面涅将軍:狄青(てきせい)⑪
〇楊家将との別れ
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1044年(慶暦4年)、長きにわたる北宋と西夏の戦いに、ようやく終止符が打たれた。両国の間で和議が成立し、荒廃した国境の地に、束の間の平穏が訪れた。しかし、完全な平和にはまだ時間がかかり、狄青は引き続き現地に留まり、軍務を続けていた。
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西夏との戦いにおいて、狄青の友軍として共に戦ってきた楊家将の楊文広と、その母である女将軍穆桂英もまた、新たな任務へと旅立つ日が来た。彼らが去ることは、狄青とその部下たちにとって、寂しい別れとなる。
軍営の一角で、狄青は穆桂英と楊文広と向かい合っていた。周囲には、張忠、李義、劉慶、石玉ら、狄青の部下たちも集まっている。彼らは皆、楊家将親子との別れを惜しむように、静かに立っていた。
「穆桂英将軍、楊文広殿、これまで共に戦ってくださり、心から感謝いたします」
狄青は深々と頭を下げた。彼の顔には、この数年の激戦で刻まれた皺が増えていたが、その眼光は以前にも増して鋭かった。
穆桂英は、かつての遼の名将、耶律休哥を打ち破った伝説の女傑だ。彼女は静かに微笑んだ。
「狄青将軍、あなたの武勇こそ、武神そのものです。いや、鬼神じゃな。『面涅将軍』が敵ではなくて本当によかった。楊家将は面涅将軍の友人であるとここに宣言します。」
穆桂英の言葉に、張忠が興奮気味に頷いた。
「へへっ、あの将軍の仮面とざんばら髪で絶叫しながら突撃する姿は、俺たちが見てもちびりそうになりましたからね! 西夏の兵どもは、あれを見ただけで腰を抜かしてましたよ!」
「怖すぎますって、本当に……」
石玉が肩をすくめ、劉慶と李義も苦笑した。兵士たちは皆、あの鬼神のような狄青の姿を忘れることはできないだろう。あの異様な装いは、敵を威圧するだけでなく、下級兵士だった頃に顔に彫られた刺青を隠すという、狄青自身の工夫と誇りが込められていたのだ。
楊文広も、感慨深げな表情で狄青を見つめた。
「将軍は、まさに軍神のようでした。あなたと共に戦えたこと、光栄に思います」
楊文広は、父である楊六郎や祖父である楊業の武勇を受け継ぐ楊家将の若き将。彼もまた、数々の激戦をくぐり抜けてきた猛将だ。
「楊文広殿こそ、敵の猛攻を幾度となく耐え凌ぎ、我々(われわれ)の進撃を助けてくださった。あなたの支えがなければ、この和議も成立しなかったでしょう」
狄青は、正直な気持ちを伝えた。西夏との戦いは、狄青が25回もの大規模な戦闘に参加し、8度も矢傷を負いながらも、常に先陣を切って敵陣に突入した激しいものだった。その中で、楊家将の存在は、彼にとって大きな支えだったのだ。
穆桂英は、ゆっくりと狄青に近づき、その肩に手を置いた。
「狄青将軍、あなたの武功は、すでに天下に轟いています。一兵卒から将軍にまで上り詰めたあなたを、朝廷もきっと高く評価するでしょう。しかし……」
穆桂英は言葉を区切った。その瞳には、どこか憂いのようなものが宿っていた。
「武官が文官優位の北宋の朝廷で、その才覚を十全に発揮することは、容易いことではありません。どうか、油断なさいませんよう」
彼女の言葉は、狄青の心に深く響いた。確かに、北宋は文官が重用される国だ。武官が功績を挙げれば挙げるほど、文官たちの警戒心も増すだろう。
「ご忠告、肝に銘じます」
狄青は真剣な顔で答えた。
楊文広が、遠くに見える地平線を指差した。
「我々(われわれ)は、これから別の戦場へと向かいます。しかし、いつかまた、あなたと肩を並べて戦える日が来ることを願っています」
「私もです。必ずや、その日が来ることを信じています」
狄青は力強く頷いた。
別れの挨拶を終え、楊家将の部隊は、砂煙を上げながら遠ざかっていく。彼らの姿が見えなくなるまで、狄青は、その場に立ち尽していた。
「寂しくなりますな、将軍」
李義が静かに呟いた。
「ああ、だが、彼らもまた、それぞれの場所で宋のために戦う。我々も、ここでやるべきことがある」
狄青は、前を見据えた。西夏との和議は成立したものの、国境の守りは怠ることはできない。そして、将軍として、兵士たちの生活を守り、訓練を続ける責任がある。
「よし、皆の者! 気を緩めるな! 平和は与えられるものではない。我々(われわれ)が、この手で守り抜くのだ!」
狄青の号令に、兵士たちは力強い返事をした。
