衛藤小豆という少女
運ばれてきたメニューを平らげた頃にはすっかり日は沈んだようだった。
時刻は帰宅ラッシュに突入したのか駅に向かう人数が増え、その中には他校の制服も確認できる。すでに部活終わりの生徒が帰り始める時間になっていたらしい。
「この時間帯だとやっぱり人が増えてきますね」
同じように外を見ていた衛藤がこともなげに言ってくる。
話す内容もなかったから視界に入ったことを口にしただけって感じだ。
「帰巣本能ってやつだろ。こう見ると白のワイシャツが鳩みたいだ」
「どこがですか。美空さんは、普段は誰かと一緒に帰ったりするんですか?」
「いるなら今日も一緒に帰ってるよ。後輩のお守りなんてせずにな」
「美空さんは好きな人とかいますか?」
俺の嫌味も無視して話題が変わる。
「どうした急に?」
「いえ、普通に思っただけですよ」
「もう俺のこと好きになっちゃったか。ほらここ、俺の膝はいつでも空いてるぞ?」
「……」
「好きな人はいません」
「これまで誰かを好きなったことは?」
どこか真剣な面持ち。今回は純粋に興味があるようだった。
「そりゃあるだろ」
「へえ意外ですね。どんな人でした?」
「どんな人って、別に奇抜な人でもないぞ。どんなことにもお礼が言える人」
「美空さんもちゃんと学生していたんだ?」
「そういう衛藤はちゃんと学生してたのか?」
ちらりと視線を向けられる。
そして恥ずかしそうに小さく笑った。
「あの、好きって、なんですかね?」
「ロボット?」
小馬鹿に言うと、大きくため息を吐かれる。
「はあーあ、もういいです。聞いた私がバカでした」
「どうして急に恥ずかしいこと聞いてきたわけ?」
「なんとなく聞いてみたかっただけです」
本当にただの雑談だったらしく早々に話題を終わらせる。
そのまま財布を取り出すと、衛藤は音もなく立ち上がった。
勢いのまま会計を済ませると、そそくさと外に出ていく。
「いくらだった?」
その問いに衛藤は首を横に振る。
「いいですよ。私が付き合ってもらったので」
「はー? なんか嫌。後輩に奢られたくないし」
「じゃあ次に奢ってくださいよ。そうしたら、実質割り勘じゃないですか?」
「そっか。なら今回はありがたく奢ってもらおうかな」
「次は奢りだし、パフェ三種類に挑戦しようかなぁ」
「今回、二種類を一人で食べ切ったのも、俺は結構引いてるからな」
「ええ、だって甘いものって別腹じゃないですかぁ」
そう言うと衛藤は嬉しそうに先を行く。
残された俺は静かに、
「次か……」
と繰り返した。
伝えるつもりのなかった言葉は、ありがたいことに伝わらなかったらしい。
ゆっくりと段差を下がっていく途中でポケット内のスマホが揺れた。
衛藤にも着信音は聞こえたようで、不思議そうに振り返ってくる。
「ご家族ですか?」
「いや、それはないけど」
確認すると白波だった。
追加だけして何も動きのなかったメッセージ画面に一つのスタンプが送られてくる。
『はじめまして』
スタンプ内のシロクマがそう言っていた。
とりあえず無視して、スマホはポケットに戻す。
「悪い、待たせて」
「いえ全然だいじょうぶですよ。誰からですか?」
衛藤は駐輪場にある幅狭い段差を片足で耐久していた。女子高生の意図は読めそうにない。
「白波から急にスタンプが来た。はじめましてだってさ」
「……へえ、そうなんですねー」
「女子高生っていきなりスタンプ送る習慣でもあるの?」
「いえ、琥珀だけですね。悩みに悩んで、今送ったのかな?」
「あーね。ぽいかも」
自転車を押してファミレスの敷地外に出るが、衛藤からは動く気配がしなかった。
「衛藤、行かないの?」
「え、あ、はい……」
「ほら鞄」
要求しても、衛藤は鞄の持ち手を握りしめたまま動かない。
その仕草を怪訝に感じていると少しの沈黙が流れた。
数秒……、いや一秒も経っていなかったかもしれない。
