感情は細胞の中で(2)
「でもそれって、かなりの偶然が重なっていますね?」
宝くじの確率が簡単に思えそうな数値で起こっているはずだ。
「言ったでしょ。これは生物学的観点での机上の空論だよ」
「そっか、それが思念性プラシーボですもんね」
「今解決するべきは、その子のストレスじゃないかな」
「でも本人はストレスの自覚はないらしくて」
「でも分かりやすいヒントはあるんじゃない?」
千草さんは前を向いて歩き出した。
レタスも飼い主に付いて行こうと、リードを持つ俺を引っ張っていく。
「大人とは会話ができている、何もしてこない男子は認識できる、とかね」
「それのどこがヒントなの?」
「それが分からないなら、さぞかし現代文の点数は低いだろうね?」
「当たり。でもどうして急な悪口?」
「地に這いずって頼み込むなら頭を踏んであげる」
「せめて教えながら踏んでくれ。そもそも踏むなっ」
どうして踏まれるだけなんだよ。俺にそんな趣味はない。
「まあ数いる男子の中で、絵馬だけが違っていたのかもね」
「俺だけが違うって、なんだろ」
「例えばピアスとか。男子生徒で付けている人は少ないでしょ」
確かに上ヶ丘高校の男子でピアスの印象があるのは俺だと白波は聞いたらしい。ただ白波は女たらしの要素として誤認していたから、ピアスに安心する要素は浮かんでこない。
「そもそも女子高生って何を悩むの?」
「それを女子大生に聞くんだ?」
「元現役女子高生なので参考になるかなぁって」
「なにそれ」
呆れて笑い、千草さんは遠くの空を見つめる。
「でも、そうだね。異性と話すことで起きる同性間の問題、とか」
それは俺が思い描いていたことと同じだった。
「女子なんてどうでもいいことで単細胞に変わるからね」
「うわー、女子がそれ言うか?」
「女子だから言えるんでしょ。で、その子は本当に何も悩んでいないの?」
「はい。ストレスを微塵も抱えているようには見えなくて」
「隠しているだけじゃなくて?」
「隠せるような性格にも思えないです」
「なら、やっぱりその子が原因じゃないのかもね」
淡白に千草さんが言う。
「共鳴の話をしたでしょ。今の時点で絵馬が逃避をしているって思っている白波琥珀は、他の誰かの思念性プラシーボに巻き込まれているのかもしれない」
「他の誰かって?」
「それは知らないよ。でも、そういう可能性も視野には入れないと……あっ」
会話の途中で、千草さんから単調な声が漏れた。
視線を追って振り返ると、一人の男子高校生がこちらに歩いてくる。
「あれ、ちぐさんも一緒にいたんだ」
佐古翠は言いながら爽やかに目尻を下げていた。長いまつ毛に柔らかな目尻。背丈は高く、鍛え上げられた筋肉によって体格も良いが、顔は小さくモデルのような体躯をしている。
「絵馬とちぐさんって珍しい組み合わせだな?」
「散歩がてら少し話してて」
おまけにイケメンな顔立ちは緩やかに笑って近づいてくる。この明るく笑った時に見える笑窪は幼さがあるらしく、女子のツボにハマるらしい。俺だって笑窪くらい出せる。
「ちぐさんがレタスといるのも久しぶりに見たかも」
「そうだっけ?」
「いつもはおばさんが散歩してなかった?」
親同士の仲がよく、佐古家と伊佐町家は小学生の頃から関わりがあるらしい。なので翠は蒼とも仲が良い。
「絵馬は部活に行ってないのか?」
千草さんとの会話をほどほどに、置いてきぼりになっていた俺に話題が向く。すっかり遠くにいる美脚を見ていたので油断していた。
「顧問が入院したから、来週まで部活は中止」
「新入生の勧誘期間なのに?」
「勧誘期間なのに」
「部員来ないぞ?」
翠はけらけらと微笑みを湛えている。
笑みが落ち着くと、翠は視線を改めて俺と千草さんへと向けてきた。
「それより何かあった?」
「何かって?」
「二人でいるのは珍しいと思ってさ」
俺と千草さんの組み合わせは翠からしたら不思議に思うようだ。
確かに、これまでも用がなければ二人きりで会う事はなかった。
「絵馬がどうしても私に会いたかったんだよね?」
揶揄めいた表情で千草さんが微笑む。
「うわぁ、誤解生みそうな言い方ぁ」
「でも本当でしょ?」
「そうそう、年上の魅力を感じたくなったっていうかぁ。甘えたくなったっていうかぁ?」
「きも」
言わせておいて一言で片付けられる。ひどい。
「相変わらず二人は仲良いな。言いにくいことなら聞かないけどさ」
乾いた笑いで納得すると、翠は重心を低くしてレタスに手を伸ばしている。女子はこういう動物にも優しいところに萌えるのか。俺も見習わないとな。
