5-1
翌日の空は、昨日と打って変わって目が痛くなるような青が広がっていた。
劇の開演時間は午後二時――それより少し早めに家を出たボクは、学園への道をゆっくりと歩きながら、今までのことを頭の中で整理していた。
昨日、学園から家に帰ると、柑奈が心配そうな顔で出迎えてくれた。どうも、帰ったらボクがいなかったから、慌てて警察に電話しようとしていたところだったらしい。
「もう……心配性だなぁ、柑奈は」
そう言うと、柑奈は「だって……」と目蓋に涙を溜めながら、ボクの顔を見上げてきた。
それを見たボクは、柑奈のさらさらとした栗色の髪を撫でながら、ごめんと謝った。
「おねえちゃん……学園が嫌なら、ずっと家にいてもいいんだよ? 柑奈が、ずっと一緒にいてあげるから。だから、あのね――」
――もう、黙ってどこかに行こうとしないで。
最後まで言うことなく、柑奈は口を噤んだけど、たぶんそう言おうとしたんだろう。
だから、ボクは自分より頭一つ分小さい柑奈を抱きしめながら、もう一度謝った。
思えば、ボクは誰かに甘えてばかりだ。
家では柑奈に甘え、学園では円ちゃんや宮帆ちゃん、それに二葉先輩に甘え。
気付けば、柚乃ちゃんにまで。
自分がいなくなればいい? 築きあげたものが壊されるのが怖い? そんなの、あまりにも自分勝手な理由だ。ボクは、何があっても堂々としていなければならなかったんだ。だけど、ボクは逃げた。少し考えれば、どういうことになるかくらいわかっていたはずなのに。
そして、柚乃ちゃんはあんな目に遭った。
実行したのは犯人だとしても、そうさせてしまったのは、他でもないボク自身だ。ボクの弱い心が、結果として柚乃ちゃんを傷付けてしまった。
あの後、ボクは一週間ぶりに携帯の電源を入れた。すると、未読メールが三十件以上も届いていた。いくつかは円ちゃんや宮帆ちゃんからのメールだったけど、ほとんどは柚乃ちゃんからのメールだった。
そこには自分が被害に遭っていることなど全く書かれておらず、大半がボクを心配する文面か、その日の授業や練習のことなんかが綴られていた。
そして、昨日の夜に届いたメールには『あたし、待ってるからね』という一言だけが、書かれていた。
迷うことなど、何もなかった。
学園に着き、『結往祭』と描かれた大きなアーチを潜り、その足で体育館へと向かう。今は午後一時半――本番までは三十分あるが、おそらくみんな舞台袖に集まっているだろう。
「おはよう」
カーテンを潜り、舞台袖に入ると、一気に視線がボクに集まる。
そこには、出演者全員が着替え終わって揃っていた。
「た、ま……」
「みんな、遅くなって……本当に遅くなって、ごめん」
「珠ちゃん――っ」
謝ると同時に、柚乃ちゃんがボクに飛びついてくる。
その瞳からは、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
「珠ちゃん、珠ちゃん、珠ちゃん――!」
息苦しいほどに抱きしめてくる柚乃ちゃんに、穏やかに告げる。
「柚乃ちゃん……本当に色々と、ごめん。それと、ありがとう」
言葉に乗せられないほどの気持ちを込め、ボクは柚乃ちゃんの頭を撫でた。
柚乃ちゃんは嗚咽を堪えながら、必死に頭を振る。その様子は、まるでまだ帰りたくないと駄々をこねる子供のようで、自然と笑みがこぼれた。
「ったく、あんまり心配かけるなっての」
「た~ま~ちゃ~ん」
腕を組みながら苦笑する円ちゃんと、その場で鼻水を垂らしながら泣いている宮帆ちゃん。ボクはこんなにも素晴らしい友達に囲まれていたのに、何を恐れていたんだろう。そう思った途端、湯に浸かったように、胸の奥から熱がこぼれてきた。
「でも、近衛さん……本当に、大丈夫なの?」
安堵と不安がない交ぜになった表情で、ティボルトの衣装に身を包んだ笹垣さんが近付いてくる。
