面涅将軍:狄青(てきせい)⑩
〇狄青の結婚
1040年、北宋と西夏の戦いが続く最前線。泥と血の匂いが染み付いた軍営に、普段とは異なる賑やかな空気が流れていた。この日、面涅将軍こと狄青は、魏氏を妻として迎えることになっていた。
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「将軍、本当にここで式を挙げるんですか? もう少し安全な場所で……」
部下の一人、思慮深い李義が、心配そうに尋ねた。隣では、豪放な張忠が腕を組み、ニヤニヤしている。
「何言ってやがる、李義! 将軍らしくて良いじゃねえか! 戦の合間の祝言ってのも、粋ってもんだろ!」
張忠が笑い飛ばすと、若手の石玉がはにかみながら言った。
「でも、奥方様も不安に思うんじゃないでしょうか……」
狄青は、彼らの言葉に静かに首を振った。
「構わん。魏氏も承知の上だ。それに、この場所で挙げることに意味がある」
狄青の言葉に、皆は静まり返った。彼にとって、この戦場こそが、自らが「面涅将軍」として名を馳せ、将軍の位まで上り詰めた場所。そして、多くの兵士たちと苦楽を共にした、いわば第二の故郷だった。ここで妻を迎えることは、彼自身の生き様を示すことでもあったのだ。
この時代、北宋の結婚の儀式は、多くの場合、媒酌人を立て、結納、納采、問名、納吉、請期、親迎という六つの礼(六礼)が重んじられていた。しかし、戦地ではそうもいかない。簡略化されながらも、祝いの心は変わらなかった。
簡素な式場は、木材と布で設えられていた。兵士たちが手分けして飾り付けた赤い布が、殺伐とした軍営に温かい彩を添えている。遠くには、西夏との国境に連なる山々が連なり、夕日がその稜線を赤く染めていた。
楊文広と穆桂英も、この祝宴に駆けつけていた。穆桂英は、かつて遼の名将である耶律休哥を倒したという女傑であり、狄青も彼女には一目置いていた。
「狄青将軍、おめでたいことじゃ。私が後20若ければ、お主を打ち負かして強引に夫にしたのじゃがのう」
穆桂英が微笑みながら言うと、楊文広が慌てる。
「母上!男を打ち負かして、強引に夫にする女がどこにいますか!冗談もほどほどにして下さい」
「冗談ではないぞ。そなたの父を打ち負かして、強引に夫にした女は私じゃ」
首を振って母の言葉を聞き流すと狄青に向き直る。そして、楊文広は声をかける。
「魏氏殿も、心強いことでしょう。軍神のような将軍の花嫁となるのですから」
その言葉に、狄青は照れたように頭をかいた。
やがて、魏氏が姿を現した。戦場まで遥々(はるばる)やってきた彼女は、質素ながらも清潔な婚礼衣装に身を包んでいた。顔には薄紅が差し、緊張と期待が入り混じったような表情をしている。兵士たちの間から、感嘆のため息が漏れた。
狄青は一歩前へ出て、魏氏の手を取った。彼女の手は小さく、ひんやりとしていた。
「遠い道のり、よく来てくれた」
狄青の低い声が響くと、魏氏は顔を伏せ、小さく頷いた。その仕草が、戦場で鬼神のごとき武勇を振るう「面涅将軍」の心を、そっと温める。
式は厳かに進められた。簡略化されているとはいえ、天への誓い、夫婦の盃は欠かせない。そして、彼らが交わす盃は、未来への誓いでもあった。
「狄青将軍、魏氏殿、末永くお幸せに!」
劉慶が声を上げると、兵士たちも一斉に歓声を上げた。戦の合間のわずかな時間、兵士たちはつかの間の祝宴を楽しんだ。彼らの顔には、いつもの疲労の色はなく、笑顔が溢れていた。
狄青は、魏氏の横顔を見つめた。彼女の瞳には、この殺伐とした戦場にあっても、揺るぎない光が宿っていた。
「ここから先は、私がこの身を賭して、お前を守る」
狄青は心の中で誓った。魏氏は、そんな彼の決意を感じ取ったかのように、そっと狄青の腕に寄り添った。
この結婚式は、戦乱の世に咲いた一輪の花のようだった。それは、希望であり、未来への兆でもあった。西夏との戦いは、まだ終わらない。しかし、狄青には、守るべきものが増えた。彼の武勇は、これからさらに輝きを増していくだろう。
〇夫人の苦闘
