ストレスの有無
昼休みの校舎は、やはりどこかざわめいている。
廊下を駆ける足音、教室から漏れる笑い声、購買の前で交わされる短い会話。
そんな喧騒を背にして、俺は図書室の扉を押した。中に入ると、一気に静けさが広がる。外の音が遠のき、代わりに紙のめくれる微かな音や、ペンを走らせる音が耳に届く。
「あ、こんにちは」
偶然にも白波が図書室にいた。
昨日の今日で偶然があるもんだな、と思っていると白波が先に口を動かす。
「図書室、少し気になっていたんです」
「まだ何も聞いてないけど」
「どうせ聞いてくるじゃないですか」
「それにしても本が好きなんだな?」
「いえ、本はあまり読まないですね」
「なら図書室の何を気になっているんだよ」
「先輩は意外ですね。図書室に来るなんて」
俺と読書は整合性が見えなかったと遠回しに言ってくる。だが、その予想は残念ながら外れている。
俺がこの学校では誰よりも図書室を出入りしていると言っても過言ではない。
「いや、俺はここに教科書を置いてるだけ」
本棚と壁の隙間から、次の授業で使う日本史の教科書を取り出す。
家に持って帰るのが面倒なので、机に入らない教科書は教室の正面にある図書室に置いているのだ。
誰よりも本を読んでいるといったら過言でしかない。
「普通にズルだった……。本棚には入れないんですか?」
「本棚は点検の日にバレるから危険だ。反省文もあるからな」
「経験談なんですね……。なんだか先輩らしいです」
昨日の今日で印象を確立されていた。目標となる先輩として見られていたら嬉しい。
「というか、なに持ってるの?」
「あ、これです」
白波はすでに本棚から一冊の本を手に取っていた。
見ると、『マンガで簡単、優しい高校数学』と見出しがある。
「絶妙に誰が読むんだよって本を読んでるんだな?」
「高校の数学って何を言っているのか分からないです。授業のスピードも早いですし」
「通信教育講座の広告でしか聞かないフレーズを実際に聴くときが来るとは……」
「だって難しいですもん」
「へえ、数学は苦手なんだ?」
「苦手というか得意じゃないといいますか……」
「てっきり白波は才色兼備なのかと思ってた」
「……才色兼備」
なぜか恨めしそうに見られる。
「私、全然そんなのじゃないのに。でもみんながそうやって勝手に期待するから……」
「あーね。まあ顔が良く生まれた人の宿命だな」
「宿命って言われても迷惑ですもん……」
最後まで言われなくとも理解してしまった。
容姿が良い人にはそれなりのステータスを期待してしまう。
だから見た目とのギャップに驚かれることも多いはずだ。
白波も容姿は良いけど、他はどこにでもいる一般的な女子高生ってことか。
「でも一年のこの時期なら、数学はまだ基礎だろ?」
「そうですけど、公式の意味とか分かんないです」
「公式だから意味なんて知らなくてもいいって。当てはめるだけじゃん」
「だ、だって、数学って将来的に絶対に使わないじゃないですかっ。なんですかっ、あの英語をお洒落だから取り入れてみましたーみたいな、なけなしのx。意識高い系のノリを学生に解かせないでほしいです!」
「過去一で喋るな?」
「まず意味のないことをする意味が分かんないですし……」
「うっわ、出たよ。今時、小学生でも、まともな言い訳するぞ」
「だってそうですし。勉強なんか将来、絶対に使わないですもん……」
そっぽを向いて拗ねている。小物感あふれる発言は普通の女の子らしくて愛らしい。
軽く苦笑をこぼして、俺は先輩として言っておく。
「アホか。大学や企業が人の能力を測るには、こういう意味のないことに、どれだけ努力を費やしているかが目安になんの。だから今からでも受験を意識して勉強しないといけないんだよ。学校も意味のないことを教えている訳じゃない」
「うっ、教科書を隠しているくせに、急に正論を……」
「というか数学はまだ楽じゃん。俺は現文の方が何を言っているのか分からない」
「そういえば、この学校って二年生から文系と理系で分かれるんですよね?」
ふと思い出したように言ってくる。
「先輩ってもしかして理系ですか?」
「そうだよ」
「じゃあもしかして、数学が得意だったりしますか……?」
「はっ、馬鹿にしているなら今のうちだぞ」
無意識に、にやりと口角が上がる。
「何を隠そう、俺は家庭————」
「い、いえ、馬鹿にしているわけではないですっ。気を悪くしたらごめんなさいっ」
あの、まだ俺が声高々に言っている途中なんですけど。