「……うん。大丈夫、どんなことになっても後悔はしないよ」
そう言うと、笹垣さんはやっと安心したように頬を緩めた。
「よかったです……本当に」
笹垣さんの背後では、鈴波さんが祈るように腕を組みながら、微笑んでいた。
それからは、とにかく慌ただしかった。
ボクはすぐさま、笹垣さんと鈴波さんが作り直してくれた衣装に袖を通し、舞台用にいつもとは違う本格的なメイクをしてもらい、劇の一通りの流れを確認した後、出演者全員で円陣を組んだ。
今は、私情を一切挟まない。
すべては劇が終わってから――そう自分に言い聞かせて、ボクは舞台へと踏み出した。
舞台はロザラインに恋して落ち込むロミオが、仮面舞踏会に忍び込むところから始まる。そして、バルコニーで愛を語り合ったロミオとジュリエットは、その翌日に修道士ロレンスの元で二人だけの結婚式を挙げる。
だが同日の街で、ロミオは今し方血縁関係になったティボルトと友人のマキューシオが争っている現場を目撃し、止めに入るのだ。
「さっさとその剣を抜け。でないとこの剣がおまえの耳をつまんで微塵切りにするぞ!」
「いいだろう、相手になってやる!」
「やめろ、ティボルト! なあ、マキューシオ!」
みんなの演技は、真に迫るものだった。
観客席はしんと静まり返り、誰かが唾を飲み込む音さえも聞こえてきそうなほどだった。
「ああ、ロミオ、ロミオ! マキューシオは死んだ! あの男っぷりのいい魂は今や雲の上だ。はやばやと、この世に見切りをつけたのだ!」
ベンヴォーリオ扮する宮帆ちゃんが、駆け寄ってくる。いつもの間延びした口調はどこかに消え、凛とした声がステージ上に響きわたった。
「さあ、ティボルト! さっきおまえから受け取った悪党という言葉を返してやる! 俺たちのすぐ上にいるマキューシオの魂の道連れになるのは、おまえか、俺か、それとも二人ともか!」
「小僧が、あの世までも一緒に行くんだな!」
「それはこの剣が決めてくれる!」
そうして、ティボルトを殺したロミオは、ヴェローナ追放を命じられる。
それはジュリエットの耳にも届き、もう二度とロミオと会えないことを嘆き悲しむ。
「ティボルトが死に、ロミオは追放――。その言葉がもたらす死には、終わりがない、果てがない、際限がない、切りがない! そんな悲しみは言葉では表せない!」
だが、ジュリエットがロミオと結婚したことなど露知らないキャピュレットは、ジュリエットが従兄弟のティボルトの死を悲しんでいると思い込み、元気づけようと伯爵であるパリスとの結婚話を持ちかけてくる。
なんとかそれを逃れようとするジュリエットは、ロレンスの元に走る。
「おおジュリエット、もしパリス伯爵と結婚するくらいなら、自害しようという意志の強さがあるのなら、死から逃れるために死に迫るのだ。その覚悟があるなら、救いの道を教えよう」
「ああ、パリスと結婚しろというのでなければ、お命じください! 高い塔の上からでも飛び降りてみせます!」
何事もなく、劇は終わりに向かって進んでいく。
まるで、脅迫状なんてなかったように。
だけど、ボクだけはわかっていた。あれが脅しなんかじゃなく、本気の警告だということを。
「ロミオ、ロミオ、ロミオ! ここに薬が! あなたに乾杯!」
やがて、ジュリエットは自室でロレンスから貰い受けた仮死の毒を飲み干す。ロレンスはロミオに駆け落ちの策を教えるために遣いを走らせるが、それは不運が重なり失敗し、ロミオは従者からジュリエットの訃報を聞かされるのだった。
「ああ、ジュリエット、今夜は一緒に寝よう。だが、どうやって……。そうだ、薬屋だ。――確か、このあたりに住んでいた。ここでは毒薬を売れば即刻死刑だが、あの貧しい男ならば、きっと俺に毒を売ってくれよう」