戦いは終わったが、狄青の軍人としての道のりは、まだ続く。彼の「面涅将軍」としての名声は、すでに都にまで届いているだろう。しかし、穆桂英の言葉が示すように、彼の新たな戦いは、これから始まるのかもしれない。それは、戦場での武力だけでなく、朝廷という別の戦場での、知力と胆力を問われる戦いとなるだろう。
〇皇帝への進言
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1051年(皇祐3年)、北宋の都、開封の宮殿では、連日のように重要な議論が交されていた。中でも、西夏との戦いで目覚ましい功績を挙げた、一介の兵卒から将軍にまで上り詰めた狄青の処遇について、意見が分れていた。
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仁宗皇帝の御前に、重臣たちが集まっていた。その中には、改革者として知られる文官の范仲淹と、彼と並び称される韓琦の姿があった。彼らは、長く続いた西夏との戦乱を鎮め、多くの功績を挙げた狄青の才能を、誰よりも高く評価していた。
「陛下」
范仲淹が恭しく進み出た。彼の声は穏やかだが、その言葉には揺るぎない信念が宿っていた。
「わたくしは、狄青こそ、今こそ大用すべき人材であると考えます。彼は貧しい出自でありながら、その武勇と才覚で数多の戦いを勝利に導いて参りました。これほどの将は、他に類を見ません」
韓琦もそれに続いた。
「范殿の申される通り。狄青は、兵士の士気を鼓舞し、敵には畏怖の念を抱かせる『面涅将軍』として、すでに国境の守りには欠かせぬ存在となっております。彼を都に招き、枢密副使に任じ、軍事の要を任せるべきです」
枢密副使とは、軍事に関する重要な決定を行う最高幹部の一人だ。通常、文官が就くのが通例で、武官が任命されること自体が異例中の異例だった。ましてや、狄青のような下級兵士上りの武将がその地位に就くなど、これまでの歴史上、考えられないことだった。
しかし、仁宗皇帝は、彼らの進言に深く耳を傾けていた。長く続く西夏との戦いで、武官の不足は明らかだった。文官中心の体制では、戦乱を収束させるのは難しいと感じていたのだ。
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根強い反対意見
しかし、全ての意見が彼らと同じではなかった。有力な宰相の一人である富弼が、眉間に皺を寄せて口を開いた。
「陛下、わたくしは、狄青の武才は認めます。しかし、武官を枢密副使に抜擢することは、いささか危険かと存じます。武官にあまりに強大な権力を与えることは、国家の安定を脅かすことになりかねません」
富弼の言葉に、文彦博も続いた。彼は、狄青を個人的に嫌っているわけではないが、武官が文官の統制を越えることへの危機感を抱いていた。
「富殿のおっしゃる通りです。歴史を顧みれば、武官が権力を握りすぎた結果、国家が乱れた例は枚挙にいとまがありません。陛下は兵卒一人を抜擢して枢密副使とすることは、国家にとって吉兆とは申し難いと考えます」
彼らの主張は、武官が力を持ちすぎると、朝廷を脅かし、天下を乱す可能性があるという、宋の長年の懸念に基づ(もとづ)いていた。文官たちは、武を抑え、文をもって国を治めることを理想としていたのだ。
仁宗皇帝は、重臣たちの意見に耳を傾けながら、深く考え込んでいた。確かに、富弼や文彦博の言うことも一理ある。しかし、狄青の功績は紛れもない事実であり、今の北宋にとって、彼の力は必要不可欠なものだった。
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皇帝の決断
沈黙が場を支配する中、仁宗皇帝はゆっくりと口を開いた。
「朕は、范仲淹と韓琦の進言を受け入れる。狄青を枢密副使に任ずる」
皇帝の言葉に、富弼と文彦博は驚きを隠せない様子だったが、范仲淹と韓琦は、静かに安堵の表情を浮かべた。
「しかし、皆の懸念も理解できる。狄青には、武人としてだけでなく、文官としての素養も身につけてもらう必要があるだろう」
仁宗皇帝は、狄青の類まれな軍才を高く評価していた。彼のような人材を、出自ゆえに埋れさせてはならないという強い意志があったのだ。この異例の大抜擢は、彼がどれほど狄青の能力を信頼し、国の未来を託そうとしていたかの証だった。
この日、遠く離れた国境で軍務に励む狄青は、まだ知る由もなかった。自分を待ち受ける新たな運命と、都の朝廷が抱える、文と武の権力の複雑な綱引きに、彼自身が巻き込まれていくことを。




