普通の押し付け(2)
戻るね。
その言葉と共に扉が開き、一人の足音が遠ざかっていく。
「小豆」
優しい声で白波が衛藤を呼ぶ。
衛藤は静かに言った。
「ごめん琥珀。巻き込んで」
「私は大丈夫。でも小豆も中村さんに謝らないと」
「嫌」
「嫌でも謝ることが大切だよ。小豆もひどいこと言ってた」
「嫌。あんなの自分勝手でしょ」
吐き出された声が沈んでいく。
「私はこのままでいい。今のままが良かったのに、それを邪魔されるのが嫌」
「私が、クラスの子と仲良くなったから怒ってるの?」
「……そんなんじゃない」
「でも今日の小豆おかしいよ。どうして良くしてくれる子にあんなこと言ったの?」
衛藤は何も言わない。
その衛藤を見てか、白波は声を震わせた。
「やっぱりおかしいよ」
「……おかしいって、私が?」
「だって、せっかく誘ってくれたのに、関わる相手を損得で決めて……」
「でも結局は皮が剥がれたよね。実際はあんなことを思ってた」
「それは小豆も良くないこと言ったからじゃん。何がそんなに嫌なの?」
「何って、そんなの、」
衛藤が絞り出すような声を出す。
空気がピリつくのを肌に感じた。
「琥珀だよ」
「……え、どう、して?」
震えを帯びた白波の声。
「私は、琥珀が……」
衛藤も同様に声を震わせていた。
ああ、駄目だ。このままだと……。
不穏が高まりきり、俺は立ち上がっていた。
「琥珀のせ————」
「はいはい、ストップ」
言葉を終える前に、階段を上って声でかき消す。
突然の乱入者に、二人とも驚いたように肩を震わせた。
「先輩……」
「……っ」
白波の顔が沈み、衛藤は静かに顔を逸らした。
「よく分からないけど、下まで丸聞こえ」
「……すみません」
「いいよ。俺に謝ることでもないし。あっ、お前は待ってろよ」
黙って下りて行こうとする衛藤に腕を回し、軽く自分の方へ引き寄せた。
薄らと涙を浮かべていた衛藤は抵抗することなく素直に胸の中で黙る。
「白波はクラスの子とご飯食べてこいよ。今の人じゃなくても誰かしらが誘ってくれるだろ」
「え、でも、」
「こいつは俺と食べるから」
白波が心配そうに口を挟むが、すぐに言い返しておく。
「それじゃあ……」
「おう、またな」
居た堪れない顔を作るが、言葉の通りに従ってくれた。
教室へ戻る白波を見送っていると、衛藤が腕を払いのけた。
「なんのつもりですか」
可愛らしさを捨てた野良猫が不機嫌そうに顔を顰めている。
普段の彼女が見せる作り込んだ振る舞いはなく、衝動に身を任せた仕草。
「あのまま、何を言うつもりだったんだよ?」
「美空さんには関係ないです」
「ないよ。でも二人の仲が悪くなると俺の居心地が悪い」
「……」
周囲に暗い雰囲気を纏ったまま、目端が細くなる。
じとっとした目つきには、明らかにこちらを粉弾する意図があった。
「……はあ。仕方がないとは思うよ」
衛藤には可愛くいてほしい。笑顔で明るく、楽しそうな顔で。
でもそれさえも偽物で作り上げるのが彼女だった。
それがない今は、本物の感情を宿している。
なら、今は本物の感情と向き合うしかない。
「見たくなかったんだろ、白波が他の誰かと仲良くしているところを」
だから白波だけを誘うように言った。自分がその場にいたくないから。
「どこから聞いていたんですか?」
「クラスの子が来たあたりから」
「気持ち悪いですね。盗み聞きなんて」
その言葉は無視して、2回目のため息を聞かせる。
「白波のせいで荒ぶった。なんて言ったら、あいつはかなりへこむと思うぞ」
「……知ってますよ、そんなこと。美空さんなんかより全然知ってる」
「なら、なおさら衛藤の口からそんなこと言うな」
「何も、知らないくせに口を挟まないでください」
「あいつにとって、衛藤がどれだけの存在なのかも自分で分かってるだろ」
「……琥珀は私がいなくても、楽しんでいますよ。今みたいに」
俯いたまま、こぼれた衛藤の声が風に流されていく。
事実、衛藤が休んでいた期間に、白波はクラスメイトと仲良くなっている。
「だから琥珀に、私はいらない」
「そんなことはないだろ」
「いらないんですよっ!」
癇癪を起こした子供のように意図の読めない憤りが抽出されていた。
私が、私が……。
嗚咽のように吐き出す言葉は次第に強くなる。
「私が、琥珀の人間関係を閉ざしてたっ」
「衛藤、」
「分かってる。でも、それしかなかったの!」
「……」
何かを言い返そうとした。
でも何も言えなかった。大粒の涙が衛藤に生まれていたから。
「変わらなくて、いいのに……」
か細い声は、涙に呑み込まれる。
上がった顔は感情が混沌としていた。
「……っ」
胃の底から何かが込み上げてくる。体内で暴れる感情からは、懐かしい味がした。
支えきれなくなりそうな体を壁に手をついて姿勢を保つ。
体表についた汗が壁に押し付けられ、盗まれた体温はぞっとするほど冷たくなっていた。
「……衛藤」
衛藤を見る目が遠くなる。
心臓が強く跳ねる。
苦しい。悔しい。悲しい。全ての感情が伝わってくる。
その感情の在処を、衛藤は探していた。
「ねえ、美空さん……」
衛藤は静かに笑おうとした。でも笑えなかった。
悲痛に傾いた感情の天秤は、彼女の想いをありのままに映していた。
「好きって……なに?」
「……っ」
いつかの衛藤が言った、押し殺されていた感情が改めて顔を出した。
衛藤にしか分からない。衛藤だけの想い。
世の中では、多数派とされている俺には分かるわけのない感情。
「なんで私だけ」
それは言葉で表せないほどに綺麗で、女の子らしい感情。
誰もが持てる恋愛の権利が衛藤を苦しめてきた。
一年間、休みのない青春という季節に、衛藤は苦しめられてきた。
「こんなに……辛くないとダメなんですか?」
過去を思い返すように、衛藤の感情が涙に浸る。
悲痛な情動が溢れ出る。
心臓を締め付けるように血管が縮んだ。
「みんな、みんな、ちゃんと普通で。でも、私だけはみんなと違って」
思春期の男女はどこか浮かれる。
自分に備え付けられた恋愛という新たな感情に胸が高まって、時間があればその話をする。
衛藤にとって、それは苦痛でしかないはずだ。
自分のことは話せずに、相手の話を聞いて、そのうえ自分が普通ではないと思い知らされる日々。
積み重なっていくほど、自分に対する劣等感を強く意識してしまう。
「やっぱり、いらないなぁ……」
誰にも届かない強い意志。
嫌な予感した。背中の髄が凍ってしまうような、そんな感覚。
「……必要、ないから」
すべてを言わせてしまうことを全身の細胞が拒絶する。
それでも有無を言わせない悲痛な想いに怯む。
口出しを許さない瞳が強く俺に向けられる。
衛藤は鼻をすすり、小さく息を吸い込んだ。
すべてを察したように儚い笑みを涙に着せる。
「全部、無くなっちゃえばいいのに……」
逃げの言葉が、ゆっくりと空気に溶け込んでいく。




