面涅将軍:狄青(てきせい)⑫
〇異例の大抜擢
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1052年(皇祐4年)、北宋の都、開封は、普段にも増して活気に満ち溢れていた。皇帝仁宗からの勅使が、西夏との国境で奮戦を続けていた狄青の元へと派遣されたのだ。
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その日の朝、狄青の陣営は、いつになく厳かな雰囲気に包まれていた。仁宗皇帝からの重要な辞令が届くことになっていたからだ。部下たちも、それぞれの持ち場で緊張した面持ちで待機している。
やがて、都から派遣された文官が、厳かに読み上げた。
「……狄青を、枢密副使に任ずる!」
その言葉が響き渡ると、一瞬の静寂の後、どよめきが起こった。
枢密副使とは、当時の北宋における軍事の最高職の一つだ。
軍事の「司令塔」のナンバーツーにあたる。
北宋には、「枢密院」という機関があった。これは、現代の国防省や参謀本部を合わせたようなもので、国の軍事・国防に関する全てを司る最高機関だった。その枢密院のトップが「枢密使」で、その次が「枢密副使」なのである。つまり、軍事の最高意思決定機関の実質的な「副司令官」の役目なのである。
通常、この役職は、学問を修めた文官が就くものであり、武官、それも一兵卒から成り上がった狄青がこの位に就くことは、まさに前例のない大抜擢だった。
狄青自身も、その報せに驚きを隠せないでいた。彼は、顔に刺青を持つ一介の兵士として軍務に就いた身だ。それが、まさか国の軍事を司る高官に任じられるとは。
「将軍、おめでとうございます!」
張忠が一番に駆け寄り、その大きな手で狄青の肩を叩いた。その顔は、まるで自分のことのように喜びに輝いている。
「まさか、ここまでとは! 俺たちの将軍が、天下の『面涅将軍』として、ついに都へ!」
「張忠殿、落ち着いてください。しかし、これは喜ばしいことです」
李義が冷静ながらも、その目には感動の色が浮かんでいた。
劉慶はしみじみと言った。
「将軍は、常に我々(われわれ)兵士の先頭に立って戦い、多くの敵を打ち破ってこられました。この昇進は、当然の結果です」
最年少の石玉は、目を輝かせながら狄青を見上げていた。
「将軍のように、貧しい生まれでも、努力すればここまで上り詰められるのですね……。俺も、将軍を目指します!」
彼らの言葉に、狄青は胸が熱くなるのを感じた。彼らがいたからこそ、自分はここまで来ることができたのだ。共に血を流し、汗を流し、苦楽を分かち合ってきた仲間だ。
「皆、ありがとう。しかし、喜ぶのはまだ早い。この大抜擢は、我々(われわれ)に、より重い責任が課せられたということだ」
狄青の言葉に、部下たちは真剣な表情になった。
「枢密副使は、都で国の軍事の全てを司る役職だ。これまでの戦場とは、また異なる難しさが待っているだろう。だが、私は決して、皆の期待を裏切ることはしない」
そして、狄青は部下たち一人一人の顔を見回した。
「今回の昇進は、私一人のものではない。皆が共に戦い、支えてくれたからこそ、得られたものだ。故に、皆にも相応の報いがあるべきだ」
狄青はそう言うと、それぞれの功績に応じて、部下たちの昇進と任地が告げられた。張忠はさらなる要衝の守備を任され、李義は戦略部門でその才を発揮することになった。劉慶と石玉も、それぞれ重要な役職に就くことになった。
「将軍! 俺たちも、将軍の元で、もっともっと強くなります!」
張忠が叫んだ。
「狄青将軍の御恩は、決して忘れません!」
李義が深々と頭を下げた。
部下たちの喜びの声を聞きながら、狄青は、これまで歩んできた道のりを思い返していた。貧しい農家に生まれ、兄の罪を被り兵となり、顔に刺青を彫られた。屈辱と絶望の中で始まった軍人生活だったが、彼は決して諦めなかった。己の武才を磨き、戦場で誰よりも勇敢に戦った。その姿は、いつしか「面涅将軍」として敵味方に知られるまでになった。
そして今、彼は都へ向かう。そこは、これまでの戦場とは異なる、文官たちがひしめき合う場所だ。彼の顔に残る刺青は、彼がどれだけ苦難を乗り越えてきたかの証であり、同時に、彼を嘲笑する者もいるかもしれない。
しかし、仁宗皇帝が、そのような彼を枢密副使に任命したのだ。それは、狄青の能力を高く評価し、出自や容姿にとらわれず、真の才を見抜いた証拠だった。
「都へ行こう。そして、陛下のご期待に、必ず応えてみせる」
