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感情は細胞の中で(1)


 俺は白波に起こっていることを、五分ほどかけて千草さんに説明した。

 その間、千草さんは相槌だけに徹し、レタスは真剣な表情で芝生に尿を足していた。


「眼科と耳鼻科は駅の近くがいいらしいよ?」


 これが千草さんの第一声。

 興味を持っているはずなのに、捻くれた返しをしてくるのは性格が出ている。

 俺は無視して切り込むことにした。


「そもそも、男子だけが認識できないってありえますか?」

「ありえると思うよ」


 即答だった。

 考える余地も見せない、自信に満ちた返事。


「別に思念性プラシーボじゃなくても、認識できない状況はあるよ?」

「え、そうなの?」

「わかりやすいのは、認知症かな」

「あ、そっか」


 人間の構造上で認識できない状況は実際に存在する。それを言いたいらしい。


「でも、認知症の症状が健常な高校生に起こるの?」

「健常者の高校生には滅多にないかもね」

「なら違うんじゃ?」

「でも、認知症は生物学的にはありえる」


 千草さんはペットボトルの蓋を開け、レタスの尿を水で流しながら続ける。


「思念性プラシーボは脳内の細胞が極端な考え方に走ることで起こる一種の防衛反応」

「自分に都合のいいように細胞が働く、でしたよね」

「そう。精神的なストレスに耐えられなくなった脳が、細胞に言い聞かせて極端な結論を作り出すの」


 人は理論上では壁をすり抜けられる。なんて話を耳にしたことがある。

 量子力学的には可能性はゼロではないが、確率的にはまず起こらない。

 思念性プラシーボはそれと似ていて、生物学上での理論はあるが確率的には考えられないものを指す。


「だから男子を認識できなくなる状況を意図的に起こしてしまえばいい」

「起こしてしまえばいいって、そんな簡単に?」

「人間の体は脳に従うからね。だから認識できないように、脳を一時的に壊せばいいだけ」

「壊したらどうなるんですか?」

「目や耳にしたものと記憶が照合できなくなる。医学的には失認なんて言ったりもするね」


 記憶が照合できなくなる。例えば認知症になった人が息子や孫などの、本来なら記憶があるはずの人のことを初対面として接するみたいなことか。


「ただ、それだと視界には入っていますよね?」


 俺は今一度、白波の状況を考え直す。


「白波は声も姿も見えていないです」

「簡単だよ。男子の存在そのものを景色や環境音として認識してしまえばいい」

「どういうこと?」

「例えば山。歩いていて目を引かれる事は少ないでしょ?」


 改めて周囲を見渡すと遠くには山が見える。海と山との距離が短い大分県では、山々は建物に遮られない限りは視界のどこかに存在している。ただ千草さんに言われるまでは、山が見えていることは日常すぎて、改めて意識した事がなかった。


「男子を見慣れた景色の一部にしてしまえば、気に掛けることもない」

「……」


 話の内容は分かった。

 それでも俺が知りたい内容がまだ分かっていない。


「例えばですけど、その中で特定の誰かだけは見えることはありえますか?」


 白波は男子全員を見えていないわけではない。

 俺や父親、他にも教員など大人の男性は認識できている。


「ありえるよ」


 またしても千草さんは即答した。


「その子にとって、絵馬や大人がストレスの対象じゃなければいい」

「え、それだけで?」

「そう。信頼できる存在だと思えば、自然と認識はできる。絶景に目を惹かれるみたいにね」

「でも信頼されるような事はしていないけど?」

「噂一つでもいいんだよ。絵馬の良い噂を聞いていれば、それで十分」

「良い噂……?」


 確かに、ストレスの対象でなければ避ける必要もないか。

 ただ、


「良い噂ぁ?」


 ない。言い切れる。悔しいことに俺に良い噂はない。悲しい。


「確かに、絵馬にいい噂はないか」

「まあ本物のヒーローは見えないところで活躍してま————」

「じゃあ共鳴かな」


 退屈そうに爪を眺めながら、俺を無視して他の仮説を出してきた。


「小学生の頃に理科の授業でやった共鳴は覚えてる?」

「共鳴って音叉の?」

「うん」


 YかU字の形をした音叉という金属を二つ並べて実験した覚えがある。

 右側を叩けば左側が同じように振動して音を真似していた。


「同じ振動数をもつ物から送られてきた波がぶつかることで、もう一つにも振動が伝わるやつ」

「でもそれは音叉の話ですよね?」

「今回のことは音叉じゃなくて細胞として考えていけばいいだけだよ」


 千草さんは簡単に言うが、どうにも簡単には聞こえてこない。


「あの、そもそも細胞に振動とかあるんですか?」

「あるよ。振動のおかげで自然治癒があるから」

「ほ、ほう……?」

「だから絵馬の情報が波として共鳴されたのかもね」

「やべえ、すっごく分かんねー」


 千草さんは「馬鹿なの、小学生?」といった表情を浮かべる。こういう表情は蒼と似ていて腹立たしい。


「一年生の細胞が『男子を認識したくない』っていう情報を波にする。その情報を共鳴の原理で受け取った誰かの細胞が、一年生から受け取った情報に対して『男子の中でも絵馬は大丈夫』って情報を書き換えて、一年生に新しい波を返した」

「あの、そもそも細胞の共鳴は情報も伝え合うんですか?」

「細胞内伝達シグナルって言って、電気刺激や化学物質の刺激、それに物理的な機械刺激を外部からの受けることで細胞同士は情報を伝達するの。だからプラシーボで増強した波が、相手の細胞に物理的に伝われば情報が伝わるかもしれない」


 ああ、なるほど。深掘りしても分からないやつだな。

 色々と突っ込みたい気持ちは抑え、俺は唯一理解することができた疑問を聞いてみる。


「でもその理屈なら白波の他に、もう一人が関わっていることになりますよね?」


 千草さんの仮説が正しいのなら、ある人物が白波に『男子の中でも絵馬は大丈夫』といった情報を伝えていることになる。それなら関わっているのは白波だけではない。


「うん。でもそれは誰でもいいよ」

「どうして?」

「それは絵馬を信用している人だったら誰でもいいんだよ。絵馬自身でもね」

「俺を信用している人が、白波と細胞の振動数が偶然同じで、加えて『俺は大丈夫』って情報を白波に共有……? 訳わかんねえ」

「本来、他者と情報を共有するには耳や目のような受容器を使うでしょ。それ以外の方法で情報を共有させるなら、いま説明したような共鳴による伝達しかないと思うよ」


 白波は俺や大人という存在を『大丈夫な人間』と脳で無意識に認識させられ、その他の男子を認識しないように逃避を考えたというのが千草さんの仮説。

 その考えにプラシーボが噛み合い、俺や大人を除く男子が認識できなくなった。

 いや、正しくは自分に声をかけてきた相手、になるのか。


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