面涅将軍:狄青(てきせい)⑬
〇窮地での奇策
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1052年(皇祐4年)の後半、広源州の地は、儂智高が率いる反乱軍の猛威に晒されていた。北宋の官軍は劣勢に立たされ、兵士たちの士気は底を尽きかけていた。
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広源州の奥地に陣を張った狄青の陣営は、重苦しい空気に包まれていた。連日の激戦で、兵士たちの疲労はピークに達し、反乱軍の勢いを止めることができない膠着状態が続いていたのだ。
「将軍、このままでは兵の士気が持ちません。反乱軍は地の利を得ており、我々(われわれ)の進軍は度々(たびたび)阻まれています」
李義が、険しい表情で報告した。
張忠もまた、いつもの豪快さを失い、歯噛みしていた。
「くそっ、儂智高の奴め。まるで山の精霊か何か(なにか)のように、どこからともなく現れては、我々を翻弄しやがる」
沈黙の中、狄青は、じっと前を見据えていた。彼の脳裏には、西夏との戦いを思い出していた。あの時も、絶望的な状況を、己の「面涅将軍」としての姿と武勇で打ち破ってきた。しかし、今回はそれだけでは足りない。兵士たちの心に、もう一度、勝利への確信を植え付けなければならない。
その夜、狄青は、全ての将兵を集めた。静まり返った兵士たちの前で、彼はゆっくりと口を開いた。
「皆、聞け。この戦いが長引き、皆が疲弊しているのは重々承知している」
兵士たちは、俯いたまま、声も出さなかった。
「だが、今宵、我々(われわれ)に神のお告げが下るだろう」
狄青は、そう言うと、懐から一枚の銅銭を取り出した。それは、表と裏がある、ごく普通の銅貨だ。
「今から、この銅銭を百枚投げる。もし、全てが表を出したならば、それは神が我々、宋軍に味方し、勝利をもたらすという確かな証となるだろう」
周囲の部下たちは、ざわめいた。張忠は思わず「将軍、それはあまりにも無謀です!」と叫んだ。百枚の銅銭を投げて、全てが表を出すなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだ。仮に一つでも裏が出たら、兵士たちの士気は完全に崩壊してしまうだろう。
しかし、狄青は毅然として言い放った。
「案ずるな」
実は、狄青は、この日のために密かに準備を進めていた。彼が手に持つ銅銭は、裏面も表になるよう、特殊な加工が施されていたのだ。
狄青は、兵士たちの前で、一枚、また一枚と、ゆっくりと銅銭を投げ始めた。カラン、カランと乾いた音が響き、兵士たちは固唾を呑んで見守った。
一枚、二枚と、次々(つぎつぎ)に表が出る。五十枚、八十枚、九十枚と続いても、表が出続ける。そして、百枚目の銅銭が投げられ、地面に落ちた時も、見事に表を向けていた。
その瞬間、静寂は破られ、兵士たちから一斉に歓声が上がった。
「おお! 神が味方した!」
「将軍は、やはり神に愛されたお方だ!」
兵士たちは、本当に神が宋軍に味方したのだと信じ込み、その目には、絶望の色は消え去り、希望と高揚の光が宿っていた。疲弊しきっていた体に、新しい力が満ちていくのを感じていた。
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反乱軍の平定
翌日の朝、高揚した士気のまま、宋軍は儂智高の反乱軍に猛攻をかけた。兵士たちは、まるで別の軍隊になったかのように、勇猛果敢に敵陣に突入していった。
「突撃! 神は我々(われわれ)に味方している!」
張忠の雄叫びが響き渡る。李義は冷静に兵を指揮し、劉慶は巧みに敵の側面を突いた。若き石玉も、恐れることなく敵に斬り込んでいく。
狄青は、いつものように先頭に立ち、兵士たちを鼓舞した。彼の異様な姿と圧倒的な武勇は、今や兵士たちにとって、神そのものに映っていた。
反乱軍は、宋軍の思いもよらない猛攻に、なす術もなく崩れ去っていった。儂智高の軍は壊滅的な打撃を受け、ついに広源州の反乱は見事に平定された。