俺は家庭科学年二位の逸材で、むしろ加点問題で114点と限界突破にも成功している。まで続けたかったのに。ちなみに一位は蒼だ。あいつには勝てない。
「まあ数学は普通かな。俺に似合わず凡人レベル」
「そうですか。……ふぅん、そうですか」
「なぁに、琥珀ちゃん。教えて欲しいって?」
「……すごくむかつきますけど、すごく頼みたいです」
「え、まじ?」
「はい」
思っていた反応と違って、白波は素直に言ってくる。やや面を食らったが悪い気はしない。
「ふふん、じゃあ一年先輩のワタクシが教えて差し上げましょう」
「なら早速良いですか。聞きたいところがあって」
「いいけど、ここでやるのか?」
図書室とはいえ、それなりに人はいる。
こんなに広々としたところなら誰かしらには見られる。
それが知り合いなら勝手な想像をされる可能性もあるだろうけど。
「ダメでしたか?」
ただ肝心の白波は何も分かっていない様子で安直に口を動かしている。
「同学年に見られてもいいの、って意味だよ」
「……?」
「誤解されて変な噂を作られたら嫌だな、とかないのか。ないなら俺はいいけど」
「……あっ、なるほど」
そこでようやく理解したらしく、ふむふむと納得していた。
やっぱり、年相応の思春期らしい考えには鈍感のようだった。
「な、なら、昨日も入った生物準備室とかは?」
「んー、別に良いけど空気が汚いしなぁ。どっか適当に教室を……」
話の途中で言葉を止める。
「どうかしました?」
白波はその意図を知らずに、こてんと首を傾げる。
本棚と本棚の中央に佇む白波。その背後で三年生が通ろうと試みている。白波の右か左か、どちらから通ろうかを迷っている。
本来なら白波の視界の隅には入っていると思う。でも白波は場所を空ける動作を見せない。
一秒、二秒……、と時間が静かに過ぎていき、俺は目の前で起こった一連の動きを見届けることにした。
三年生には悪いけど、白波の『男子を認識できない』という状況を目の当たりにしてみたかった。
結局、動きのない白波の脇を、三年生は少し強引に通り過ぎる。
その時、微かに白波の肘が三年生にぶつかった。
「えっ、あ、ごめんなさい!」
白波は後方を見て、突然に謝る。
「……は?」
男子が認識できないはず。それなのにどうして謝ったんだ?
不思議に思っていると、「あれ?」と、不思議そうに周囲を見渡し始める。
「今、誰かにぶつかった気が……」
「ぶつかった感覚はあるのか?」
「え、だって肘に当たったような……?」
きょろきょろと首を振り、白波を意識から外したであろう三年生を見つける。
認識できるようになった男子生徒を見て、白波は悲しそうに眉を下げた。
「ぶつかったら感覚はあるんです。でも衝撃だけで、姿はその時には見えなくて……」
千草さんは男子を景色として認識していると言っていた。
景色が体に触れられるはずがない。だから視覚や聴覚で感じなくても、触覚は正常に働いているのか。
「私、教室でも男子を無視していたらしくて。昨日、一緒にいた子に言われました」
「……そっか」
それはそれで色々と問題も起こりそうだ。美人であるが故、「何あいつ」「調子乗ってる」と言われるには充分な素材となってしまう。
気の利いた言葉も出てこないまま、俺は白波の隣に並んで肩を近づけることにした。
「で、分かんないところってどこよ。俺が分かる範囲ならすぐ教えるよ?」
「……」
「なんだよ?」
無言で見つめてきて、白波はくすりと微笑んだ。
「それにしても、先輩って女の子にモテなさそうですね?」
「今、評価を下げるようなことしたっけ?」
「心配も共感もしてくれないし、おまけに話を逸らすって最悪です」
「自立を促す優しい先輩と言ってほしいね」
「じゃあそういうことにしてあげます」
「実際そうだし。馬鹿、あほ。てか分からないところ、言わないと教えてやんないぞ?」
「ええ、ごめんなさいですってぇ。あ、ここの式なんですけど」
笑っている白波は自然体で可愛らしい。
だから、やっぱり腑に落ちない。
男子が認識できないことが、白波にとって良い方向に進んでいるようには見えなかった。
最短の近道でストレスを回避する思念性プラシーボは、彼女に良い影響を与えているのだろうか。
そもそも白波には本当にストレスがあるのか。
今はそれらしきことすら感じない。
「先輩?」
考えていると白波が覗き込んできている。
「ん、ああ、ごめん。どこだっけ?」
「ここです。この数字の上に線があるやつの複合問題です」
「これは……俺も分かんねえや」
「は?」
俺には大きなストレスを抱えていない、どこにでもいる女の子にしか思えなかった。