狄青は、静かに決意を固めた。彼の新たな戦いは、まさにここから始まるのだ。彼の背中には、長年苦楽を共にした部下たちの期待と、家族の未来が懸かっていた。彼は、貧しい出自の者や、最下級の兵士たちにとっての希望となるために、都へと旅立つ。
〇南の動乱
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1052年(皇祐4年)の後半、北宋の南の地で、新たな戦いの火蓋が切って落とされた。都の開封で枢密副使に任じられたばかりの狄青は、その平穏も束の間、再び前線へと赴くことになった。
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南の方角、遠く広源州という地で、儂智高と名乗る男が大規模な反乱を起こし、華南一帯を席巻する事態となっていた。広源州とは、現在の広西チワン族自治区の一部にあたる、山々(やまやま)が連なり、複雑な地形が広がる土地だ。かつては独自の部族が割拠し、宋の支配が及びにくい場所でもあった。
狄青は、都で慣れない政務に追われる日々を送っていたが、反乱の報せを受けると、すぐさま皇帝仁宗に謁見し、自ら平定の指揮を執ることを志願した。仁宗皇帝は、彼の才覚と忠誠心を信頼し、その願いを聞き入れた。
狄青が率いる遠征軍が、長い道のりを行軍している途中、野営地で部下たちが集まり、ざわついていた。
「将軍、儂智高とは、一体どのような人物なのでしょう?」
と、張忠が尋ねた。李義、劉慶、石玉らも、好奇心に満ちた眼差しで狄青を見つめている。彼らは、西夏との戦いから帰還し、それぞれ昇進して、狄青に続いて遠征軍に加わっていた。
狄青は、地図を広げ、広源州の位置を示しながら、ゆっくりと語り始めた。
「儂智高は、元々(もともと)は広源州に根を張る少数民族の首領だ。彼の一族は、宋に属しながらも、半独立の勢力を保っていた」
「な、なるほど。では、なぜ彼は反乱を起こしたのですか?」
今度は李義が質問した。
狄青は、一呼吸置いて答えた。
「儂智高は、元々(もともと)、自分の国を建てたいという野心を抱いていた。そして、かつて宋から役職を与えられたものの、その権限が狭く、不満を募らせていたようだ。度重なる宋からの圧迫と、彼の勢力を抑え込もうとする政策が重なり、ついに我慢の限界に達したのだろう」
「つまり、宋のやり方に怒りを覚えて、決起したと?」
劉慶が顔をしかめて言った。
「その通りだ。彼は、隣国である大理国の王から、宋との衝突を避けるよう忠告されたにも関わらず、宋からの圧政に耐えかね、ついに武力を行使する道を選んだ」
狄青は、地図の上で、反乱軍の進軍ルートを示した。
「彼らは、わずかな兵で蜂起したにも関わらず、瞬く間に周囲の州を陥落させ、その勢いは止まることを知らない。南の地の官軍は、彼らの勢いの前に、なす術もなく敗走を続けているのが現状だ」
石玉が心配そうに言った。
「ということは、我々は、西夏の兵とは異なる、地の利を知り尽くした手強い相手と戦うことになるのですね」
「その通りだ。山岳地帯での戦いは、平野とは勝手が違う。そして、儂智高は、ただの反乱者ではない。彼は、民の不満を巧みに利用し、その勢力を拡大させている」
狄青の言葉に、部下たちの顔に緊張が走った。西夏との戦いでは、狄青の「面涅将軍」としての威圧感が大きな力となったが、今回の戦いは、それだけでは勝てないことを、彼らは直感していた。
「しかし、我々(われわれ)には、将軍がいます!」
張忠が、いつもの豪快な声で言った。
「西夏の李元昊でさえ、将軍の前には歯が立たなかった! 儂智高など、恐るるに足りません!」
その言葉に、場の雰囲気が和んだ。部下たちの、狄青への絶対的な信頼がそこにはあった。
狄青は、静かに彼らを見回し、力強く頷いた。
「皆、その気持ちが何よりも力となる。確かに、今回の戦いは、これまでの西夏との戦いとは性質が異なる。だが、我々(われわれ)は、これまで幾多の困難を乗り越えてきた。この反乱も、必ずや鎮めてみせる」
狄青の言葉には、彼自身の覚悟が込められていた。彼は、一兵卒から枢密副使という高位に上り詰めた身だ。その地位に見合うだけの責任と、国への忠誠を果たさなければならない。
翌日、宋軍は南の地へと進軍を続けた。前線へと向かう狄青の顔には、勝利への確信と、民の平穏を取り戻すという強い決意が満ち溢れていた。彼は知っていた。この反乱を鎮めることが、彼自身の真の力量を問われる試練となることを。