悲しみに暮れたロミオは毒薬を手にし、ジュリエットと共に死ぬために、ジュリエットが埋葬されている墓地へとやってくる。
そこで墓地に花を持ってきたパリスに見つかり、ジュリエットが死んだのはロミオのせいだと考えていたパリスと戦うことになる。
そして、いきなり戦いを仕掛けられたロミオは、相手がパリスだとも知らずに殺してしまう。ジュリエットのそばに横たえてくれというパリス。その願いを聞き届けたロミオは、死してなお美しいジュリエットを見て、こう言うのだ。
「ああ、愛しいジュリエット、なぜまだそんなに美しい? まるで、姿なき死神が恋におち、やせこけた恐ろしい怪物の姿になって、この暗闇に君を囲っているかのようだ!」
――学園祭の劇を中止しろ。さもなくば、舞台に姿なき死神が舞い降りるだろう。
あの脅迫状の言葉が、脳裏を過ぎる。
もう劇も終盤。この後は、ロミオが毒を飲んで死に、仮死から目覚めたジュリエットがそれを見て短剣で自刃する。舞台上の芝居はそこまでで、後は全てのことを知ったモンタギュー家とキャピュレット家が和解する――というナレーションが流れて、舞台は幕を閉じる。
つまり、仕掛けるとしたら、間違いなくこの場面だろう。
そして、ボクの手には毒の入った薬瓶がある。
もちろん、毒を飲むのは芝居だ。薬瓶の中は単なる水のはずだ。ライトで透き通る液体は、無色透明で何かが混ざっているような様子もない。
だけど、間違いない。
おそらく、これは本物の毒だ。
「……っ」
にわかに観客席がざわつき始める。
ボクが止まったことで、怪訝に思っているのだろう。
「珠ちゃん……?」
それに、薄目を開けて柚乃ちゃんまでもが小声で問いかけてくる。
正直にいえば、ボクだって怖い。これがどういうものなのかは知らないけど、飲めば間違いなく無事では済まないだろう。
それでも。
ボクは決めた。もう逃げないと。立ち向かうと。
どんな結果になっても、恐れはしないと。
――それが、人としての成長というもんじゃろう?
そうですよね――二葉先輩。
「ジュリエット、君を死神になんて渡さない。俺はいつまでも君と一緒にいよう! 目よ、見納めだ。腕よ、最後の抱擁だ。そして唇よ、すべてを買い占める死神と交わした無期限の契約書に調印するのだ!」
薬瓶を頭上に掲げ、観客席を振り返る。
その最前列に、見覚えのある色素の薄い髪が、ライトに反射したような気がした。
「わが恋人に乾杯!」
そして、ボクは薬瓶の蓋を開け、中の水を一息に飲み干した。
「おお、嘘はつかなかったな、薬屋! おまえの薬はよく効くぞ!」
最後の台詞をいい終え、倒れる。
その直後だった。
胃を激しい痛みが襲い、口元からよだれが垂れてくる。頭がずきずきと痛み始め、やがては金槌で何度も叩かれているような感覚に襲われる。嘔吐感がこみ上げるが、まだ舞台は続いている。
「これは何? 愛しい人の手に握られた盃は? 毒ね、これで永遠の別れを告げたのね。ああ、意地悪。全部飲み干して、あとを追う私に一滴も残してくださらなかったの?」
横ではちょうど柚乃ちゃんが起き上がり、短剣で胸を刺す場面だった。
「物音が。急がないと。ああ、うれしい短剣! この体をおまえの鞘にして! ここで錆びて。私を死なせて!」
(――、っ……あ――)
身体が冷えていく。脳を直接かき回されているように、視界がぐるぐると回る。それは次第に霞んでいき、目の前が真っ暗になる。
冷たいつめたい暗いくらいしぬきえるきもちわるいまわるきえるいたいくらいさむいこわいこわいこわいいたいこわいこわいこわいこ いこわいこわいこわ こわいこわいこわいくらいこ いこ こ い わいこ いこわ わい い――――。
そして、短剣を胸に突き刺した柚乃ちゃんが倒れると同時。
ぶづん、と。
ボクの五感は、冷たい闇に閉ざされた。




