第5話「昼間の顔で、夜と同じことを言ってくれ」
翌朝、廊下でグスタフと目が合った。
一瞬だけだった。グスタフは何も言わずに視線を外して、歩き去った。
昨夜、窓に来なかった。三年間で初めて、来なかった。来ない理由はわかっていた。わかっていても、廊下ですれ違うだけに戻った二人の距離が、今朝は三年前よりずっと遠く感じた。
仕事は手につかなかった。
カタリナが心配そうに覗き込んできた。「マルティナ様の件、聞いた? 評議会で完全に論破されたって。もう終わりらしいよ」とひそひそ言った。イレーネは「そうですか」とだけ答えた。
「……それだけ? スカッとしない?」
「後で、します」
カタリナが首を傾げたが、イレーネは昼休みになるのを待った。
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中庭の回廊の影に、グスタフがいた。
一人で石壁に背を預けて、空を見ていた。イレーネが近づいても気づかなかった。名前を呼んだら、振り返った。
昼間の顔だった。しかし昨夜と同じ目をしていた。
「昨夜は来なかった」とイレーネは言った。
「ああ」
「なぜですか」
「全部、昼間の場所で話してしまったから」とグスタフは言った。「夜に行く理由が、わからなくなった」
イレーネは少し考えた。
「夜に来ていたのは、私が安全か確かめるためだと言いましたね」
「……最初は、そうだった」
「最初は、と昨日も言いました」
グスタフが止まった。
「今は、と続けませんでした」とイレーネは言った。「聞いてもいいですか。今は、何のために来ていたんですか」
グスタフは少しの間、中庭の石畳を見た。
それから、静かに言った。
「会いたかった。確かめたいとか、守りたいとか、そういう理由が全部なくなった後も——ただ、会いたかった」
「それはいつ頃から、ですか」
「……二年と、少し前から」
三年のうちの、二年以上。イレーネは少し止まった。
「昼間の顔で、言えますか」とイレーネは言った。「仮面がなくても、夜じゃなくても——同じことを」
グスタフが顔を上げた。
中庭に昼の光が差していた。回廊の影の中で、二人は向かい合っていた。
グスタフはイレーネを見た。三年間の夜と同じ目で、昼間の光の中で。
「会いたかった。三年間——夜が来るたびに、お前に会いたかった」
イレーネの目に、涙が盛り上がった。
「それは」と言いかけた。声が出なかった。もう一度息を吸って、「昼間に聞く方が、ずっと——」
「ずっと?」
「困ります」
グスタフが、昼間に笑った。
夜の窓辺で見た笑い方と同じで、しかし光の中にあった。初めて見た。三年間、夜にしか見せなかったその顔が、今日の昼間にあった。
「困らせるつもりで言った」
イレーネは笑いながら、泣いた。声は出なかった。ただ、涙が落ちた。
グスタフが一歩近づいた。不器用に、少しだけ迷って、イレーネの頭の上に手を置いた。それだけだった。それだけで、三年分が、全部来た。
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【エピローグ】
それから半年後。
イレーネの部署は王直轄の情報管理部門として格上げされた。権限縮小どころか、予算が倍になった。マルティナは王宮を去り、腐敗していた一派も静かに解体された。
グスタフはもう夜の城壁を歩かない。来る必要がなくなったからだ。
代わりに、昼間に来るようになった。
執務の合間を縫って、イレーネの部署の前を通る。用があるときも、ないときも。カタリナが「宰相閣下、今日で今週五回目の通過ですよ」と小声で言った。イレーネは「仕事の経路が変わったのでしょう」と答えた。
「どう見ても経路じゃないでしょう」
「そうかもしれません」
その日の帰り際、廊下でグスタフとすれ違った。他に誰もいなかった。グスタフが一瞬だけ足を止めた。
「今夜、時間があるか」
「あります」とイレーネは答えた。
「では来る」
「窓からじゃなくていいですよ、もう」と言ったら、グスタフが少し止まった。
「……扉から来る方法を、知らない」
イレーネは笑いそうになるのをこらえた。「お教えします」と言った。
グスタフは何も言わなかった。ただ、耳の端がかすかに赤かった。
三年間、夜の窓辺にいた男が、昼間の光の中にいる。
それだけで、十分だった。
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【完】
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