記憶に隠された日常(2)
言葉を止めた俺に、白波は素っ頓狂に首を傾げる。
「どうしたんですか、先輩?」
「……っ。本当に、分かってないのか?」
「あ、確かにフレンチクルーラーを頼んでなかったです。買ってきますねっ!」
質問の意図とは違う解釈で白波は場から消えていく。
追加で注文へ行く白波を温かく見守って、衛藤は背もたれに体を預けた。
「のほほんとしていて自分に正直で。ほんとに良い子ですよねぇ」
「……どうしてここが?」
「前々から、ここにくる約束をしていましたから」
さらりと未練もなく言ってくる。
「悪いな。約束を奪っちゃって」
「良いですよ。代わりに私は、美空さんに違う場所に連れて行ってもらうので」
店内の明るい装飾に毒されて、衛藤の声が明るく聞こえてくる。
「衛藤は、俺のことなんてどうでもいいはずだろ?」
「いえ、私にはどうでも良くないですよ」
「嘘だ。本当なら最初から白波を忘れているはず」
「あの子よりいい子を見つけたい。比較対象がなければ問題は解決しません」
「……衛藤は、それでいいのか?」
やわらかな双眸が優しく緩む。
「琥珀は可愛いですよね」
独り言のような口調。
俺に意見を求めているわけではない。ただ思ったことを言っている。
「周りが何をしていようが、自分だけの空間を持っていて」
俺の態度には目もくれず、白波だけに視線を当てている。
まともに取り合っても話をしてくれる様子はなかったので、「ちょっと危なげないけどな」と言っておいた。
「でも今はちゃんとしている。私はそれが嬉しいです」
俺の背後で白波が注文を終えたのか、衛藤は立ち上がる。
その瞬間、三つ編みを留めていたヘアピンを外して指で摘んだ。
行き場を無くした三つ編みは器用に耳元に掛けている。
「だから私は、あの子が幸せになってほしい」
「なら、」
「でも、私も幸せになりたい」
溢れる本音は強かった。
誰よりも願望が連なっている。
「だから、美空さんを好きになりたいです。あの子に私は必要ありませんから」
「……」
「だから琥珀に私のことを思い出させないでくださいね。それが私の幸せです」
出口へ行く前に、瞬間的に捉えられた白波の姿は、衛藤の瞳にはどう映っていたのか。この一瞬で瞳の中を観察できるほど、俺の視力は優れていなかった。
衛藤の納得する形になればいい。俺はそう考え続けてきた。
なら、これでもいい。そう、これが衛藤の望む世界だ。
白波が衛藤を忘れ、それぞれがお互いに新しい関係を構築する。
「……はあ」
額を手で抑え、テーブルに影が塗られる。
これまで通りを望むのは、俺の自己満足かもしれない。
つい最近知り合ったばかりの第三者が、勝手に理想を押し付けているだけだ。
口を挟む権利はない。
なのに、心のどこかで、一人で置き去りにされる寂しさが膨らんでいく。
衛藤と交わしていた何気ないやり取りが断片になって頭の中を巡り、それが一つ一つ現実からシールのように剥がれていくのを見ている気分だった。
————好きって、なに……?
