ニセモノの都
〈造花をかじりし毛虫は、美しき蝶に化ける前に死す。
――カプラス・ココット〉
初めての王都ダルダシオーンだというのに、盆地は濃霧に包まれて、都市の全容はまったく掴めなかった。霧から覗く街並みはみな白亜で、ガラスが再び曇ると、鉄の柵で囲まれた無機質な空間――強いて言うなら刑務所の運動場が似た雰囲気だった。コバトの方がよほどにぎわっており、本当にここがホードガレイの中心であり、自分たちが目指した聖地なのかと、首を傾げたくなる。
「それにしても、人っ子ひとりいませんね……」ヤシュタットは手の平で曇った窓を拭き、馬車の外を眺めて、向かい合わせに座るティーティーに尋ねる。隣に座るエッセも彼の真似っこをし、窓を覗き込む。彼らは四両の馬車の行列の、二番目の車に乗り込んでいた。一方、ビンディーはひとつ後ろの車両に乗り込んでいた。
「戒厳令の最中ですし、なにより本日は休息日ですから」
「しかしいくら何でも、この様子は――」まるで死んだ街だ。そう言いかけると、彼女はさらにぼそっと付けたした。
「……実のところ、今走っている地区には、ほとんど人が住んでいないのです。地価が高すぎるので、専ら各国の大使館が入居しています。巡礼の本来の目的地であるダルダション寺院の周囲は、もっとにぎやかなのですけどね。――ほら、ごらんなさい」
ティーティーが示したところを、ヤシュタットは貼り付いて見やる。そこには彼の祖国・オタジアの国旗が掛けられていた。なんだか懐かしい〈ホードガレイ連邦〉加盟国の印である二重の入れ子になった五芒星が、国の色である黄緑色の生地の上に描かれている。
「あの、もう覚悟の上で、念のために訊きますけど」
「なんですか?」
「外国人のぼくがこんな大事な役目を担って大丈夫なんですか? しくじって外交問題になったりとかはしませんか?」
「フフフ、その時にはホードガレイが滅んでいます。外交問題どころではありませんよ」彼女は不敵に微笑んだ。
「――巡礼を終わらせるって、どういうことですか?」馬車に揺られる二時間前、ヤシュタットは宰相ヌガンに尋ねた。
「ティーティー、あれを読みなさい」
彼の孫娘が胸ポケットから取り出したのは、電信用の記録を打つ紙テープだった。一巻きにされたそれをピーッと引き伸ばすと、打電された内容を読む。
「〈双子〉はダルダション城に設置されました。それを起動して、ダルダションを水泡に帰す前に、猶予を差しあげます。――薔薇の代わりに勇者を、それから、かの方の血を下さい。
お喜びになって。おじいさまの愛するニセモノの国は、私の手で真実の国になるのですよ」
「差出人はだれか、わかるね」
「『かの方の血』というのはエッセのことですね。……だけどぼくは勇者ではありません。ただの留学生で、巡礼に出た理由も、たんなる物見遊山です」
「ユアナにとってはどうでもいいことなのだ。『この方の血』さえ本物なら……。要するに、君は勇者オータを演じる役者に過ぎないということだ。私にとってもね。
それに、自分のことを勇者だと思い込んでいる人間を送り込むわけにはいかない。作戦が台無しだからな」
「作戦? 送り込む?」怒涛のように話が進む。「ぼくは一体、これから何をするのですか?」
老人は壁に掛けられた振り子時計を一瞥した。
「私には時間がない。もう事態が収束した時に備えての処理に入らなければならないからな。だから説明の続きはまた、ティーティーに任せたいが、大まかなことだけ伝えておこう。
女王ユアナは都ダルダションと、そこに住まう五十万の臣民とともに心中するつもりなのだ。私が国家統一の前に築き上げた偽史も一緒に。それだけは避けなければならない。
だからプネス君、君には贋物の勇者として彼女に近付き、隙を見て取り押さえてもらいたい」
「だけどそんな畏れ多いことですし、そもそもぼく、そんなことをする度胸も技量もありません」
「君はあくまでも交渉の窓口であり、役者なんだよ。いざという時に備えて私の手駒も配置する」
「本当にエッセまで連れていかなければならないんですか? これ以上この子を危ない目には遭わせられません」