これが長い沈黙と感じたのは、衛藤に次の動きが見えなかったからだ。
「ちなみにですけど、どういう経緯で交換したんですか?」
動かないと思っていた口がゆっくりと動く。
自分は興味ないけど。そんなニュアンスを含んでいそうな言い方だった。
言葉の髄に違和感を感じた。それは今日一日を通して、会話の節々に感じていた疑問でもあった。
「衛藤さ」
わずかな逡巡を乗り越え、そう切り出す。
遠目に見える歩行者信号が赤になる。風の音は弱くなっていき、呼吸の音も聞こえてくるほど繊細な時間になっていた。やがて歩行者信号が青になると車も同時に動き出す。
「白波となんかあった?」
気がつけば、もらった質問を飛ばして聞いていた。
衛藤は虚空を見切ると口だけを動かす。
「なんか。と言うと?」
「なんかはなんか。具体的には言えないけど」
「かなり抽象的ですね?」
「あいつのことを露骨に気にかけているのが気になっただけ」
「……」
衛藤の顔が歪む。
それでも俺は続けた。
「こうやって俺を連れ出したのも、何か他の理由があるの?」
「どうして、そう思うんですか?」
「知り合ったばかりの男子と意味もなく出掛ける性格には思えない。それに一人は恥ずかしいとか言っていたけど、本屋で一人にしても平気そうだったしな」
「……だからあの時、私を一人にしたんだ。意外と策士ですね?」
小さく呟くと、口端を綺麗に上げた。
まるで自分に言い聞かせたような笑みだった。
「そうですね。美空さんの考えは合ってますよ」
「え?」
「なんか、もありますよ」
変に取り繕うこともせず、衛藤は結論から言った。
正直に応えてくれるとは思わず、素直に驚いてしまう。
「なんだと思いますか?」
「見当も付かない。教えて」
「これまでと同じように接してくれるなら言います」
「犯罪じゃなければそうするよ」
言った瞬間、周囲の音が消えた気がした。
視界には衛藤だけが残る。
「私、琥珀が好きなんです」
言い淀む気配もなく、真摯に言ってくる。
思わず、目を見開いてしまった。その言葉は冗談には思えなかった。
「友達としてじゃなくて、恋愛的な意味で」
「そう、なんだ」
「だから私は、琥珀に美空さんと話してほしくない。単なる嫉妬です」
「……」
すぐに返せなかった。でもすぐに言葉を思いつく。
「正直だな?」
「正直に生きている方が楽じゃないですか?」
立ち尽くしていると、衛藤が明るい面持ちで帰路に戻っていった。
それは普段と変わらない面持ち。日常を駆ける少女のようだった。
俺は遅れて背中を追いかける。
「美空さんはあまり驚かないですね?」
「いや、驚いてるけど……。うまく反応ができないだけ」
「ならサプライズ大成功ですねぇ」
もちろん、驚きはあった。
それでも衛藤の嬉々とした雰囲気に毒気を抜かれている。
とてもじゃないが、自身の悩みを打ち明けているとは思えない。
いや、違う。これが悩みだと確信している俺もおかしい。
でも、彼女の発言には、溜めていた感情が溢れていた。
「そこまで仲が良くない人にはあっさり話せるものですね?」
寛大な声で口角をあげている。
「距離が近い人だと萎縮しちゃいますもん」
「本人が言うなら、そうなのかも」
口にはしつつも、思考はこんがらがったまま。
それでも足の回転を早くして、衛藤との距離を戻した。
衛藤はそれを横目で確認すると軽い笑みをこぼす。
「女が女の人を好きだなんて、キモいって思いました?」
「思わねえよ。重いな、とは思ったけど」
「そうですか。そうですよねぇ、あはは」
乾いた笑い声。それは作り笑いと誰にでも分かる。
湿度が高く、水分を含ませた空気は笑い声を摩擦でかき消した。
衛藤の言葉は、表面上とは反比例して重たくなっていく。
「今日、美空さんを誘った理由は二つあります」
衛藤は歩く途中でくると回り、指を二本伸ばした。