「……あの感情を越えるわけがねえだろ」
置き去りにされているのは、俺じゃない。
衛藤が白波のことを忘れようとしているだとか関係ない。
どうでもいい。
声をあげる資格がないと分かっているから、言葉にできない分だけ怒りが濃くなる。
俺が知っているのは、白波琥珀を想う衛藤小豆だ。
その記憶を捨てることはできない。
いや、させない。
「先輩?」
テーブルへ戻ってきた白波が眉を顰めていた。
睨み据え、俺は反射的に声にしていた。
「あるだろ、あいつと過ごした時間が……!」
「え?」
「衛藤は、白波にとってもその程度なのか?」
「えっと、どうしたんですか?」
「っ、……」
正そうとするが圧倒的に説得させる材料がない。
白波にある衛藤との思い出を俺は知らない。
俺が知っているのは、衛藤から白波への感情だけ。
衛藤と話して、白波のことも知ったつもりでいた。
でも結果はこれだ。
俺には打つ手がない。何か、何かないだろうか。
そう思った時だった。
「……ヘアピン」
衛藤が外していたヘアピン。突然と頭に浮かんできた。
「そのヘアピンも、誰といつお揃いにしたんだよっ」
「え、ヘアピンって。これは先輩がお揃いにしたいって、それから上のお店で一緒に買って」
「本当に俺だったか?」
「……あれ、でもあの後にこの店にお揃いで付けて入った、ような……?」
言葉はしどろもどろに続く。
白波の視線は徐々に落ちていく。
俺を外すように泳いでいく視線はどこかに集中した。
ゆっくりと白波の腕が伸びて、トレイに乗ったドーナツを掴む。
「あれ、これ、どうして頼んだんだろ……?」
それは先ほど追加で注文していたフレンチクルーラー。
「私、そんなに好きじゃないんですけど」
言っている意味が分からず、俺は何も反応するつもりはなかった。
抜けている白波のいつも通りの行動だと片付けようとした。
でも、何かが違っていた。
「いつも頼んでいるけど、私はそんなに食べなくて……」
本人には重い疑問だったらしく、あれ、あれっと口元を塞いでいる。
「なんで、私、女の子と、ここに来たことがあるんだろ……?」
ピースが埋まっていく感覚があった。
消えていた息が吹き返す。
「衛藤、……小豆と来たことがあるだろ?」
これに乗らないわけにはいかない。
俺が説得しなくとも、白波には破片が残っている。
共に過ごしてきた女の子の記憶が残っている。
「え、とう?」
「仲が良かったんだよ。衛藤と白波は」
「仲がよかったって……」
「衛藤だよ。衛藤小豆。白波と友達でずっと一緒だっただろ?」
「……分かるのに、分からない」
息が乱れる。静かな絶望が白波に浮かんでいた。
衛藤を記憶から解離していた白波は、何かの情報から衛藤の欠片を思い出した。
人の思い出はデータのように完全に消去できるものじゃない。
脳で、そして細胞が必ず覚えている。
俺と知り合った数週間とは違う。
衛藤との年単位もの思い出が細胞にしまわれている。
ドーナツ一つが思い出になるほど、強くこびりついている。
「そうだ。これも、これも買ったんだ……」
震える声で、白波がヘアピンに触れる。
「先輩と初めて話した日の帰りに、お揃いが欲しいって……」
静かに声が枯れていく。
「どうして忘れていたんだろ……。あれ、」
小さな雫が綺麗な肌を伝っていく。
それは嬉し涙でも悲し涙でもない。
自身の感情を必死に探すための涙だった。
呼吸を乱して口元を覆う。
「かんない。なんで……、なんでっ、浮かばないんだろ」
「……」
名前までは出てこない。
衛藤という存在を思い出しているが、全ては浮かんでいない。
まだ断片的にしか思い出せていない。
「わかるのに、わかるのに……。わかんない」
男子の存在を知っているのに認識できていなかったのと同じ。
まだ衛藤小豆を完全に認識できていない。
「……んで、なんで」
前に千草さんが言っていた。
分かっているのに、存在が認識できていない状況。白波は衛藤を失認している。
「行くぞ」
それでも白波の手を俺は掴んだ。
「え?」
まだ解決したわけじゃない。
強く思い出に残る記憶を、俺から呼び起こすのは簡単だ。
一時的に無くしたパズルのピースの形を、俺が教えてあげただけ。
「衛藤を追いかけよう」
「でも、私……」
「でもいいよっ。やっぱり白波と衛藤は一緒が似合うって」
これからが難しい。確かな方法はない。
それでも俺の知っている二人なら、会えばどうにかなるはずだ。
そう思わせてくれるほど、理屈の必要ない絆がある。
俺は白波の手を引いて、身一つで店を飛び出した。