「冷たいことをいうようだけどね――」ヌガンは一度しわぶいて、こう応えた。「私は君とこの子の命を、天秤に掛けている。片方の皿には君ら二人の命、もう片方にはダルダション五十万人――いや、ホードガレイ国民四千万人の命。沈黙王のころよりも人口は五倍に増えている。私に迫られている判断は、それほどまでに重いのだよ」
老人は諭すように語った。声は穏やかだが、その眼つきは『イ』の黒曜石の瞳よりも、ずっと寒々しかった。打算の目だ。
――しかし一転、ヌガンは慇懃な態度となった。
「お願いだ。私はもはや保身をするつもりなどないが、この国が再び戦火に包まれぬよう、どうか君の力を貸してほしい。同じ国民が殺し合うことの悲劇は、君にもわかるだろう?」そう言い終えると、この偉大な老人は立ちあがり、深々と頭を下げた。ヤシュタットはあせって反射的に立ちあがり、同じく頭を下げる。
ヤシュタットとエッセは、部屋を辞した。お次に通されたのは、馬車がずらりと格納された部屋で、すでに馬も御者も待機している。彼らは銃撃を回避するため胸・肘・頭に合金でできた甲冑をはめ、人種も性別もわからない。車内にも大勢の誰かがぎゅうぎゅう詰めになっているようだ。――そしてそこにはビンディーとスタンソも待っていた。
「二人とも、無事だったか!」
「はい、一応。偉く緊張しましたけど」
「こっちの人はだれなの?」ビンディーはティーティーを見上げる。クォーターで女性とはいえ、ティーティーの背丈は大きく、比較の対象が多いこの部屋ではそれが引き立つ。
「あー、えと、この人は――」
「はい、わたくし宰相閣下の秘書を務めておりますティーティーと申します。以後お見知りおきを」
「ハァー、お若いのに『秘書』ですか」スタンソは感心して見せるが、それよりも深い縁についてはわからなかったようだった。
「そんなことよりもさ、二人も何か任務を播かされたの?」
「うん、コルドランの先生は違うけど、あたしは〈双子〉を解体してくれだって――」
「それって、すんごく危ないじゃないか! ……いや、〈双子〉がどういうものかは、よく知らないんだけどさ」
「うん、ダルダションに駆け付けられる人間の中で、〈双子〉の中身が理解できるの、あたしだけなんだって」
「私も彼女と同席して話を聞いたが、いや、恐ろしい兵器だな。――そして、女王陛下が、まさかな」
「スタンソさんも聞いたのですか?」
「ああ、守秘義務に関する書類にサインもしたよ。――口外したら私だけでなく、福血会も危ないな」
ここでティーティーが「知識は共有しなければなりませんから」と、頼んでもいないのに〈双子〉の説明を始めた。
「本来〈双子〉はダルダションと、もう一カ所、軍用地に設置して、この惑星の半球内のどの地点でも焦土に出来る究極兵器です。しかし一基だけでは座標を定めることが困難になり、また出力も足りないので周辺十五里を焼くことしか叶いません。それだけではせいぜい大砲ぐらいのことしかできません。ダルダション城には動力装置などが既に準備されていたのですが、技術的な問題からもう一基の設置のめどが立たず、その心臓部はシタ・サーブの大学で眠っていたのです。女王陛下即位四十周年の式典では一基だけの公開を行い、もう一基が完成していないということは機密にするつもりでした。
しかしシタ・サーブの騒乱で、その心臓および周辺技術は奪われました。恐らく〈双子〉は既に稼働できる状態にあるでしょう」
「でも、本当にその機械で、都市を丸々焼き尽くすことなんてできるんですか?」
「〈双子〉の機構そのものが性能を決めるのではありません。あくまでも起爆装置なのです。ダルダションに設置された〈双子〉は地下に専用の発電機があり、そこから潤沢な電力を獲得することができます。――そして特筆すべきは立地です。市に清潔な水を供給するダルダション湖。これが市民を殺すのです。水というのは言ってみれば、フロギストンの結晶です。そもそも〈双子〉計画は、海上を航行する敵国の戦艦を撃沈するために考案されました。船舶を海水から精製したフロギストンで蒸し焼きにするのです。フロギストンは空気より重い気体ですので、盆地にあるダルダションをまるごとフロギストンの底に沈めることが出来ます。都市そのものが不安定な火薬庫となるのです。……ガスが満ちるよりも先に、市民は全員窒息死しますが。