「『男子が女子の物を付けてようが、好きで大事な物なら男女は関係ない』。ピアスの話をしたときの美空さんの言葉です」
そこまで言って、衛藤は短く息を整えた。
視線はどこか遠くを見ていて、けれど確かにこちらに向けられている気配がある。
「きっと、この人は周囲に流されずに自分をぶつけてくれる。そう感じたから美空さんに話してみようかと思いました。私は、誰かに聞いてもらいたかったんだと思います」
言葉の端にわずかな震えが混じった。
その震えは隠そうとして隠しきれるものではなく、静かな夜気に溶けていく。
それでも衛藤は強引に明るさを灯した。
「それともう一つ。美空さんが本当に、恋人がいないだけで少女漫画のヒーローみたいに完璧な男性だったら、琥珀の恋人になったとしても諦められると思っていました」
風もなく、衛藤の言葉が素直に鼓膜は震わせる。
その言葉たちは微弱に揺れていた。
「でも、無理そうです」
「お眼鏡には敵わなかったか」
「いえ。ただ私が諦めきれないだけでした」
お淑やかにただ微笑する。
おかしいことじゃないって。そのフォローは自己満足だと理性が押さえつける。
途切れる会話に気も使えず、一人で考え込んでしまった。
衛藤の話の何が悩む要素になるのかなんて、考えるまでもない。俺の思考にない状況下で生きてきた彼女は、きっと俺が想像できないほど悩んできた。悩んで、悩んで、生まれた願望が現実にまで侵食している。
だからきっと、そういうことなのだろう。
————思念性プラシーボを引き起こしているのは衛藤だ。
衛藤の白波への恋心が、今回の現象を引き起こしている。
千草さんは言っていた。細胞同士が共鳴して相手に情報を流している、と。白波への『男子と関わって欲しくない』という想いが、男子を認識させない形で、衛藤の細胞から白波の細胞へ共鳴されたのか。
俺のことが認識できているのも、少女漫画のヒーローと勘違いしていた衛藤が、『美空絵馬なら諦められる』と見えない対象から無意識的に除外したのか。大人が見えるのも白波の恋愛対象として入っていないと考えているから。
でも問題はそこじゃない。
思念性プラシーボの難点を実感してしまった。
これが本当なら……。
「あ、勘違いしないでくださいね。決して重たい空気にするつもりはなくて」
明るい声で、衛藤は場を和ませた。俺はただそれに合わせた。
「全然大丈夫だよ。それに親しくない相手にはあっさり話せるって俺もそうだと思うし」
「ならよかったです。でもその言い方ですと美空さんも悩みがあったり?」
「俺は親しくない相手には打ち明けないタイプ」
「ええー、私は教えたのにぃ」
「親しい相手になったら教えてやるよー」
「えー、まあ興味ないですけど」
「ないのかよっ」
衛藤は笑った。満面の笑みで笑っていた。
他人事のように自分の話を流して明かりを灯している。
これまでも、こうして隠して生きてきたのだろう。
「……」
そう思うと、余計に刺さるものがあった。
白波の問題を解決して男子を認識できるようにしてしまえば、衛藤にとってはマイナスへ進んでしまう。ただ何もしなければ白波が男子と関われないままになる。
白波と衛藤、それぞれの悩みを天秤に乗せて脳内で俯瞰した。
どちらかの願いに沿えば、どちらかの悩みは残り続ける。
今は衛藤の方へ天秤が傾いているだけ。
全員が思い通りに報われる世界はない。
「それよりミスドの新作食べました? すっごい美味しかったですよ?」
「ああ、そっか。覚えていたら食べねえわ」
「ええ、食べてみてくださいよぉ」
でも、それ以上に辛いことが起きている。
思念性プラシーボが引き起こされた現実。衛藤小豆は賢い女の子だ。
賢いからこそ、本音を隠し通そうとしていた。
彼女が隠してきた日々。蓄積された感情のダムは決壊してしまった。
思念生プラシーボは、見せるつもりのなかった女の子の本心を曝け出したのだ。




