4-3
その日は、香波先生の勧めもあって保健室のベッドの上で一日を過ごした。
先生は「あんまり内緒でこういうことしちゃダメなんですけどね?」と言いながらも、他の教師には報告しないでいてくれた。
やがて気が付けば放課後になっていて、ボクはカーテンで四角く切り取られた白い天井を見ながら、自分が今何をするべきなのかを考えていた。
(……確かめに行こう)
呟いて、まるで鎧でも着たみたいに鈍重な体を起き上がらせる。
もしかしたら、体育館で劇の練習をしているかもしれない。学園祭は土日の二日間行われるけど、劇が行われるのは土曜――つまり、本番は明日なんだから。
カーテンを開けると、保健室は無人だった。香波先生は三十分くらい前に「さて、じゃあわたしは職員会議に行ってきますからね?」と言って出ていったまま、まだ帰ってきてはいないようだ。
ボクは鞄を開けてノートを切り取ると、先生の机の上に置手紙をして保健室を出た。
毒が、感染する――。
先輩は意地悪だ。思わせぶりなことを言うだけ言って、あとはボク自身の目で確かめろと言うのだから。
長い廊下を、学園祭の準備をする生徒の声にびくつきながら歩く。
本当は、今すぐ帰って部屋に閉じこもってしまいたかった。今だって、クラスメイトに会うんじゃないかと考えるだけで、心拍数が異常なほど上昇する。
だけど、確かめなければいけなかった。ボクの毒が誰かに感染したのなら――それは、きっとボクを助けようとしてくれた人だから。
――それが誰かなんて、考えるまでもなかったから。
(お願い……ボクの思い過ごしであって……)
体育館に着くと、そこでは学園祭の準備をする人たちが右往左往していた。
安堵と緊張を同時に覚えながら、体育館の中を見渡す。昨日から降り続く雨が、容赦なく屋根を叩き、遠くの空で雷鳴の音が鳴り響いていた。
でも、それだけだった。
体育館のステージ上には、見慣れた人の姿はない。
(いない、か)
安堵なのか落胆なのか、よくわからない息が出る。
しかし、本番は明日だっていうのに、どういうつもりなんだろう。もしかして、学園祭の準備で手一杯なんだろうか。
「あれ? 珠希ちゃん?」
そこまで考えたところで、突然背後から声を掛けられて、びくりと体が跳ねた。
振り返ると、爽やかで、それでいてどこか子供っぽい笑顔が返ってきた。
「か、川北先輩……?」
なんでここにこの人が、と思ったけど、理由はすぐにわかった。川北先輩は自分の胴体ほどの大きさのダンボールを抱えていた。大方、ヒマそうにしているところを捕まえられ、学園祭の準備を手伝わされていたのだろう。
「あー、やっぱり珠希ちゃんだ! 学園に出てきたんだね。よかったー、心配したんだよ? それで、一体どうしたの? なんか劇も主役なのに下りるとか――」
「わ、わ! ちょ、先輩――ええっと……こっち!」
いきなり大声で話し始めた川北先輩を引っ張って、体育館の外に出る。通路の屋根に当たる雨音がうるさいが、この際しょうがない。
「おお、珠希ちゃんが積極的に……」
「……あの、茶化さないでください」
言うと、先輩はごめんごめんと笑って頭をかいた。
「でも、本当に心配したんだぜ? なんか劇の練習も珠希ちゃん抜きでやってたみたいだし――」
「え?」
弾かれるように顔を上げる。
「あれ、知らなかった? なんか今日もついさっきまで、そこで練習してたみたいだけど」
言いながら、先輩は体育館を振り返る。ということは、どうやらみんなとは入れ違いになってしまったらしい。
それにしても、ボク抜きでってどういうことだ? ボクは、ちゃんとみんなに代役を立てるようにお願いしたはずなのに。
「あの、先輩。もしかして先輩は、何か劇のことを知って――」