さあ、もう時間が押しています。出発しましょう。打ち合わせは移動中に終えてしまいましょう」ティーティーは馬車のドアをがちゃりと開けた。「あ、コルドラン氏はもう退避した方が良いですね。あそこのドアが開くと、ここまで朝日が当たりますよ」
「ああ、そうかね。――では」
「あ、スタンソさん、出かける前に、ひとついいですか?」
彼は少し面食らった様子で、振り返った。
「時間は取りません、すぐに済みますから」ヤシュタットはもう馬車に乗り込んだティーティーに言う。
「なにかな?」
「ぼく、宰相閣下から直接、エッセが何者なのか伺いました」彼はエッセの背中に手を当て、自分の横に並べる。
「その、あまりこの子は出生のせいで不自由な生活を強いられて、ぼくと一緒に、危険なダルダションに行くことになったのです」
「ああ、聞いたよ。嫌なことに、私がした最初の診たては、ほぼ当たってしまった」さすがに記憶をおぼろげにする薬まで与えられていたのは予想できなかった。彼女の者憶えの良さは、その副作用で『憶える』ことへの執着がこみ上げてきているせいではなかろうか。
「それで、君の話はなんだね?」
「はい、これは宰相閣下にもお話ししたことなんですけれど、本当にぼくが、大勢の人たちの命運を左右するような役目を背負ってもいいのかなって……」
「しかしヌガン宰相直々のご指名だろう。だったら従うしかない」
「それはわかってます。……だけどぼくは自分が、大勢の人たちの命を背負うには、まったく相応しくない奴だと、心から思うんです」
「それは謙遜のしすぎか、そうでないなら心の病気だ」
「先生、急かさないでください。ぼくはこの国の人間でもないし、特別な目的意識で行動したこともありませんそもそもホードガレイに留学したのだって、父の意向を、漠然と呑んだだけなんです」彼は少し、声の調子を落とした。「ここに来られてよかったとかどうとか、そんなことですら未だにわかっていません。あんまりこんな話をしたくないんですがけど、ぼくは今までの人生の中で、苦労も苦悩もしたことがないし、激情にかられたこともありません。
……スタンソ先生、客観的に応えてくださいませんか? ぼくみたいな、苦労知らずの人間が、世の中のためになることを、はたして出来るんでしょうか? ぼくは自分が、信じられません」
治療の施しようのない彼の泣き言に、スタンソは一瞬渋い顔をしたが、すかさずそれを隠した。善良な若者が突如として一国の――しかもそこは、彼の故郷ではない――の命運を任されてしまったのだ。くじけてしまうのは、まともな感性を持っているのならいたしかたのないことだった。
「――どうやら君も、フシーオのように、英雄譚に凝り過ぎているようだな」
「え?」
「神話に登場する英雄・豪傑たちは大体、生まれが貧しかったり、家族を失ったりと、艱難辛苦を積んでいるものだ。――それに、君の旅の仲間たちは全員、家族を欠いていたからな、みんなの話を聞いているうちに、妙な引け目を感じだしたんじゃないのかね?」
「はあ、……ひょっとしたら、そうかもしれません」
「もっとも、私の両親はどちらも健在だが。――いや、私のことは置いておこう。とにかくだ、君は自分の出自を卑下しすぎている。今、この国が欲しているのは英雄なんかではなくて、大事な人のために何かを成し遂げようと誓える、本物の人間なんだ。――ヤシュタット、君が王都に赴くことで、ニセモノの国体、ニセモノの宗教、ニセモノの英雄に彩られたホードガレイに〈ホンモノ〉の息吹が吹き込まれるんだ。――君の任務がどういう類のものになるかは知らんが、どうか自然な気持ちでいてくれよ。君がどんなヘタレでも、エッセの安全さえ守ってくれれば、私なら合格点をあげるだろうな」
スタンソは生白い肌を少しだけ赤らめて笑った。
「コルドランさん、もうお済みですか?」
