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巡礼の終わり

〈一部のトン族集団では、宙を飛ぶ魂を捕まえる方法、己の魂を一(検閲により不認可)その方法には不明な点も多いが、薬物に頼らない、かなり理知的な営みだったらしい。

――タニク・ポッ『トン族拾遺論』


 話半分に聞いてもらいたいが、無線技術によって、あの世との交信も可能になるかもしれない。

――エスタリオ伯爵〉


 タララの谷は、気候こそ何万年の昔とは変わっていなかったが、人々の心は、今まで立ち込めていた腐ったスモッグが一挙に吹き飛んだようで、それでもトン族の住民は相も変わらず粛々と与えられている仕事をこなすのだった。一方で、大勢の犠牲者を出したバフォメットたちは、軍人に警護されながら、谷間を一望できる丘の上で、細々と合同葬儀を進めていた。参列者には額や腕に切り傷、火傷を負っているものもいた。その葬式は今までのこの種族の成金ぶりとは想像できないような、簡素なもので、一切合財の音楽や棺に添えられる花すらもない。死者が出るたびに彼らはわざわざ、例の隠し運河を使って都から聖職者を呼んでいたというが、こんな事態になった以上、それも叶わない。

『イ』は、バフォメットとトン族との今までの禍根を水に流すべく、一族の代表として例の「派手な服」を着て、葬儀に参列していた。――トン族には喪服を着るという習慣が、そもそもなかった――しかし、彼女はあまり信用されていない。名目上は彼女の身辺警護ということで、両脇を魔族の兵士たちに固められているが、本当のところは……というところだ。

 埋葬が終わるとバフォメットたちは淀んだ眼のまま、自宅に帰っていく。彼らは『イ』の前を通っても、視線を合わせようとしない。敵意を示すわけでもなく、そのまま崖に突き出した階段を降りて行く。心の支えの多くを失った今、彼らは卑屈なまでの恭順に、新たな希望を見出しているらしかった。

 しかしその列の中、憔悴し切った女性が、『イ』の目の前でふと立ち止まった。角の生えていない子供を一人抱え、その後ろを二人の子供が追っている。そして彼女は手紙でしか容姿を知らされていないペンフレンドと待ち合わせをしているかのように、『イ』の様子をしげしげと観察するのだった。

「いかがされましたか?」『イ』は平滑なホードガレイアで訊ねる。

「人を探しているのです。……『タニク・イ』という方。トン族の長で――」

「それは私です、お母さん」『イ』は自分の胸に手を当てた。「長というのは、少々大袈裟ですけどね」

『イ』がそう言って笑ってみせると、女性は少し驚いてみせた。

「そんなお若いかたが……」

「アハハ、ですから長ではないんです。誰がその任を負うかはこれから決めるので――

 ……私の話はそれぐらいにしましょう。何か御用ですか?」

 女性はしばらく、『イ』をぼんやり観察していたが――多分トン族が笑っているところを、初めて見たのだろう――我に返って、彼女にこう言い、泣きついた。

「私はあなたのお友達――ヒト族とアルプの方でしたけど――から、『あなたを頼れ』と言われました。どうか助けてください! 私は夫も父も兄弟も殺され、残った家族はもうこの子だけなんです。鉱山の権利も何もかも、差しあげますから!」

 女性は沈痛な面持ちですがる。『イ』は子供たちの視線に合わせるために、それほど高くない背をかがめた。

「お母さん、落ち着いて。今は鉱山の採掘権などは、一時的に政府のものになっているんです。いわば女王陛下の所有物なのであって、私には決定権がありません。

 しかしあなたの、そしてお子さんの身の安全でしたら、微力ながら全力で保障します。家族がいなくなった時ほど、寂しく辛いものはないですからね。私も両親を亡くしている身ですから、お気持ち、痛いほどわかります」

 しかし途方に暮れている中でも、父の人脈のおかげで、彼女は路頭に迷わずに済み、教育の機会も得られた。――今度は私が、この人たちを救う番だ。そう思いつつ、女の子を引き寄せ、抱き上げた。エッセよりも小さい女の子だが、体重は同じくらいだった。

 この子もエッセと同じように、すぐさま『イ』に懐いてくれた。子供が心を許せば、親もその選択に従う。母親はやっと、『イ』に自分の運命を託す決意を下すことができたようだ。

「……あの、実は、私の嫁いだ家はこの谷を代々治めていた由緒ある家なのですが、資産や運河と同じく、ずっと秘匿し続けていたものがあるんです。その存在を知らされている者は、私を含めて指折り数える人物しかいません」

「なんですか?」

『イ』は興味がないように応えた。――現にただの財宝の類なら、このまま興味がなかったことだろう。

「なんでも、この街が出来た時に、移住させられたトンから没収したものらしいです。古い紙や陶器が、山積みだそうで……」それを聞いた途端、鼓動が強まる。しかし表面上は穏やかな雰囲気を維持していたので、『イ』の動揺は抱っこしている女の子にも分からなかった。

「そんなものが、本当に遺されていたんですか?」

「ええ、いくつかのものは没収するなりすぐに焼いてしまったそうなのですけど、それから不幸なことが頻発して、これ以上悪いことが起きないよう、ずっと岩窟の中に閉まっていたのです。だけど、それの扱いを決められる者が、もう居なくて……」

「その封印が解かれたことは、今までにありましたか? 学者にも見せていない?」

「さあ、それはちょっとわかりません。嫁ぐ前にどうしたかとか、何が置かれてあるのかとかは、教えられていないのです」

『イ』は、保存状態にあまり期待しなかった。タララの街が開かれたのは、八十年も昔になる。そんな長い時間、全くの手入れがされていない古文書。この谷の過酷な環境だ。地下水も多く、湿気がひどい。きっとボロボロになっていることだろう。魂は不滅だが、記憶と記録は、あっと言う間に朽ちてゆく。紙片さえ遺されていれば、それだけでも先祖のルーツの芳香を嗅ぐことが出来る。ここに棲むトン族たちに誇りを蘇らせるきっかけにもなる。それだけで十分だと考えていた。

