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もうすぐ日も落ちようというのに、学園の中は相変わらず喧騒が溢れていた。おそらく、このまま学園に泊まる生徒もいるんだろう。できれば、ボクもその賑やかさに飛び込みたかったけど、今はやるべきことがあった。
「柚乃ちゃん……」
笹垣さんたちが言っていた『あの子』というのが誰なのかは、想像がついていた。
だけど、家庭科室で一体何をしているというのだろう。
家庭科室の前までくると、ボクはドアの窪みに手をかけようとして、
「ああ、ロミオ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの! お父さまと縁を切り、その名を捨てて。それが無理なら、せめて私を愛すると誓って。そうすれば、私はキャピュレット家の名を捨てましょう!」
唐突に飛び込んできた声に、そのまま固まってしまった。
この声は、間違いなく柚乃ちゃんの声だ。そして、演じているのは有名なバルコニーでのシーンだ。だけど、それはロミオとの掛け合いの場面。ジュリエット一人では、練習になんてならない。
「ロミオ、その名を捨てて。そんな名前は、あなたじゃない。名前を捨てて私をとって!」
だけど、その疑問は次に聞こえてきた台詞で氷解した。
「とりましょう、そのお言葉どおりに。恋人と呼んでください、それがぼくの新たな名前。これからはもうロミオではない」
声は、相変わらず柚乃ちゃんのものだ。でも、その台詞はジュリエットのものじゃない。ジュリエットの声に応えた、ロミオの台詞だ。
「なに……? どういうこと……?」
呟いた刹那、頭の上に軽く手が乗せられた。
「え?」
驚いて振り返ると、そこには眉を八の字にしながら笑う円ちゃんと、少し目元を潤ませる宮帆ちゃんの姿があった。
「やっと来やがったか。ったく、困ったロミオさまだよ」
「タマちゃ~ん……心配したんだからぁ」
そのまま、円ちゃんの手がわしゃわしゃと髪をかき回す。
「二人とも……」
呆然としながら言うと、二人はそれぞれ笑顔を浮かべた。
「あの、これ……どういうことなの?」
家庭科室のドアに視線を向けて訊ねる。すると、円ちゃんがほんの少しだけドアを開けて、そこから中を覗きながら小さい声で話し始めた。
「どうもこうも、見ての通りだよ。タマ、おまえが来なくなってから、古森はずっとロミオの役も演じてたんだ。代役なんていらない、タマは絶対来るからってな」
「そんな……」
家庭科室の中では、もう十一月だというのに顔に玉のような汗を浮かべた柚乃ちゃんが、長いポニーテールを振り乱している。そうしてロミオとジュリエットの二役を演じながら、たった一人きりで一心不乱に練習をしていた。
「最初はね、みんなやっぱり劇を中止しようかって言ってたんだよ? でもね、コモちゃんがそんなのダメだって、あんな脅迫に負けちゃダメだって、みんなを励ましてくれたの」
ずきりと胸が痛む。
(でも、だけどそれじゃ……!)
胸の痛みに顔を歪めるボクを見て、おもむろに円ちゃんがドアから離れる。
「それだけじゃないぜ。タマ、ちょっと一緒に来て。見せたいもんがあるから」
円ちゃんたちに連れられるままに来た、屋上に続く階段の踊り場。あの、川北先輩を引っ叩いてしまった場所で、ボクはそれを受け取った。
「これは?」
「見ればわかるさ」
教室に顔を出すのは気まずいだろうと、円ちゃんと宮帆ちゃんがここまでこっそりと持ち出してきてくれたのは、紛れもなく授業で使う教科書だった。
「あの、驚かないでね……?」
宮帆ちゃんが不安そうな顔で言ってくる。
怪訝に思いながらも、ボクは受け取った教科書をぱらぱらと捲っていった。
「なに、これ――」
絶句する。
教科書には、見るに耐えないような誹謗中傷が大きく書かれていた。
次々とページを捲っていくが、その落書きが終わることはなく、どのページも使い物にならないほど落書きがされていた。中には、真っ黒に塗りつぶされたページや、あのときのボクの衣装のように切り刻まれたページすらあった。
「ひどい、誰がこんな……」
そして、最後まで捲り終えたところで、教科書に書かれた持ち主の名前が目に飛び込んでくる。
そこには、丸く可愛らしい文字で『古森柚乃』と書かれていた。
「うそ、だ」
あの柚乃ちゃんが、こんなことされるわけがない。だって、柚乃ちゃんは明るくて、元気で、クラスの人気者で、誰かに恨みを買うようなことは――
「嘘なんかじゃねーよ」
「っ……」
だから、それはボクのせいだ。
ボクが、柚乃ちゃんをこんな目に遭わせてしまった。
「タマちゃん……」
唇を強く噛みしめていると、気遣うような宮帆ちゃんの声が聞こえた。
「ちなみに、それはほんの一部だ。ひどいもんだぜ、他の教科書からノートまで、全滅だったよ」
「コモちゃんは隠してるみたいだったけど……こんなの、さすがに気付くよ……」
痛ましげな表情を浮かべながら、宮帆ちゃんはぎゅっとスカートを握る。
間違いなく、これをやったのは脅迫状を送りつけてきた人物だろう。ボクを学園から排除するのに、柚乃ちゃんが邪魔だからという、それだけの理由で。
(許せない……こんなの)
唇が切れて、鉄の味が口に広がる。
それを見て円ちゃんは逡巡しながらも、やがて一枚の手紙らしきものを、ボクの目の前に差し出してきた。
「それと、今さっきそれを取ってきたとき、こんなのが入ってた」
迷うことなく、それを受け取る。
どこにでも売っているような、白い印刷用紙。二つに折られたそれにプリントされていた文字。それを見た瞬間、ボクの頭は血のように毒々しい赤色で染め上げられた。
――これは最後通牒だ。中学時代の出来事を、みんなに知られたくはないだろう?
ぎりぎりと歯が軋む。
怒りで目の前が白くなり、凍えたように手足が震え出す。
「二人とも……これ、中見た?」
「いや、見てねーよ。宮もだ。これはあたしが保証する」
ボクの様子にただならぬものを感じたのか、宮帆ちゃんのたじろぐ気配がした。
「……そう。ごめん、これは二人にも見せられない」
言って、ボクは乱雑にそれをスカートのポケットに突っ込む。
「にしても、一体誰だよ、こんなふざけた真似してやがんのは」
「うん……。でも、きっと別のクラスの人だよ。だって、わたしたち練習のとき、みんな一緒に体育館行ったじゃない? そんな紙入れるヒマなかったもん」
友達を疑わずに済んだことに、宮帆ちゃんは胸を撫で下ろしているようだった。
「宮帆ちゃん……今の、本当?」
「え? う、うん、ほんとだけどぉ?」
だけど、ボクは一連の犯人が誰なのか、なんとなくわかった。
わかって、しまった。
「ありがと、教えてくれて。それとごめん。今日は、もう帰るよ」
俯き加減で、二人の脇をすり抜ける。
「あ、おいタマ!」
それに足を止めて、少しだけ振り返る。
「大丈夫、明日は来るから。……絶対に」
呪いのように呟いて、再び歩き出す。
いつの間にか、雨は止んでいた。