「ああ、失礼、――だいぶ時間を喰ってしまった」スタンソは襟を正す。「それじゃあくどいようだが、君は勇者にならなくてもいい。ただ、エッセをよろしく頼む」
ヤシュタットはうなずいた。
「はい。――ぼくに何が出来るかはわかりませんが、それだけは絶対に守ります」
「もう時間が押してます。急いで!」
「それじゃあ私は退場だ」
「はい、またお逢いしましょう」ヤシュタットはエッセと一緒に馬車に乗り込もうとした。
「おっとうかつだった! 私も君にするべきことがあったのだよ」
「え?」
「これだ。これを渡さなくては。――この工場に転がっていたものの拾ったのだが、象徴になるのならどれでも同じことだ」スタンソが差し出したのは赤錆びた、短い鎖だった。端っこがちぎれて、ほつれている。
「いいかねヤシュタット、〈盲従〉だけは絶対にするな。自分の頭で考えて、最適な行動を取れ」
ヤシュタットは手渡された鎖を握りしめた。
「はい、絶対に、ただの役者にはなりません。番狂わせでもなんでもやってみますよ」
自分の口でもこんなキザなセリフが出ることに多少驚いた。これだけでも主体性をうしなっているようで、心の中で強く己を諌めた。
ダルダシオーンはその周囲を一〇〇〇米規模の山地でぐるりと取り囲まれており、巡礼者や物流従事者はいちいち六〇〇米級の峠を越えねばならない。――これは統一国家の堂々たる都として相応しくないと、宰相ヌガンがこの都市を再興するため真っ先に着手した事業が運河の整備と、続いて鉄道路線の敷設だった。およそ一・五里にもなる長大なトンネルを通し、人と物の流れをスムーズにしたのである。これらの交通の整備によって、峠の道はもっぱら、巡礼路としてのみ機能するようになった。
ヤシュタットたちも、その古道を馬車でぽこぽこと進んでいた。牽引する馬は坂道に馴れており、どんな高低差にもひるむことなく快調に歩を進めてゆく。山道だからどんなひどい道なのかと思ったが、かつてこの峠を越えた幾多の人々によって、路面はつるつるに磨かれていた。なので、たまに小石を踏んで馬車が飛び跳ねる以外は、至極快適な陸路の旅だった。
道の途中では、固い表情をした軍人――近隣都市の陸軍師団や近衛兵団から派遣された者たち――が、ライフル片手にたった一人で道を守っている光景に何度も遭遇した。
「彼らはみな、迷っているのです」ティーティーが説明した。
「どういうことですか?」
「自分がしている任務ははたして誰のためになっているのか――などです。宰相閣下のためなのか、それとも女王陛下のためなのか。そして自分の友は、一体どちらの派閥なのか、彼は邪教に与しているのではないか? そもそも、この騒擾の裏で、どんな力が働いているのかわかっていない者がほとんどです。そういう兵士たちは心を殺して、元から与えられた『反乱の拡大を阻止せよ』という任務だけを粛々と遂行しているのです」
「ははあ……」成る程、明日の我が身のことすらわからないから、目の前にある仕事を不乱に片付けて行くことにしか希望を見出せないというわけだった。
「さて、プネスさんにはこれをお持ちになって下さい」ティーティーは背もたれの上に置いてあったモノを取り出す。
「これは……小刀?」それは彼女の肌色を水に溶いて薄めたような、翡翠色の鞘に納められていた。「ぼぼぼ、暴力沙汰だけはごめんですよ、ぼく!」
「これはただの刀ではありません。……ひとまず見ていてください」ティーティーは鞘から引き抜くと、鈍く光る刀身が表れた。彼女は刃先を上に向け、峰を指でつまんだ。――その切っ先は柄の中にするすると収まった。
「これはつまり、お芝居用の刃物ですよ。これで相手を刺そうとしても、こんな風に引っ込んでしまいます。切っ先は本物ですから、取り扱いに気を付けて欲しいのですが」
鞘の中には緩いバネが仕込んであり、彼女の手の中で刃物は伸び縮みをした。ティーティーはそれを再び鞘に収め、改めてヤシュタットにそれを手渡す。
「……ぼくにこのオモチャでどうしろと?」
「プネスさんはオータ伝説にはお詳しいですよね? オータは沈黙王を、どうやって殺しましたか?」
