一人の距離感(2)
残された教室には、昼下がりの光と呼吸音だけが残る。
「これはどういう茶番?」
広々とした空間で、口だけを衛藤に向けて帰り支度を進める。
「茶番と言いますと?」
「分かんない。でも何かただならぬ策略的なものを感じた」
「美空さんにとって私はどういう認識なんですか……」
並んで扉を出ると、廊下はすでに静けさに染まっていた。靴音、笑い声、部活動へ向かう生徒たちの掛け声は少し前に消え去り、二人の歩調は自然と揃っていく。
「ただ、琥珀が美空さんに懐かないようにしているだけですよ」
「その言い草だと、白波が俺を誘おうとしていたことを事前に知っていたのか?」
「ええ、まあ。悩んでいましたので」
「だから昼のうちに俺を誘ってきたわけね。でも三人で何かするなら意味がない気がするけど?」
「琥珀よりも、私の方が美空さんと仲がいいと思わせるためですよ。あの子は男子の耐性がないですから念には念をです」
「徹底してるんだな」
微苦笑を浮かべていると一階まで辿り着く。
下足室では誰かを待つ生徒たちが並び、外ではグラウンドに響く掛け声や、テニスコートから飛ぶボールの音が混ざり合っていた。校舎の周りを走るバスケ部の足音がリズムを刻み、放課後の空気はひときわ熱を帯びている。
「どこで勉強する?」
「私はどこでも。美空さんにお任せしますよ」
「お任せって一番難しいやつだな」
「私を楽しませるチョイスをお願いしますね、先輩?」
「だりー、この後輩」
唇をしなやかにさせて笑ってくる。
ただ笑った後にきょとんとした顔で前を見つめた。
「それはそうと美空さん」
「うん?」
「あの人、さっきからこっちを見て驚いていますけど、知り合いですか?」
「あの人? ……うわぁ、だりぃ」
視界に入る女子生徒を見て、そんな言葉が漏れた。
だるい。女子生徒。もう当てはまるのは一人しかいない。
蒼はグラウンドからウォータージャグを持って近づいてくる。仕事を教えていたのか、後ろには体操服を纏った一年生を子分のように連れていた。
「まじか!」
俺を見て、蒼が口を開く。続いて衛藤に視線が向いた。
こいつ、放課後だと本気っぽさがあるじゃんとか言っていたから、余計に勘違いしていそうだな……。
「まじですか!」
衛藤を見ながら、蒼は再び目を見開いた。
「なんだよ?」
「むふふふふっ、べっつにぃー」
るんたるんたと俺たちの横を駆けていく。
俺に彼女ができたら自分と噂されることがなくなるって踏んだのか。後ろから見ていた一年生は蒼の奇行に頭を悩ませながらも顔を見合わせて後ろに続いていた。蒼先輩ってキモいよね。そう思われていて欲しい。
「……」
横を通る時、一年生の視線が衛藤に向いた。どこか訝しげな顔で、そのまますれ違う。
「今の人、知り合いですか?」
振り返り、衛藤は蒼に焦点を合わせている。
「あれで知り合いじゃなかったらやばい女だ。知り合いでもやばい女だけどな」
「すごく綺麗な人ですね。肌も雪みたいで」
「まあ清楚の擬人化だしな」
「なんですか、それ?」
「あいつの肩書きみたいな」
「へえ、確かに合っていますね。肌も髪質も綺麗で、理想も理想です」
感心して呟くと衛藤は俺を見る。
「ずばり、あの方は恋人になる可能性は?」
「ないから安心するな」
「えー、そうなんだ」
とろんと沈むまぶたで口元を緩ませている。
口元が元に戻った後も、瞳は焦点を結ばないまま、ほんの一拍だけ遅れてこちらを追った。まばたきをすれば誤魔化せる程度の違和感だが、本人もたぶん気づいていない。
「というか、やっぱり調子悪い?」
俺が聞くと衛藤は素っ頓狂に眉を寄せる。
「へ、そうですか?」
「いつもより元気がない感じがする」
「ええ、どうなんだろ。でも言われてみれば倦怠感ですかね……?」
「ちょっとごめんな」
とりあえず、衛藤の額に手を添える。微弱な熱感。発熱があるかは微妙な感じだ。
それでも歯車が一枚だけ噛み合っていないような不調が言動に滲んでいた。
「んー、今日はやめとくか。昨日、パフェ二種類を一人で食べたのが効いたんだろ」
「え、確かにお腹の調子は悪いですけど。で、でも本当に大丈夫ですよ?」
「無理する時でもないって。風邪は拗らせて長引くとしんどいぞ」
「わ、私は大丈夫ですっ。なので勉強会はしましょうっ」
「いや、いいって。俺が風邪を移されたくないだけだから中止にしよう」
「で、でもぉ、琥珀の前で美空さんに恥をかかせないと駄目なのにぃ!」
「よし中止だな」
そんな意図があったのかよ……。
ただ言っている表情には赤みを帯びている。
熱があろうがなかろうが、俺が計画を把握したから中止だ。危ないところだった。
ちょうどその時、階段を下りてくる足音。白波がすらりとしたショートヘアを揺らして下りてくる。白波に状況を伝えると、すぐに中止を受け入れてくれた。
それからは衛藤を家まで送り、解散になった。
何かが小骨のように喉に引っ掛かりながらも、俺はただ帰路に着いた。