1041年、春。西夏との国境近くに位置する軍営は、相変わらず土埃が舞い、兵士たちの怒号が響いていた。しかし、その一角に、これまでの殺伐とした雰囲気とは異なる、小さな温かさが芽生えていた。
狄青が妻として迎えた魏氏は、質素な天幕の中で、武人の妻としての生活を送っていた。都の華やかな暮らしとは無縁の、厳しく、そして転居の多い日々だった。
「魏氏殿、これも持っていきなさい。体を冷やすといけないから」
隣の天幕に住む、ベテラン兵士の妻が、使い古された毛布を差し出した。魏氏は、恐縮しながら受け取る。
「ありがとうございます。いつもお気遣いいただいて……」
魏氏の顔には、この数ヶ月でずいぶん生気が戻っていた。結婚した当初は、慣れない軍営の暮らしに戸惑い、顔色も優れなかった。戦の合間には、遠くで響く鬨の声に心臓が締め付けられる思いがした。夫である狄青が戦場に出るたび、無事を祈りながら眠れない夜を過ごした。
ある日、李義の妻が、そっと魏氏に話しかけた。
「魏氏殿、将軍は本当にすごい方だよ。あの『面涅将軍』の異名は伊達じゃない。どんなに激しい戦でも、必ず生きて帰ってくるから」
その言葉に、魏氏は少しだけ安堵した。しかし、同時に、夫の背負う重責の大きさを改めて感じた。
食事の準備も一苦労だった。新鮮な食材は手に入りにくく、乾物や保存食が中心となる。時には、兵士たちが持ち帰る野生の獣肉を捌いて調理することもあった。
「今日は、鹿の肉が手に入ったぞ! 魏氏殿、腕を振るってくれ!」
張忠が大きな声を上げて、肉の塊を差し出した。魏氏は、最初は血生臭い肉に顔を顰めたが、これも夫のため、兵士たちのためと、慣れない手つきで捌いた。
ある夜、魏氏は狄青の天幕で、夫の帰りを待っていた。その日、狄青は斥候に出ていた。敵地深く入り込むため、危険な任務だった。夜が更け、風が強く吹き荒れる。天幕の布がバタバタと音を立てるたび、魏氏の心臓は跳ね上がった。
不安に耐えかね、天幕の入り口を開けて外を見る。漆黒の闇の中、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
「大丈夫かしら……」
魏氏は、静かに祈りを捧げた。
明け方近く、ようやく馬の蹄の音が聞こえてきた。狄青が、土埃まみれになりながらも、無事に帰還したのだ。魏氏は、その姿を見ると、安堵から涙が溢れた。
「魏氏……起きていたのか」
狄青は、心配そうな顔で魏氏に近寄った。その顔には、疲労の色が濃く、頬には泥が跳ねていた。
「心配で……」
魏氏は、狄青の顔に付いた泥をそっと拭った。夫の体から、土と汗と、そしてわずかな血の匂いがした。この匂いが、魏氏にとって、夫の生きている証だった。
そんな苦労の多い生活の中で、1041年の冬、二人の間に新しい命が宿った。魏氏のつわりが始まったとき、狄青は戸惑いながらも、どこか嬉しそうだった。
「本当に、この子が……」
狄青が魏氏の膨らみ始めた腹に触れると、魏氏は優しく微笑んだ。
「ええ。あなたの子です」
戦の合間、狄青は魏氏の様子を気遣い、部下たちも温かく見守った。張忠は狩りで手に入れた新鮮な肉を、李義は遠くの村で手に入れた薬草を、劉慶は読み聞かせのために物語の本を、石玉は可愛らしい小石を拾ってきては、魏氏に贈った。
そして、その年の暮れ、北宋の厳しい冬の最中、元気な産声が軍営に響き渡った。男の子だった。狄青は、生まれたばかりの我が子を抱きしめ、その小さな命の重みに感動で震えた。
「この子の名は、狄詠にしよう」
狄青がそう言うと、魏氏も優しく頷いた。
狄詠の誕生は、魏氏にとって、そして狄青夫婦にとって、大きな喜びとなった。荒々しい戦場暮らしの中にも、ささやかな幸せと希望の光が灯ったのだ。
その後も、北宋と西夏の戦いは続き、狄青は各地を転戦する日々を送った。それに伴い、魏氏もまた、何度も住居を変えながら、夫を支え続けた。質素な暮らしの中、狄青と魏氏の間には、狄詠を含め、6人の男子と2人の女子、計8人の子供たちが生まれた。彼らは皆、母である魏氏の苦労と、父である狄青の武勇の証だった。