「えーと確か、単身突撃して、王の胸を――」ここでヤシュタットはハッと気付く。「つまりこの短刀で女王陛下を暗殺するように見せかけて、そのまま取り押さえてくれ、と……」
「さすが、よくご存じですね。もちろんあなた一人だけに責務を押し付けるわけではありません。閣下直属のアルプ兵も突入させます」彼女は口を開けた。エッセが怖がり悲鳴を挙げる。彼女の歯はスタンソら吸血族以上に鋭利で、全てが糸切り歯のようだった。そのうち一本だけが、人工的に削り取られている。
「この歯だけ笛になっているのです。――これから出る音はアルプにしか聞こえません。」
「ははあ」
「あなたはあくまでも役者です。それをお忘れなく」
「はい、出しゃばった真似はしませんよ。――何もかもが終わったらまた、ただの学士に戻ります」
だけどフシーオがいなくなって、本当に前と同じような気持ちで勉学に励めるのだろうか。
「――そうだ、あの、ぼくは良いとして、エッセはこれから、どうなるのですか?」エッセはヤシュタットにとん――と、だらしなくもたれかかっていた。「ほんとうにあなた方は、この子の命を保障してくれるんですか? 今更失礼ですけれど、ずっと監禁していたのに、おいそれと信じるわけには――」
「あなたはこの子を守ると誓ったのですよね? なので、エッセちゃんの命はあなたの行動に託されているのでしょう? ――それ以上わたくしが申せることは、何一つありません」逃げ場のない密室でのこの言葉は、ひどく精神に堪えるものだった。
馬車は峠の下り坂を、そりのように滑って、ついにダルダシオーン市街に入った。この白亜の王都は、落とし蓋のような霧ですっぽりと隠されていた。
「タララもこんな天気でしたけど、ダルダシオーンもこういう気象なのですか?」
「……たしかにダルダションも霧が多い土地です。昼夜の寒暖差は激しく、ダルダション湖のおかげで湿潤ですから。しかしここまで陽が高くなるとすぐ消えてしまいます。何らかの恣意的な力が働いているのかもしれません」
「それはなんですか?」ヤシュタットは問うが、ティーティーは
「それはマヤカシの力です。見るのも語るのもはばかられるものです」としか答えてくれなかった。その語気を聞いていると、彼女の偉大な祖父の影がちらつく。
一向は大使館街を抜けて、劇場や美術館、商社の支店や新聞社が並ぶダウンタウンに入った。ここで馬車の群れは一度停止する。
ティーティーは薄い顎で外の風景を示す。霧の向こうから、派手な飾りのついた鉄兜をかぶった三人の衛兵――王室警察所属なので本来は〈巡査〉なのだが、便宜上こう呼ばれている――が、騎馬にまたがり、時代錯誤な長槍を天に向かって構えている。どうやら案内……というより、全員を連行するために派遣されてきたらしい。ヤシュタットに外を確認させると、ティーティーは備え付けられた赤紫色のカーテンを閉めた。そして息を殺す。
エッセだけは密室の中キョロキョロしていたが、その内この圧迫感に耐えきれなくなり、ヤシュタットの着た、薄羅紗の衣装をぎゅっとつかんだ。彼女の手の形に、しわが寄る。
窓の外に、衛兵の気配がふっと宿る。彼らも中に満ちた気配の種類を精査しているらしい。悪寒が走る……。
気配は過ぎた。カタカタカタと、足音が遠ざかる。
「彼らが私たちに危害を加える心配はありません。大丈夫――」ティーティーが言った。……その刹那、ブゥーンブゥーンと、中耳を圧迫する、重いこだまが天地から響き、ダン!と、巨人がスタンプしたような衝撃が襲う。馬のいななき、鞭を振るう音、でんでんばらばらな動き、ヤシュタットたちの乗る馬車も一度、突如走り出したかと思ったらすぐさま停止した。カーテンの隙間から、浅い緑色の光が差し込む。それはチロチロと、蛇の下のように車内を舐めまわす。その光は熱かった。
三人は光に追われるように、反対側のドアから出る。ヤシュタットは、エッセをしっかと抱きしめた。
外は竜巻に襲われたようになっていた。原型をとどめていたのはヤシュタットたちが乗っていた馬車だけで、他の馬車はみな横転して、バチバチと緑の火花を立てていた。御者も衛兵も馬もみんな焼け焦げて、転がっている。霧の隙間に、遠雷のように不規則な点滅がある。「――〈双子〉!」ティーティーがささやいた。