「折角ですから見てみますか。私、古文書には多少の心得があります。こんな折ですから、放っておけば、盗難や散逸の恐れがありますし、あなたのお宅の財産として、きちんと勘定に入れたほうがいざという時のためになりますでしょう」

 まるで甘い声で傷心の女性に近付く詐欺師みたい――と、我に帰ってみると嫌なものだった。『イ』は親切心ではなく、純粋な己の欲望として、その秘密を暴きたかったのだ。もっとも、ネコババするつもりは毛頭なかったが。一方の女性は、これからの生活上の重荷がまた一つ無くなったとばかりに、胸をなでおろした。彼女も思考を『イ』に預けることにしたようだ。善は急げと、早速その資料が保存されている岩窟へと案内してくれるという。

 例の兵士二人は、それにもぴたりとついて来た。本当に『イ』のことを信頼しているのか――まあ、彼女も少々、脅しめいたことをしたし、自分の邪な感情を自覚していたので、それで構わなかった。

 屋敷の中は、凄惨な殺戮の舞台になったというのに、底抜けに活況があった。タララに派遣された師団の上官が、大勢ここに詰めているのだ。フシーオが破壊した電信も修理され、ジャンミュリョンにおわす宰相ヌガンとも、逐一連絡が取られている。しかし彼らは発破用の火薬樽に触るかのように、『イ』のことを無視した。『イ』の方も、彼らと積極的に交流する気になれないでいた。折角彼らのトップとのホットラインが出来ているのに、喧嘩の種をつくることはお互いにとって得策ではない。

 さて案内されたのは、運河に続く例の通路とは別の、隠し扉だった。そこはなんと、この一家のための礼拝室の、かつてダルダション湖のほとりに庵を構えた聖人のイコンの真裏に隠匿されていたのだった。兵士の一人が舌うち混じりに

「随分と畏れ多いことをしていたんだな」と小さくなじった。

「多分、聖ラスケスのご加護の元、悪しき物を封じようとしたんでしょう。よほどのものが隠されているってことです」『イ』がこの哀れなバフォメット一族の弁護をし、続けてこう言った。

「この先にあるモノは、ラスケス様のお力にすがる他はないような、恐ろしいものです。……あなたたち、見たいですか?」

 兵士二人は即答しない。夫人も折角ここまで案内したものの、ここまで来て、ようやく尻込みしたらしい。

「怖いですね。――ここはどうです? 私一人が中のものを検分すると云うのは? 私が死んでも、あなた方に損はないでしょう?」

『イ』は不敵に笑う。それを見て兵士の内の一人が一歩後退するが、もう一人は

「あんたを始終監視することが宰相殿下、そして女王陛下から仕った任務だからな」と、引かなかった。結局その兵士一人だけが『イ』とともに封印を解くこととなった。

「それはご苦労なことですね」ちょっぴりの皮肉に、兵士は軽く眉をひそめた。

「……あんたは怖くないのか? あんたのご先祖様が仕掛けた呪いが、この中にはぎっしり詰まってるんだぞ?」

 一方の『イ』は、その挑発を一笑に伏した。トン族の思想には、誰かを呪い殺すという概念がない。この家族を襲った不幸なんて、きっと慣れないこの街の暮らしのせいで健康を害したという、ひどくありふれた理由のせいだろう。

 イコンは窓のように開くことができ、その結果聖人の顔が真っ二つになった。そこには石をただ積み重ね、上から漆喰で覆っただけのもろい壁があり、『イ』がそれを押すと、バランスを崩して容易く崩れ、一人がなんとかくぐれるだけの隙間ができた。冷気とカビの匂いが、悪霊の腕のように頬をなでる。兵士はその瘴気に、早くもひるんでいた。

 兵士は礼拝室にあった燭台に火を点け、穴倉の中に持っていこうとするが、

「照明はやめてください。熱で書物が劣化するかも」

「でもそれじゃあ、何が起こるかわからんぞ」

 おかしなことを言う――と思った。

「私は夜目が効くので、平気です。怖いのでしたらそこで待っていて下さいます? 人の体温も、あんまりいいものじゃないですし」

 兵士は手で口を覆い、何も答えなかった。しずしずとあとずさりをする。『イ』はそれを一瞥し、仕事に取り掛かる。

 内部は左右に、岩盤をくりぬいて作った本棚が三段ずつこしらえてあり、それぞれには絵が書かれた粘土板や陶器の欠片が几帳面に積み重ねられていた。そこに描かれていたのは、いずれもトンの老若男女の姿だった。――これはいわば、位牌なのだ。元々ホードガレイに位牌を作ると云う習慣はない。しかしこの谷に強制移住させられた人々は、もはや先祖の魂を求めて旅をすることが叶わないと悟り、このような形で先祖崇拝をなんとか維持しようとしたのだろう。

 材質のおかげで形がのこった。陶器はともかく、粘土板は丁寧に扱わないと――。眼を細めながら一段一段の内容を精査していく。……と、そんな中、粗い麻布でできた巻き物が七束、棚の隅でひっそりと積み重なっているのを発見した。素材は今『イ』がまとっている服と同じものだ。これだけは位牌ではない。学校の図書室や古本屋でとんでもない掘り出し物を発見したような気になる。どうにも興味が押さえられず、一束を慎重に取ってみると、湿気を吸ってずしりと重い。しかし幸いにも、朽ちてしまうほど強度を失っていないようだ。

「なにかあったか?」

「金銀財宝とかはないですよ? 中にあるのは死者の魂を宿す符ばかりです」なんとか位牌に記された人々の子孫を探し出せればいいのだけれど。

「それはなんだ?」兵士は『イ』の懐のぼろ布の束を指差す。

「さあ、何かの宗教画だと思いますけど、中身を見てみないと何かはわかりません」

 それ以上、彼は興味を持つことはなかった。一方、かの母親の視線は真剣そのものだ。この中身の値打ちに応じて、遺された自分たちの今後が掛かっているといっても、大袈裟ではない。