そう訊ねようとしたとき、
「ちょっと明人! なにをまたこんなところで女の子引っ掛けてサボってるのよ!」
ボクの声は背後から飛んできた鋭い声に遮られた。
「絢芽?」
「あ……」
反射的に振り返る。
そして、彼女と目が合った。
「近衛、さん……?」
「……笹垣さん」
激しい雨音が耳を打つ。
その沈黙を破ったのは、笹垣さんだった。
「どうして……って、そんなことわかりきってるわね。あんなことがあったんですもの……学園に来たくなくなるのも無理はないわ」
「……ごめん」
それに軽くかぶりを振り、笹垣さんはボクを見つめてきた。
「本番は――明日はどうするつもりなの? 言っておくけど、私たちは代役なんて立ててないわよ」
「え――?」
戸惑って川北先輩の方を見ると、先輩は大げさに肩を竦めてみせた。
「みんな、あなたを待ってるのよ。確かに、あんなことがあってみんな動揺してたけど……でも、古森さんが言ったの。近衛さんは必ず来る。自分はそう信じてる。だから、絶対に劇を成功させよう――って」
「柚乃ちゃんが……」
じん、と胸の奥が熱くなる。
だけど、同時に嫌な予感も大きくなってしまう。
「私は、近衛さんに出て来いだなんて言えない。あの脅迫はあなたに向けられたものだっていうし……」
何も言えない。
柚乃ちゃんの気持ちは素直に嬉しい。でも、だからこそ、柚乃ちゃんたちを危険な目になんて遭わせられない。
黙っていると、ぽんと肩に手を乗せられた。
「まあ、決めるのは珠希ちゃんだよ。俺はもちろん、劇に出て欲しいと思ってるけどね」
視線を移すと、川北先輩が片目を瞑りながら言ってきた。
「またあんたは調子のいいことを……」
それに呆れたように笹垣さんが腕を組む。
「本当のことだろ? それに、決めるのはアレを見てからでも遅くないと思うぜ。あの子、どうせ今日もやってるんだろ?」
「あの子……?」
呟いて笹垣さんの方を見ると、笹垣さんは「そう……そうね」と漏らしながら、やがてボクを見つめ返してきた。
「近衛さん、これから家庭科室に行ってみて。どうするかは……それを見た上で、あなたが自分の意思で決めて」
言って、笹垣さんは踵を返す。
「それと、明人。あんたはさっさと仕事に戻りなさいよね」
そうして、最後に川北先輩に向けて言い放ち、体育館に消えていった。
「ごめんな、珠希ちゃん。あいつ、あんな言い方してるけど、本当は珠希ちゃんに出て欲しいと思ってるんだぜ?」
「え?」
「ああいう尖った言い方しかできないんだよ、あいつ。なんでかなぁ……ほんと。でも、わかってやって欲しいんだ。あいつ、今日は練習の後、全然休みもしないで準備してるんだぜ」
まあ俺もそれに付き合わされてるんだけど、と呆れたような笑顔を浮かべながら、先輩は溜息を吐いた。
「そういえば、珍しく鈴波さんと一緒じゃなかったですね」
「ん? ああ、未紗ちゃんなら実行委員の会議があるとかで、一度教室に戻ったよ。まあ、二人ともいつでも一緒ってわけじゃないだろうしね」
そこで、ふとずっと浮かんでいた疑問を口にした。
「あの、先輩と笹垣さんって……もしかして」
すると、川北先輩は一瞬きょとんとした顔を浮かべた後、困ったような顔で笑いながら片手を振った。
「ああ、違う違う。彼氏とか彼女とか、そんなんじゃないよ。あいつとは昔から家が近所で……まあ、いわゆる幼馴染ってやつ」
言いながら、川北先輩はもういない笹垣さんの後ろ姿を追うように、体育館の出入口へと視線を向ける。
その目は、どこか寂しげで、どこか温かくて、何かを見る目によく似ていた。
だけど、それが何に似ているのかまでは、どうしても思い出せなかった。