「それよりビンディーは?」ヤシュタットは彼女の乗っていたはずの馬車を探すが、ティーティーに肩を掴まれ止められた。身体を動かす度に、毛と肉の焼ける臭いがつんとくる。
「そんな、ぼくに彼女を見捨てさせるの?」ティーティーはヤシュタットの抗議をそこまで聞いたところで、口の前に指を立てた。……片目をわずかに閉じて、何かしらを伝えようとしているらしい。
彼女の視線はヤシュタットから、スーッと遠くを泳ぐ。――そこには先ほどの衛兵が頭を焼きとられて転がっていた。ヤシュタットはまだエッセを抱っこし続けていたが、もうこれ以上彼女に死を見せたくなかった。ヤシュタットですら、もう食傷気味だ。むずがる彼女の目を、無理に塞ぐ。
衛兵の遺体の後ろに、一人の女性が立っている。濃いさくら色の服を着た、魔族の女性。その衣装は、女王陛下の身の回りの世話をする女官の正装だった。彼女ははこの叫喚の中でも一切の動揺を見せずに直立していた。肩に届くか届かないぐらいの髪をしている。
「ようこそいらっしゃいました。人払いとして手荒な手段に出たことをお許しください、勇者様。……さて、どちらが〈あの方〉のご息女なのでしたかしら?」女性は場違いにとぼけてみせた。
ティーティーは懐に手を忍ばせている。
「ご冗談はおよしなさい。わたくし、ヌガンの秘書の――」
「あらあら、そうでしたわ! 堕落の道に血でもって抗う、あの〈おじいさま〉の血筋の方でしたわね! これはまた大変なご無礼をいたしましたわ!」女性はティーティーの気持ちを逆なでした
「お約束通り、勇者と生き残りの女の子を連れてまいりました。……その歓迎がこれですか」
「それはご足労、まことにありがとうございます。――では」彼女はだれかに合図をするかのように、ふっと手を挙げた。
「ま、待って! この人を殺したら、ぼくも一緒に死ぬ!」ヤシュタットは反射的に叫んだ。
「……わかりました。その方にはこれから一つの歴史が終わり、新たな世界が到来する様の生き証人となってもらいましょう。――徒歩になりますが、どうぞこちらに……」
ヤシュタットとティーティーは視線を合わせた。そしてお互い口を結んで、女官の後ろを追う。ビンディーは無事だろうか。後ろ髪をひかれる思いだった。
ダルダシオーン王宮は見事な左右対称となっており、夕日を乱反射して白く輝く化粧石が実に映える。――元々は公国時代の議会が置かれていたのだが、ヌガンが国土を統一した後、増改築されて現在の姿になった。王宮の真正面には、記念日に国王が国民の前にまみえるための広場とバルコニーが設置されていた。……内戦時代には、ここで政治犯の火刑が行われていたともいわれている。
入口の門から宮殿内達するまでにもかなりの距離がある。衛兵は今まで通り、広場内をゆっくりと巡回していたが、女官とヤシュタットたちの姿を認めると、慌てて敬礼をするのだった。女官はその前を勝ち誇ったように過ぎ、一方のティーティーは、肩から羞恥心をにじませて足早に過ぎる。ヤシュタットはエッセを無理矢理引っ張って、何とか彼女に付いて行く。
宮殿内に入り、いよいよ女王陛下と逢う。そんな重要な段階になったにもかかわらず、ヤシュタットとエッセはまったく身体検査を受けず、あからさまに腰からぶら下がる翡翠の短刀を見ても、一切おとがめなしだった。
対照的に、ティーティーの検査は入念だった。懐に隠し持っていた短銃から、カフスといった、凶器になりうる金属製のものは何もかも外させられた。その上ヤシュタットが見る真ん前で、女官たちと同じ衣服に着替えさせられたのである。――コシュ・カムは男女問わず、他の種族以上に、人前で赤裸にされることを嫌う。女官は〈神聖な服にしなければ〉と言っていたが、ただ単にティーティーを丸裸にして屈辱を与えたいだけなのは明らかだった。さらにティーティーはひもで腕を後ろ手に縛られ、ヤシュタットたちの後ろをとぼとぼと歩かされるのである。それでも彼女の堪忍袋の緒は堅い。