『イ』はテーブルの上にかの巻きものを置いてみた。ゆっくりと広げて行く。メリメリという嫌な音がするが、『イ』は(あれっ)と思った。折り目の癖がなんだかおかしい。かつて一度だけ、開封されたかのような感触……。

 まず表れたのは、椅子に腰かける聖人ラスケスだった。古い宗教画らしいが、なぜトン族の位牌所に、正教の聖人画が? ――古の聖職者は横を向き巻き物の先を右手で指し示している。その先にあるのは粗末な服をまとい、膝をつき、彼に手を合わせる二人の夫婦だった。褐色の肌をして、瞳は顔の半分を占めるぐらいに大きい。髪の長い妻の方は、夫の背丈の半分しかない。その横には象形文字がずらずらと書かれていたが、それは『イ』の知識をもってしても全く読めなかった。

『イ』は魂が震えるような気分だった。心が本当に高揚するほど、トン族は石のように動かなくなる。自分を影で守ってくれていた人たちが、ひょんな出来事を経て、目の前に現れてくれたような……。

「あの、どうかされましたか? すごい値打ちのものですか?」

 夫人が恐る恐る絵を覗き込んだおかげで、彼女はようやっと我に返った。

「……これだけでは価値を決められません。ですが少なくとも、私たちには大切なものです」

 未亡人は一瞬、恐怖した様子で身を引いた。その勘はある意味、当たっているかもしれない。

「――もっとも、これの真価は専門家がきちんと眼を通さないとわからないものですけどね。少なくとも私は、拝見できて、本当に光栄です」

「はあ……」

『イ』は調子に乗って、巻き物をどんどん倉から取り出していった。まるで盗掘をしているようだったが、悪い気分じゃなかった。この古文書に書かれている内容自体は、一見しただけで危険極まりないものだとわかる。ホードガレイの正教と、トン族の民俗伝承が、この書物のおかげでコヨリのように一つとなるのだから。一歩間違われれば、フロギストン炉の中に、自分と共に放り込まれる。――まあこれからこの聖典がどういう運命をたどるのかは『イ』個人の立ち回りと努力にかかっているのだが、今は自分の網膜に、偉大な先祖の物語をしっかりと焼き付けておきたい。

 二巻目、三巻目……、読む順番はバラバラだが、『イ』の怜悧な思考の中で、物語やその中で語られる道理が整理整頓されていく。

 そして全七巻に目を通したところで、彼女は、大事な一手が思い浮かんだ。この瞬間ほど父から授けられた素養に感謝にたことはなかった。

「おい、どこに行くんだあ!」傍観を決め込んでいた兵卒は、廊下へ飛び出した『イ』を、必死に呼びとめる。

「ちょっと電信室に行きます。そこの書物と、奥さんたちを守っていてください!」

「ええっ?」

「それから機関車でも掘削機でも、動かせる機械の類を待機させておいてください。……火薬なんかもあるといいとおもいます」

「オイ! さては内乱でも起こすつもりか?」

「まさか、国を守るためですよ!」

 そう言い残した後、彼女は一思案して一度宮殿の外に出た。表には『イ』になついたかの少年が、魔族の兵士の追い払いにもめげずに彼女を待ち続けていた。

「ニャッ!」

「うん、いい所にいた。あのね……あれ?」『イ』は頼みごとをする前に、少年の視線が自分と合わないことに気付いた。彼はバフォメットの女の子が走って来るのを見つめていたのだ。あの未亡人の娘子の一人、一番大きな子だった。

「――うん、それじゃあ、二人に頼もうかな。この谷の地下――坑道とか、水脈とかに詳しい人を集めて来て頂戴。バフォメット、トン族、誰でもいいから!」

『イ』は自分の同一性を支える二つの言語を駆使し、協力を求めた。少年と少女は、しばらくお互いに見つめ合っていた。


「裁定者は目覚められた!」

「新たな伝説がうまれた!」取り巻きは口々に歓喜の声を挙げる。

「……目覚められたのですね、小公女が……」女王ユアナは煙の立つ焼けた顔で呻く。玉座の横の侍従が慌てて近寄る。

「いまこそ〈双子〉で都を灰に帰してあげるときだと……塔に連絡するのです……。灰の中からは、美しい花が咲くでしょう……」ユアナの手が、点をあおいだ。「ああ――、見たい……全てがやり直される瞬間を……見えない……」彼女は両目から血と、なにかドロッとした体液を流していた。ヤシュタットの素人診立てでも、眼がやられて、もう光が戻らないのは明らかだった。――それよりもまず、命が危ない。

 侍従の一人が女王を抱き起こし、もう一人が玉座の後ろへ消える。――王座の間の奥にはダルダション城と主要官庁と電信で繋がるホットラインがあった。侍従はそれに大急ぎで打電したのだ。

 事態が破局に向かう直前、ティーティーは思い切り息を吸った。酩酊状態の大衆は、このスパイの挙動を気にしてなどいない。彼女は肺いっぱいにためた空気を、ひし形にすぼめた口から、ヒューッっと吐き出した。

「……駄目です! 〈双子〉とは繋がりません。応答がありません!」

「ゴタク! 彼が宰相側に寝返ったに違いありませんわ! 元から小公女様を狙って――」侍従たちは叫ぶが、攻勢は疾風のごとく迅速だった。今まで外の庭に転回していた伏兵――アルプ兵だけでなく、国家保安省の部隊も含まれる――が、吹き抜け二階の大窓をぶち破って突撃してきた!