この勝利は、狄青の軍事的な才能だけでなく、彼が兵士たちの心を掴む術にも長けていたことを示していた。たとえそれが、少しの仕掛けを用いたものであったとしても、絶望の淵にあった兵士たちに希望を与え、勝利へと導いたその手腕は、確かに名将と呼ぶにふさわしかった。
〇論功行賞と狄青の姿勢
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1052年(皇祐4年)後半、狄青が指揮を執った儂智高の反乱は、見事に平定された。兵士たちの士気を高めるために行われた銅銭の奇策は、まさに劇的な効果を発揮し、宋軍を勝利へと導いたのだ。
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戦の後は、必ず戦後処理と論功行賞が待っている。論功行賞とは、戦で手柄を立てた者に褒美を与えたり、位を上げたりする大事な儀式のことだ。通常、総大将がその采配を振うのが慣例だった。
しかし、狄青は違った。勝利に沸き立つ陣営で、彼は静かに文官たちを集めた。
「この度の反乱平定は、一重に陛下の御威光と、将兵一人一人の奮闘によるもの。私は、指揮官として役目を果たしたに過ぎない」
張忠が、信じられないといった顔で狄青に近寄った。
「将軍! とんでもない! あの時の我々(われわれ)の士気は底をついていました! 将軍がいなければ、儂智高に勝つことなど、夢のまた夢でしたぞ!」
李義もまた、冷静ながらも納得できない様子だった。
「その通りです、将軍。あの銅銭の奇策がなければ、兵は立ち上がることもできなかったでしょう。まさに将軍の功績です」
だが、狄青は首を横に振った。
「いや、私の役目は戦を指揮すること。戦後の処理や、誰にどの褒美を与えるかといったことは、文官の皆様が最も(もっとも)得意とするところだ。私のような武骨者が口を挟むべきではない」
彼は、一兵卒から這い上がり、枢密副使という高位にまで登り詰めた。それゆえに、朝廷の文官たちからは、その存在を警戒されていることを誰よりも理解していた。特に、武官が軍事の最高職に就くこと自体が異例であった宋の時代において、自らが政治に深く関与することは、かえって文官たちの反感を買い、足元を掬われる原因となりかねないと考えていたのだ。
劉慶は、狄青の思慮深さに感銘を受けた。
「将軍は、ご自身の立場をよく理解しておられますな。我々(われわれ)の目から見ても、正しく立派な態度です」
石玉は、まだ若かったためか、純粋に疑問を口にした。
「でも、手柄は将軍のものなのに、それを譲ってしまうのは、勿体なくないですか?」
狄青は、石玉の頭を優しく撫でた。
「石玉よ。真の功績は、誰が何と言おうと消えることはない。そして、皆の信頼を得ることこそが、何よりも大切なのだ」
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文官たちの評価
狄青のこの謙虚で公正な姿勢は、都の文官たちにも伝わった。彼らは、武官である狄青が、戦場での功績に奢ることなく、論功行賞のような重要な政務に一切口を出さず、全てを文官に任せたことに驚き、感心した。
富弼や文彦博といった、かつて狄青の枢密副使抜擢に反対した者たちでさえ、彼の姿勢を認めざるを得なかった。
「まさか、狄青殿が、これほどまでに思慮深いとは……」
富弼が呟いた。
文彦博も頷いた。
「彼は、己の立場と、文武の分ちをよく理解している。これならば、我々も無闇に警戒する必要はないかもしれぬな」
狄青が、自らの武功を誇示せず、文官の権限を尊重したことは、それまで彼を警戒していた文官たちの心を解きほぐすきっかけとなった。彼への信頼は深まり、都での彼の立場は、確固たるものになりつつあった。
しかし、この時の文官たちの評価が、いつまでも続くわけではないことを、狄青はまだ知らなかった。武官として異例の出世を遂げた彼に、これから先、さらなる試練が待ち受けているとは、夢にも思わなかったのである。