「サッカーのインターハイはいつだっけ?」
萌える翠に千草さんが問いかけている。
「五月の一週目かな。決勝は六月の上旬」
「そっか。行けたらまた観に行くね?」
「それはどうも。すっげえ頑張れそう」
「水泳は?」
ハンバーグについてくるパセリ程度のおまけで千草さんの意識が俺にも向く。
「さあ、六月ぐらいかも」
「まあ私の時と変わらないか。今年は失格にならないようにちゃんと行きなよ?」
「頑張ります」
「いや、頑張るの基準が低いだろっ」
レタスも翠に同調するように「くうん」と静かに鳴いている。
心なしか俺といるときより翠といるときの方が大人しい気がする。そういえばメスだったな。まさかこれもイケメンが関係しているのか。イケメンってすごい。
「絵馬も真剣にやればいいのに。体を動かすのは好きだろ?」
「絵馬は単純に泳ぐことを楽しんでいるだけだから、全国とかは興味がないんだよね」
「まあ全国に出たらどこまで人気が出るかは気になるけど。俺に興味なかった女子がクラスにまで来て『美空くん、絵馬くん』って。……うへへ、楽しそ」
「ね、こんな男だから」
「絵馬のことは分かったつもりでも、いつも想像を下回ってきます」
「だから翠は頑張ってね。絵馬で余った分の応援も込めているから」
俺も応援しろ。
「ちぐさんが応援してくれるなら頑張れるかも」
翠は気恥ずかしそうに目を背ける。
その仕草は応援そのものより、応援してくれる人に心を奪われているようだった。
けれど次の瞬間には、話題を切り替えるためにか矛先を俺に飛ばしてきた。
「あ、ていうか絵馬。女子と帰ってたってまじ?」
これが本題。そう言わんばかりの転換。
「なにそれ、どこ情報?」
「さっき、絵馬が一年の女子といるところを見たって聞いた」
「……」
千草さんがちらりと視線を向けてくる。
その視線は「さっきの話は本当だったんだ」と納得しているようだった。
「バイトの相談を受けていただけ。それに一緒には帰ってない」
「なんだ、そういうこと。ならバイトの後輩?」
「いや、そういうわけでもない。なんかよく分かんない」
「なんだそれ。どこで知り合ったんだよ?」
「なんか話しかけられた」
「また変な関係を築いているんだな?」
他人事のように翠が息を落とす。聞きたいことはそれだけだったのか、「彼女じゃないのか」とどこか残念そうに膝を押してゆっくり立ち上がった。
「それじゃあ、俺は聞きたいことは聞けたから帰る」
「もう帰るの?」
すっかり帰宅のムードを出している翠に、千草さんが俺と疑問を送る。
「二人は話の途中だったんでしょ。なら邪魔するのも悪いし」
「別に大した話じゃないけどな」
「大した話じゃないと二人はわざわざ会わないだろ?」
爽やかに言い当てながらも「またな」と俺の背中を軽く押して歩いていく。
その押す力は強いわけじゃない。けれど、不思議と背中に温度が残る。
夕方の風が通り抜け、三人でいた時間がふわっと遠ざかっていく。
「空気読める男子は最強ですねー」
翠が遠ざかり、素直な感想が口にする。
千草さんも同様で感心するように息を吐いた。
「あれはモテそうだね。気が遣えて諸々込めて将来も有望。おまけに背も高くて顔もいい」
「まあ実際モテてるみたいだし」
「そうなんだ?」
「言うまでもなく高嶺の花ですね。女子で唯一話している蒼が妬まれているほど」
「そこまで人気とは知らなかったよ」
「ていうか俺と話しているときと、翠と話しているときで、込められた優しさが違う気がしましたけど。あなたもこの犬コロと同じでイケメンにはメスを見せちゃうんですか?」
「誰かさんと違って、翠は可愛げがあるからね。それと、勘違いしているようだから教えてあげるけど、絵馬には微小たりとも優しさは込めてない」
「ひっでえ」
「ただ、絵馬と翠のそういう違いが見ていて楽しいけどね」
言いながら、遠くにいる翠の背中を見つめている。
その横顔は何を考えているのか読めない。ただ気の知れた友人を見送っているように見えるが、見方を変えると我が子を見守る母親のような表情でもあった。
「あの魚は逃したら大きくなりそうですね」
しみじみとした意味で冗談を混じえつつ、隣の反応を窺う。
千草さんは俺の思考を読んだかのように静かに口元を緩めた。
「翠はいい子だから、その方が自由でいいよ」
「千草さんはどうなわけ。翠がもし行動に移してきたら?」
「散歩、付き合ってね」
千草さんは俺からリードを回収して、また歩みを再開した。