「あっ!」

「見ちゃ駄目だ!」

 その直後、侍従たちは頭を撃ち抜かれた。ヤシュタットがエッセの視界を庇い、視覚を奪われた女王を守る。――突撃した部隊は王座の間を蹂躙していき、取り巻きたちは大した抵抗も見せず、次々と仕留められていった。

 死んだ侍従は、電信の送受信機の隣にある別の装置を起動させていた。それに呼応して、王宮両翼にある中庭の井戸から、ウウゥン……と、腹の虫のような音がする。やがて膨大な量の真水が井戸から消え、本来の出口ではないところを目指して流れ出した……。


「君はどうやら機械の類が大好きとみえるね。〈双子〉を見れると、目が輝いていたよ。――その分、落胆した表情が、実に映えていたが」ゴタクは首筋からダラダラと血を流しながら、あざ笑う。

「伊達に工房の娘やってないよ――」ビンディーは啖呵を切る。しかしそんな小娘の大見栄ごときは霞んでしまうほど、ゴタクの眼には凄みがあった。このまま首をはねとばされても、その両目の禍々しい光は消えないだろう。

 大尉はお喋りをやめない。

「なるほど、工房の娘か。――しかし、新たな機械を造り続けて、何になる? 医療が発達して本来死ぬべきはずの命が永らえて、どうしろというのだ? 今の世は均衡が崩れている。光と生、そして〈発展〉――、死が不足している、〈堕落〉が不足している!

 ましてやこの兵器はなんだ? 人々の命を守るための超兵器? まったくの屁理屈だ! 人間は戦わなくてはならぬ! お互いに肉薄し、傷つけあい、血を流し合い、抱き合いながら底を目指さなくてはならない。私はそれを望んで、軍に入隊したというのに、軍艦を吹き飛ばし深海に沈め、砲撃で持って古き良き城塞に無数の穴を穿ち、海原を硝煙と血糊で染め、それもやがて海流によってかき消される……」

 ビンディーは(とにかくコイツは狂人だ)と判断した。――御託を並べているが、ただ単に兵器の進歩に自分がついていけなくなったと吐露しているだけじゃないか。

「そ、それで? あんた一人の勝手な主義主張のために、大事な切り札を一度使っただけでお釈迦にしたっての? 大馬鹿じゃん!」

 ビンディーは心底そう思ったのだが、大尉は冷笑する。

「我々には〈双子〉など必要がない――。女王陛下は全ての臣民とともに〈堕落〉を歩もうとのお考えだが、私は賛同できない。――なぜ、自分の手を汚すことをためらう奴らと一緒に、冥土を供にしなければならない? もはや陛下にも、古巣にも与しない。私は自らの力で、〈堕落〉へと旅立つ! 高みで国土が、正しく腐っていく様を、見物させてもらおう!」

「だったら勝手にそうしてろ。おれたちはこんなところで時間を喰っているわけにはいかな――」

 アルプ兵が大尉を捨てようとしたときだった。彼の血糊がこびりついた刃物が、バン! と発火した。

「う、あちっ!」

 アルプ兵はのけぞるが、それだけではなかった。ゴタク大尉は顔にある、ありとあらゆる穴からフロギストンの炎を吹き出し、一気に火だるまとなった。

「ああああ、ああああああぁぁぁぁッ!」

 大尉とアルプ兵は火柱の中でドロドロと、それこそ抱き合うように癒着していく。恐ろしい熱量だ。遠巻きに見ていたビンディーにも、その熱さが刺さるようで、思わず羽根で顔を守る。るつぼの中でも、これほどまでの灼熱にはならないだろう。

 二人は周囲の鋼材をも氷のように融かしてゆき、のたうちまわる。そのまま足を踏み外し、鳥かごを焼き切って二人は落下していった。緑の炎は、テーブルやそこに置かれた書類に燃え移り、ろうそくのように鉄塔を融かしつづけていた。

 ビンディーは〈双子〉だったものをひとまたぎし、二人が転落した跡を見降ろした。――あの兵士の名前、聞きそびれてしまった。

 背筋がゾクゾクとした。振り向けば、水兵と女たちは各々手を握りしめて四~五人ずつの人間の鎖をつくり、ビンディーをぐるりと取り囲む。

「お、おう。――私も殺そうってのかい?」ビンディーは異様な恐怖心を押さえて威嚇する。彼らに抱きつかれたら、さきほどのように焼き殺される。バールを振って、適切な距離を保ちつつ、隙を見て大尉とアルプ兵が空け、転落していった大穴から飛び降りるつもりだった。

「そうね、あなたは死にます、結果的に――。あまり私たちの本意ではないけれど」そう言った途端、人間の柵は両腕から炎を吹きだした。ビンディーの目はくらむ。

「お、おおおおお……」熱に耐え忍ぶ声を狂信者たちは挙げる。その声は被虐趣味的な歓喜の声にも聞こえた。……やがて力尽きた彼らの口から、空気鉄砲のように、燃素の火の槍が、ヤシュタットめがけて放たれた! 彼らの命はそこで突き、もはや体内を融かして燃素を生み出す、ただの革袋と化していた……。


 王座の間には、死体を怪我人が馬蹄状に転がり、生き残った者はその口を一人ずつ猿ぐつわで塞がれていき、屠場に向かう家畜のように転がされた。まともな生を持っていたのはヤシュタット、エッセ、ティーティー、ヌガンの手の者たちだけ。――いや、もう一人、息も絶え絶えの女王ユアナも、辛うじて生きていた。彼女の顔は破裂した破片のせいで、かつての美しさをほとんど失っていた。

 兵士の一人が女王の暗殺を遂行しようと、彼女に被さるヤシュタットとエッセを除去しようとした。

「やめて、この人を殺さないで!」

 兵士は無表情の内に、ユアナのこめかみに銃口を当てる。エッセが先ほどと同じようにその銃を焼きつくそうとするが、ヤシュタットが咄嗟にその手を取って押さえる。

「――その方の言う通りです。陛下に銃口を向けるのはやめて。全て終わったのです」解放されたティーティーが立ちあがって言う。彼女の頬には、銃弾がかすった深い切り傷があった。青い肌とのコントラストが、ショッキングだ。

