だから、諦めてください」




