一人の距離感(1)
午後の授業を終えて、教室内の生徒が立ち去っていく。
帰宅に塾に部活に、それぞれの目的を持った制服が俺を除いて全て去るには十五分ほどかかった。
「絵馬」
背丈のある男子生徒が教室に顔を出す。
「あれ、翠。何してんの?」
翠はどこか呆れた面持ちで軽く息を吐く。
「電子辞書。授業が終わったら返しにくるって言ってただろ。全然来ないから来た」
「あ、ごめん。普通に忘れてた」
「お前ね……。でも珍しいな。絵馬が教室に残っているの」
教室に誰もいないことを踏まえて言ってくる。
「まあな。ちょっとした罰ゲーム感覚」
「なんだそれ?」
微笑して翠は横の机に腰を添えた。
「翠こそ部活は?」
「今日はオフ」
「それこそ珍しいな。水曜日なのに」
「俺だけな。前に怪我したところを病院で見てもらえって」
「あーね。もう怪我はするなよー」
何気ない掛け合いの途中、前方の扉が音を鳴らした。
俺も翠も揃って同じ方向を見る。
「あ、先輩」
「白波?」
白波は迷いもなく足を踏み入れて、俺の机の方へやってくる。
その足先に迷いはなく、俺の前で立ち止まった。
すると不思議そうに翠が視線を寄越してきた。
「……あ」
そうだ、白波には翠が見えていない。
だから翠がいるにも関わらず、迷いなく俺の前まで来たのか。
「えっと、じゃあまたな。翠」
俺が言うと、白波は「ふぇ」と間抜けな声で驚いている。
翠はそれを確認しつつも軽く手を振ってきた。
「またな。辞書は月曜でいいから」
そう言い残して教室を出ていく。うむ、やっぱり空気が読めている。
白波はおどおどとして、その場で回ったり、「あ、人違い。本当は違う人をぉ」と馬鹿げたことを言っていたが、もう誰もいないので無意味だ。
「何か用でもあった?」
問うと、シュババッと顔を寄せてくる。
「も、もう誰もいませんか⁉︎」
「いないから安心していいよ」
「ふう、なら安心ですね」
言葉の通りに胸を撫で下ろしている。
「それで、どうかした?」
「あ、はい。あの、前に話していた勉強を、今日教えてもらっても良いですか?」
「勉強?」
「前に図書室で教えていただけると」
「あー」
そういえば、そんな話をしていたような。
結局、あの日は俺が分からないと知るや否や『理系を名乗るなんて小学生でも出来ますからね』と馬鹿にしてきたが、まだ頼ってくれていたとは。ただ今日はお願いに応えられそうにない。
「悪い。今日は衛藤と約束があって」
「え、小豆と?」
「うん」
今日の昼休みに衛藤がわざわざ教室を訪ねてきたのだ。
何をするかまでは聞かせてくれなかったが、予定を空けておいてくださいと言われている。
「だからまた今度でもいい?」
「あ、はい。それは全然っ」
てっきり白波には話しているものかと思っていたけど、何も知らなかったのか。
「あの、やっぱり小豆とお付き合いを……」
「してないからな」
「本当にぃ?」
「本当だって」
「あ、琥珀。あと美空さん」
言い合っていると、声と共に衛藤が教室に入ってくる。
「俺はついでかよ」
「ついでに決まっているじゃないですか」
「ここ俺の教室なんですけどぉ。俺がいることを知った上で来てるよねー。照れ隠しかなぁ。あずきん照れ隠しかなぁ。可愛らしぃー」
「気持ち悪いです」
酷すぎる。覇気のない単調な物言いが非情さを増している。
「あっ、小豆。ちょっと先輩と話してたの」
白波は衛藤を見て、顔を明るくさせる。
ただ衛藤は俺の隣に立つと、白波には見えない角度から服の裾を掴んできた。
「んだよ?」
「……いえ、べつに」
物静かに言うと、つまらなさそうにそっぽを向いた。
「二人って本当に仲良かったんですねっ」
その衛藤とは裏腹に、白波は感心した顔を浮かべている。
衛藤の表情を窺うと、衛藤も俺の表情を観察していた。
「……」
「……」
互いに顔を見合わせたまま流れる無言。
これが一人なら『え、ま、まあな?』や『ち、ちっげえし。ばーか』と勝手に答えることができるが、相手が横にいるとなると反応に困る。下手に同意して『はあ、別に私は思ってないけど。この人、なに言ってんの、童貞?』とは思われたくない。
何を言おうかと悩んでいると衛藤が口を開いた。
「そうなの。これからも買い物に付き合ってもらおうかと思って」
「そう……なんだ?」
白波は困惑しつつも納得する。
「それより、琥珀は美空さんに何か用があったの?」
「私は勉強を教えてもらおうかなって」
「あっ、じゃあ三人で勉強する?」
その提案に、思わず横目で衛藤を見る。
「え、いいの?」
「うん、私も勉強を教えてもらいたかったし」
「やった、じゃあお邪魔させてっ」
そう言って、二人して視線を俺に向けてくる。
俺の話でもあるのに勝手に話が固まっていて断りにくい状況。
この状況で断れるやついるのか。うまくしてやられた気分だ。
「別にいいけど、場所だけは変えよう」
「え、どうしてですか?」
「琥珀、それは察してあげなよ。後輩の女子二人をたぶらかしている男だと周囲から思われたくないっていう、本人以外は誰も気にしていないやつだよ。安いプライドを持ってるピアスの男にありがちなやつなの」
「へえ、そうなんだぁ」
「まあそういうことだ。衛藤、日本に法律があって良かったな」
俺じゃなければ癇癪で惑星の一つや二つ潰してるところだったぞ。
白波は制服の袖口を軽く整え、視線を俺へと戻す。そのまま小さく唇を開いた。
「私は鞄を持ってくるので、二人は先に下りていてください」
そのまま、ひらりと踵を返す。
スカートの裾がわずかに揺れて、足音はすぐに廊下の奥へと遠ざかっていった。