「もうここは制圧されました。全てが終わったのです――」

「そうか、終わったのか」ヤシュタットはハアとため息をついた。

「ティーティーさん」

「なんです?」

「エッセをしばらくの間、抱っこしててください」

 そういうとヤシュタットは、代わりにユアナ女王をおぶった。壮年の女性なのに、老婆かと思うほど目方が軽かった。

「この方はぼくが運びます。――本当ならエッセも自分で運んであげたいけれど」

「ううう――」ユアナは背中でうめく。「私のことは、放っておいて」

「あなたが死んだら、何もかもが堂々巡りしてしまう。――生きてください」

 そうヤシュタットが諭したとき、場の雰囲気が一瞬、静止した。

「ん……」ティーティーが扉の方に耳をそばだてる。アルプ兵たちも異変を感知して、草原地帯に住むネズミのように、耳と眉をそばだてた。

「どうしました?」

「――水が、ここまで流れてくる音がするんです。……何かしら。嫌な予感しかしません」彼女には祖父譲りの防衛本能と嗅覚が備わっているらしい。

「彼岸の――水……」女王はヤシュタットの背中でつぶやいた。

「彼岸? ――あっ!」ヤシュタットにも異変の正体が認められた。水がコンコンと建物の両側から流れてきた。――決して速い流れではない、里の小川程度の流量がこちらにむかってくる。その視界の前に、人影がふらりと立ち上がった。胸を射抜かれたはずの遺体だった。宮殿を湿らす沢の水より、その光景の方が衝撃的だった。

 更に息も絶え絶えのはずの男もスクッと立ち上がる。さらにもう一人、もう一人……。

「……これ、魔術ですか?」

「――わかりません。悪質な奇術かも……」

 水は全開の扉から侵入し、遺骸の一つの足元を濡らした。瞬間、震えながら立ち上がっていた屍たちが、瞬時に発火する!

「あ、あれは油なんだ!」ティーティーが驚きの声を挙げる。

「油?」

「比喩ですよ。説明しましたでしょう? 水はそれ自体が燃素の塊だと。あの水はつまり、この王宮を自沈させるためのものです!」

 水流は死骸の山にせき止められたが、遺骸は次々と発火していく。そしてあっと言う間に巨大な炎の壁にまで成長した! 火の波は背後の水を次々と分解していき、生ごみのような燃素のツンとした匂いにむせ返る。

「退避! 退避!」兵士たちは自分たちが突入した窓から出ようとする。――しかし炎に踊り狂う遺骸たちの口からアーチ状に火花が放たれ、彼らを的確に絡め取っていく。銃剣、弾薬、ボタン――それらが炸裂して、あっと言う間に消し炭となる。それと同時に銅でできた窓枠も発火する。生き物のように、金属を探して這いまわっているようだ。

 よく観察すると、火花のルートは無人の玉座を中心に発して、放物線を描いているらしい。なにかからくりがあるらしいが、ビンディーがいないので解明しようがない。

「どうしましょう、ぼくらも金属だらけですよ」

「とりあえず、背を低く保って、一個ずつ危ないものを捨てましょう。生き残れる時間を稼げるかもしれません」ボタン、指輪、眼鏡、ヤシュタットを目覚めさせてくれた鎖――とりあえず目につく物を投げ捨てて行く。それらは水に落ちると、ぶくぶくと燃素のあぶくを出し、あぶくはすぐさまランプのような炎になった。

 ティーティーはぐったりとする女王にも手を伸ばす――しかし、ヤシュタットは彼女を小さく威嚇し、彼女に変わって高価なイヤリングやらをもいで捨てていく。

「――待って!」

「なんです?」コシュ・カムは汗腺が少ないので、口をだらりと開けて体温を下げようとする。ヤシュタットも汗が止まらない。ティーティーは熱を帯びた腕をゆっくりと伸ばした。

「あ、何を……」ヤシュタットは張り付く喉で止めようとするが、ティーティーがちぎったのは女王の喉笛ではなく、小さな指輪だった。銀製で、先ほどの炎のせいで黒ずんでしまっている。一国の元首が身につける物にしては、いささか禁欲的だ。彼女の上半身はほとんど焼かれていたが、これをはめていた左手だけは、大理石のように美しいままだった。

 ……指輪には微かに、原始的な幾何学模様が彫られている。指輪のデザインそのものはまさしくモダンだったが、その文様だけは、野生的だった。

 ヤシュタットたちの頭上には炎の軌跡が分厚い束にまでなり、彼らが立ちあがる瞬間をコヨーテのように耽々と狙っていた。ティーティーは無理矢理着せられた衣服の端を遠慮なく破き、布切れを指輪の穴に通す。そしてそれを、

「エッセちゃん、あそこのドアに向かって、炎を撃って。さっきみたく、ね?」

「彼女にそんなことできません」

「いいからやってみて! この子ならできる。息を思い切り吸って――さあ」

 エッセはおっかなびっくり言われた通りにする。……すると確かに、彼女の右手から炎の矢が飛び出し、充満したフロギストンを巻き込みながら、彼方へと飛んでいく! そのまま遠くで、ガス球はボン! と重い地鳴りを上げた。炎の通り道には、一時的に燃素が尽き、火の壁が消えて路が出来ていた。

「走り抜けます。さあ!」ティーティーは女王を担いだヤシュタットが立つのを手伝う。――出来た道も、かつて人間だった物の残骸や、熱気に負けず染みだす水によってゆっくり塞がれていく。「息を止めて! 肺を焼かれます!」

 ティーティーの言う通り、熱い! 眼も乾き、まっすぐ走るだけがやっとだった。しかしなんとか王座の間から脱出する。

 廊下を走る水の量は増していた。エッセの放った炎の這った後が、陳列されていた花瓶や絵画を真っ黒く焦がしていた。

「ダルダション城の地下には防火用の大きな貯水槽があり、常時中身を満たされているのです。その水を引き込んだのでしょう。そもそもこの都市には、地下水路や、埋め立てられた水路や堀の名残が無数にある水都なのです。地面を少し叩けば、いくらでも水が吹きだします」

 なるほど、彼女の言う通り、壁の切れ目からコンコンと水があふれていた。

「あの部屋の部屋の中にも、おかしなカラクリがあったみたいですけれど――」ヤシュタットは息を整えながら訊く。

「あの部屋も、一種の高周波を発生させる機構になっていたようですね。鎮火したら精査する必要があります」

「それよりも、エッセの身体に何があったんですか? 二度もあんな芸当を――」そう言いかけたが、ゴオオッという音に心臓が止まりそうになる。チラッと後ろを見ると、緑の炎の壁が、肥大化し過ぎた身体を扉からズルリと出していた。まるで生き物みたいだった。

「――逃げましょう! 延焼の速度が思いのほか速い!」

 速いどころか、例の野火よりも火の廻りが段違いだ。まるで何か目的を持っていると思ってしまうほどに――。

「小公女……小公女……」

(えっ?)

 耳を疑った。一瞬、炎の壁がそう言ったような気がしたのだ。

「さあ、早く! まだ距離があるうちに!」ティーティーにそうせかされて、ようやく我に返る。

「小公女……〈あの方〉の娘……」後ろを向くことはないが、確かに炎のうなりはそう叫んでいる! なんなんだ、一体。――ユアナ女王を背負っているせいで、後ろを向けない。しかしティーティーに抱っこされたエッセの表情を見る限りとてつもないものに追われていることだけはわかる。――重い声はますます威勢を増す。

 エントランスにたどり着き、ようやく出口だ! という時なのに、ズオオッと外の空気が吸い込まれていく! 四人の身体も後ろに引きこまれるが、ヤシュタットとティーティーは片手で扉の枠にしがみつき、なんとかして外に這い出た。――宮殿の外では、ジャンムリオーン郊外から引き返してきた大勢の陸軍の主力部隊が集まっていた。彼らは突入を阻止しようとする、女王シンパの海軍と交戦していたが、勝敗は明らかで、今にも鉄の扉は開かれようとしていた

 その直後だった。またもボン! という爆発音が響き、宮殿正面にあるガラス戸が全て吹き飛ぶ。一同は危うく、破片の剣山にされるところだった。ヤシュタットたちはもっともっと走り、建物から十二分に離れた。……つもりだった。

「……小公女! 小公女!」その〈声〉はますます高らかになる。熱せられた空気は上に昇らず、ポンッ、ポンッ――と、火のカタマリを窓という窓からヤシュタット達にめがけて放出した。

 それは人間の頭がい骨を芯にして燃える火の玉だった。それはヤシュタットたちの前に転がり、「小公女をよこせ――」と呪詛を叫びながら、勢いを失って砕け散った。ぶわっと苦悶の表情に見える煙が昇り、跡には真っ黒い焦げ跡と白い灰だけが残る。

「な、なんですかこれ!」ヤシュタットは生理的嫌悪感でもだえた。

 さらにもう一度、より一層正確な軌道を描き、王宮から逃げ出した三人の贄を殺そうと頭蓋骨の群れが飛び出してきた! 原理は不明だが、邪な力が裏に居ることだけは明確だった。四人は辛くも直撃を免れるが、骨の一つはバンととびはね、ティーティー右ふくらはぎに噛みついたのである!

「ああっ!」ティーティーはあまり熱さに顔を歪めて、抱かれていたエッセごと、うつぶせに転倒する。火は彼女の足を毒のように蝕んでいく。ヤシュタットは頭蓋骨の後頭部を、女王を担いだまま思い切り蹴り飛ばした。すっ飛ばされた髑髏は「ガガガ」と、悲鳴とも冷笑とも判別しかねる音を出して砕けた。

「ティーティーさん!」彼女の足のやけどは、女王のものよりもずっとひどい。触れ様によっては、そのまま肉がもげてしまいそうだ。

「わたくしのことは放っておいて、早く逃げて!」

「で、でも――」

「私はあなたを利用しました。見捨てる条件としては十分です……」ティーティーは浅い呼吸をしていた。そう言われてもヤシュタットは彼女を見捨てる気にはなれなかった。背後では時々、跳弾の音がピウンと鳴る。

「エッセ、先に逃げて!」ヤシュタットは両手で女性二人分の身体をずるずる引きずる。二人は時たま痛みでうめくが、それは生の証だった。

「ジャスタ、手伝う!」エッセも女王の襟首をひきずる。――しかし彼女の勇気とは裏腹に、引きずる人間が三人に増えただけだった。

 ……ふと女王が、うめき声に混じって「プリッツ……」とうわ言をつぶやいた。(誰のことだろう)と疑問に思う暇もなく、また邪教の生んだ怨霊どもが執念深く、攻撃を仕掛けてきた! 攻撃の背後にあるのは、シタ・サーブでビンディーが見せた、玩具の蝶を操るカラクリだった。その髑髏の投擲は激しさを増し、その正確さまで増していた。確実にヤシュタットたちは喰われる!

 エッセは立ち止って片手を突き出した。――〈魔法〉で髑髏を撃墜するつもりなのだ。

「エッセ、とにかく逃げなきゃ!」エッセの歩みは、ヤシュタットはなんとなく、もう彼女にあんな奇跡を起こせないと感じていた。――どうせあれもペテンの一種だ。ただし、このままずるずると逃げているだけでも、待っているのは死だった。

〈助けて!〉ヤシュタットの内心に追いやられていた、受身で臆病な心が一瞬息を吹き返す。だがその直後、破裂音と共に、ヤシュタットの喉笛を今にも噛みきろうとしていた髑髏の一つが四散した。

「や、やたっ!」

「残念、落としたのはあたしだよ!」エッセは自分のお手柄だと思って歓喜するが、茶色い影がひらりと、宮殿とヤシュタットたちの前に降り立った。

「さっきは大恥かいちゃったけど、今度こそ真打ち登場!」

 ビンディーは啖呵を切ると、フシーオの持っていた燃素銃で工学と宗教の醜いアイノコをハエのように撃ち落としていく。

「ここはあたしが喰いとめるから、逃げて逃げて!」

「ありがとう、ビンディー!」ヤシュタットはティーティーと女王を引きずっていく。一方エッセは、突如として不思議な魔法が使えなくなったため、自分の手を怪訝に見つめていた。

 それと同時に海軍は制圧されて、宮殿の門は発破され、踏み倒された。飛び込んできた兵士たちがヤシュタットに代わって二人の怪我人を運んで行った。――ユアナの人相は火傷ですっかり変わってしまい、身元が割れるまでには、しばらく時間が稼げそうだった。……そして、髑髏の追撃も収まった。王宮は黒煙をもうもうと挙げ、最後の時を迎えようとしていた。

「今連れて行かれた人ってさ――」

「うん、内緒にしてて欲しいんだけど、女王陛下だよ」

「やっぱり! ってことはあたし、陛下のお命を救ったってことだね」ビンディーだってユアナはただのお飾り君主ということを知っているはずだが、それでも清々しげだ。

「誰かを殺したり、何かを壊したりするより、造ったり救ったりする方が、ずっと楽しいね」

「うん、ぼくもそう思う。そっちの方が、ずっといい――」ヤシュタットは足に力をこめられずにへたり込むエッセを抱き上げた。

 だがしかし、安堵感はそこでぷつりと途切れた。まだ終わってないぞ――と言わんばかりに、背を向けたばかりの王宮が吠える。見れば、あの頑丈な建物の銅葺きの屋根が、内部の圧力に耐えかねてパンパンにふくれ、とうとう熱に耐えきれず抜け落ちた! それと同時に火柱が、尋常ではない高さにまで立ち昇る。それは倒壊したばかりの、ダルダション城の二つの塔ですら上回るものだった。さらには内部の圧力を閉じ籠めていた壁も柱も、バタバタと崩れていく! 

 中から飛び出たのは、鱗の代わりに無数の羽根をまとった、緑色の龍だった。尻尾をダルダション城にまで伸ばし、湖水を吸っていく。――そして爆煙でできたその顎を、ヤシュタットたちにグググと向けたではないか。

「デンセツノカンセイヲ……オオイナルダラクノトキヲ……」龍は咆哮する。「――ヌガン、ユルスマジ! ムスメヨ、ココヘ!」

 ……滅ぼされた〈教団〉の人間たちの魂の集合体だった。世界を復活の時までさまよい続ける魂は、トン族のものだけではなかったのだ。彼らは現世の生を捨てた後、復讐の機会を十年間、待ち続けたのだった! チロチロと覗く火の龍の舌が、肥満した醜い男の顔になり、それを機に様々な男女の歪んだ顔を形作っていく。奴らはエッセの魂を最後の生け贄とし、ダルダシオーンを跡形もなく吹き飛ばす気だった。龍は思い切り深呼吸して、彼女をヤシュタット、そしてビンディーもろとも吸いこもうとする!

「わああ、ジャスタさん!」

「ジャスター! おねえちゃーん!」

 目方の軽いエッセ、そしてビンディーが真っ先に吸い込まれていき、ヤシュタットは必死に二人の腕を掴む! 風の中から大勢の人々の恐慌が伝わる。龍の身体はたっぷりの燃素を蓄えてパンパンにはち切れそうになっていた。このまま炸裂しようものなら――。

「もう駄目だ……わあっ!」

 ヤシュタットは力尽き、――勢い余って尻もちをついた。更にその上から、龍に飲み込まれる前に吐き出されたエッセとビンディーがのしかかる。思わずグエッという声が腹から出る。

 突如地面が鳴動し、あちらこちらから泥水が噴出する。それに続いてわずかに王宮の外壁が内側へ倒れ、周囲の建築物が次々と傾いでいく。街が沈む! と、その場に居合わせた真っ当な人間なら、全員そう思っただろう。……しかしこの天変地異でその生をあっけなく終えてしまったのは、王都ダルダシオーンごとヤシュタットたちを喰らい尽くそうとしていた龍だった。水が染み出てきた割れ目から、猛烈な勢いで水と、龍の身体を構成するガスが吸い込まれていく! 龍は爪を立てて大地にしがみつこうとするが、抵抗空しく、母親から引き離された幼児のように、弱々しく引き裂かれてゆく。 

 息が絶え絶えの龍の肉体からは、フロギストンの生臭い濃密なガスが抜けていき、とうとう足に絡みつくわずかな朽ち縄と化した。――フロギストンのスモッグは太陽光線に炙られて分解し、ガタガタに壊れた石畳を濡らしていく。身体がしぼむのに合わせて龍の羽根はぼろぼろと抜け落ち、それが中で焼かれた信者たちの遺灰で出来ているのだと知れた。それらは砕けて細かい煤となり、それが核となって、雨粒になった。乳白色の雨だ。かつて王宮が建っていた場所には、大豆の搾りかすのような瓦礫が、細い煙を吐き出しながら積まれている。

 王宮が消えたおかげで、今まで遮蔽されていたダルダション湖が一望できる――はずだった。だが、湖岸線も猛烈な勢いで後退していき、土砂の堆積した湖底が露わになっていく。まるで湖の栓がすっぽ抜けたかのような――。四人はザザザという潮流のざわめきしか聞こえなくなった大広場で立ち上がり、岸から逃げてゆく白波を、茫然と眺めていた。

 エッセはタッと駆けだして瓦礫の山の上を登ろうとするが、途中であっさりと足がもつれて転ぶ。

「あっ!」慌ててヤシュタットも彼女を追い、抱き上げる。彼女は膝小僧をすりむいたが涙を噛み殺し、下唇を噛みながら湖の方を指差すだけだ。

「――ほら、連れて行ってあげるよ」

 本当のところ、全身ずぶぬれになりつつあるヤシュタットは精神の方も疲労困憊で、両脚は今にも笑いだしそうだったが、それを隠しつつ、絢爛豪華な白亜の宮殿のなれの果て、セラミックの山を這いあがっていく。後ろからは焼けた片腕を押さえながらティーティーが二人を追う。

 引き潮の速度はようやく遅くなった。倒壊して湖水に落ちたばかりの鉄塔が、ヘドロに半分埋もれながら、再び空気――かつてこの地に聖人が庵を構えたときには、小さな沼があるだけだったのだろう。古代の情景が、わずかながらにも息を吹き返した、というわけだ。

 古代の沼の中央には、大きな渦が三つ、逆巻いていた。つむじ風もその中に吸い込まれるように流れる。その光景に見とれていると、渦の中から蛍の群れのような、光の粒子が火の粉のように噴出した。ヤシュタットは、すわ悪霊が蘇ったのかと思い足がすくむが、吹きだした光は温かく、それらが集合して象ったのは龍の姿ではなく、灯籠のように、あるいは木の根元でゆらめくヒカリダケのような、人の形だった。

「お、おねえちゃん!」

「えっ?」

 それはひょっとして、『イ』のことか? ヤシュタットは眼を必死にこらして、三体の人景の正体を明かそうとするが、どれも研磨された翡翠の彫刻のようで、目鼻も判然としない。全員胸元にまで髪を垂らしている……らしい。みな痩せており、男か、年寄りか、それとも若い娘なのか、観察する人によって、どうとでも取れる容姿だ。エッセがその内の一人を『イ』だと思いこんでもおかしくない。

 遅れてビンディーとティーティーが息を切らしながら、小山を上がる。二人もあっけに取られながら干上がった湖上を見つめていた。それから

「ラスケスさま……?」

 と、同時にこの街を守護する聖人の名を口にした。ホードガレイの信教には疎いヤシュタットには到底思いつかない発想だったが、なるほど、聖人君子の立像にも見えた。

 雨がひとしきり降り終わると、ダルダション盆地を覆っていた霞がすうっと晴れていった。光が戻る――と、それとは相対的に、宙に浮く立像は土色にくすみ、勢いの衰えた渦のすり鉢の中に、すとんという音もなく沈んでいった。

「お姉ちゃん……」エッセがポツリつぶやく瞬間に渦も消え、今度はしずしず、しずしずと、水がまた、窪地に満ちていく。自分たちが見たのはだれのの亡霊なのだろう? ダルダシオーンの守護聖人か、それとも――? エッセの勘が正しければ、タララの谷に残った彼女の身に、異常が起きたのではないか? 不安がささくれみたく、内心にちくり刺さる。

 しん――と一刻、王都はまた昼と夜が切り替わるような空気に包まれるが、それは兵卒たちの疋音とざわめきによって、すぐに吹き飛ばされた。彼らはスクラムを組みながら、かつて聖域だった丘をじりじりと登って来る。彼らは変貌したダルダシオン湖を見て歓喜とも恐怖とも受け取れる魔の抜けた奇声を挙げていたが、中にはなにか金目のものが埋もれてないか、銃剣で地面をつついている者までいた。

 そんな俗物の中から一人、ヤシュタットたちに歩み寄って来る魔族が一人。彼は一度ティーティーに敬礼すると、

「失礼、ジャスタ・プネスさんですね?」

「……?」まさか自分が声を掛けられるとは思わなかったが、疲れ切っていたので、返事をする気力がなかった。

 彼は、茶渋色の封筒を一通差し出した。

「こちらをお読みくださいませんか? 宰相殿下から、秘密電報です」そう言い終えると、男は腰を低くしながら、ティーティーの傷口を診ていた。衛生下士官らしく、ヤシュタットへの手紙は、あくまでもついでのようだ

 ヤシュタットは小指をペーパーナイフ代わりにして、ノリ付けされた部分を端からビリビリと破っていく。中には二枚の文章が折りたたまれていた。まずは一枚目――


 きみが私のペテンを見抜いたかどうかはともかく、これを読んでくれているということは、何らかの結果を残せたのだろう。まずは謝罪しよう。本当に申し訳ない。今後のことは追って報せたいと思う。オタジア大使館との交渉も進めている。

 それと君の友達から、この電報を渡すようにとも言われた。――彼女が何をするつもりなのかは知らないが、私の懐から、動かせる人と物を悉く絞り取られてしまった。どうやら面白いことを企んでいるようだね。


 そして二枚目――署名はなかったが、どこからどうみても『イ』の口調そのものだった。


 私の方で胸の躍るような出会いがあったので、とてもダルダションに行けるような状況ではありません。なのでせめてエッセ一人だけでも驚かせられたら幸いです。

 と、思わせぶりなことを書いたけど、あなたたちが王都で何を見たのか、実は私も知らない。それの正体をつかむにはどれぐらいの時間が必要かもわからない。ただ、なるべく早い時期あなたたちに会いに行くから待っていて。それと、見たモノを出来る限り、まぶたに焼き付けておいて。


 ヤシュタットは唇を押さえながら、この漠然とした内容の手紙を見つめていた。

「これ、持ってて――」しかし彼は内容を反芻するわけでもなく、手紙を封筒に戻し、ビンディーに押し付けた。

「なんて書いてるの?」エッセとビンディーが同時に訊く。

「悪い知らせじゃないさ――。しばらくダルダシオーンでゆっくりしてなさい、だとさ」そう言いながらヤシュタットは丘を降りて行く。

「あ、どちらに?」

 もう喋る気力は尽きた。ヤシュタットは眠くて眠くてしょうがなかった。この大層な服を脱いで、旅籠のぺたんこになったベッドで寝たい。

 ――はたと気付いた。この疲労感、巡礼で一日歩き通した感じと似ていた。ここは巡礼路の終着点なのだと、ようやく思い出した。


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