ヤシュタットたちは絨毯の敷かれた、宮殿の軸である中央拱廊を歩いて行く。エッセは初めのうちこそ物珍しげに周囲を見回し、架かっている珍しい絵や彫刻を巾着袋に入れる術はないかと考えていたが、立像にまぎれて自分のことをニタニタ笑う人間が等間隔に配列されていることに気付き、気持ち悪がって興味を失う。彼ら彼女らは軍や公職の制服を着ているものもいたが、どこの馬の骨かわからない人間もちらほらと混ざっていた。中にはエッセをみるなり感極まって泣き出す者まで居る始末で、しかも彼らは、ヤシュタットたちが通り過ぎた後、その後ろをぞろぞろと付いてくる! 彼らは家具の隙間にたまったほこりのように、その集団の規模を膨らましていき、ヤシュタットとエッセが大理石の螺旋階段を昇り、ナパンド杉でできた扉の前に達した時には、百人以上の大キャラバンになっていた。――彼らもこの芝居の役者というわけか。勇者オータットの正体を知らないかつてのホードガレイの民衆は、長年の鬱憤を晴らさんと、王座の間になだれこんだ。
女官は相変わらずティーティーを拘束しながら、ヤシュタットに(自分でその扉を開けろ)と無言で指図した。どこまでも勇者オータットを踏襲しろ、というわけだ。ヤシュタットは一度、その背後に集う連中の顔ぶれを見た。……紺色の服を着た男が多い。デザインは陸軍のものと瓜二つだ。
のたうちまわる龍の姿をあしらったノブを掴み、背中から邪な期待の込められた視線を浴びつつ、重い扉を全身で引いた。この仕事は中々の重労働だった。
王座の間からはとろけるような、甘い匂いが染み出てくる。後ろにいる人々が、ドヨドヨドヨ……と、虫の大群が押し寄せるようにざわめく。
王座の間は、お化け鯨を一頭まるごと飼育できそうな広さを誇っていた。――王宮を鳥瞰した場合、両翼から湖の方に向かって伸びる鳥の胴にあたるのが、この大広間だった。クリスタルをあしらったシャンデリアが古き良き固形燃料の赤い炎を宿して輝き、天井や壁にはホードガレイの創世諸話をモチーフにしたフレスコ画が描かれ、柱と床は最高級の光幹――珪化木の中でもとりわけ固く、真珠のように輝くもの――で惜しげもなく飾られている。その遠近感が狂いそうな大伽藍を、廊下から伸びた絨毯が長い影のように玉座に向かって伸びている。
ヤシュタットの視線はもちろん、琥珀色の玉座におわす女性に釘付けになった。彼女は生娘の服か、あるいは死に装束のような真っ白なドレスを着て、豊かな緑髪を固い背もたれに垂らし、翼と細い素足をだらりと投げ出していた。その羽根は、エッセのものとは比べようもない。彼女のそばでは、丸腰の侍従が左右に控えていた。
ヤシュタットは女王にこれ以上近付くことをはばかり、広間の入口近くで二の足を踏んだ。それはユアナが貴人だからというだけではなく、彼女から清潔な病院にハエが一匹紛れ込んだときのような、嫌悪を伴う違和感が感じられたからである。この場合、清めと穢れが逆転しているような気がするが。
「どうしたのですか、勇者さま? ――そんなところにいらっしゃっては、私に一太刀浴びせることなど、到底かないませんよ?」天井には音響学上の工夫が施されているのか、ユアナ女王の蚊の鳴くような声はヤシュタットの位置にまで到達した。それでもヤシュタットは前に進むのをためらう。
しかし観客兼エキストラたちがそれを許さなかった。廊下に満ち満ちた群衆はにじりと一歩踏み寄る。彼らは闘技場で、剣闘士に殺戮を求める観衆のように殺気立っていた。……ヤシュタットは片足をすっと上げて、重心をそれに預ける。さらにもう一歩、一歩……。別に自分の命が惜しいからではない。ティーティーの、そしてエッセの命を守るため、彼らの要求に屈したのだ。そしてとうとう、女王の全てを観察できる位置にまで肉薄してしまった。
「こんにちは、あなたが私の民草を扇動したのですね? ……男の王様でなくて、ごめんなさいね」女王ユアナは生気のない笑みを浮かべて言った。その肌の色は、廻りの珪化木やドレスと混ざり合って、輪郭がぼけてしまう。長い期間幽閉されていたエッセですら旅の途中で日焼けして小麦色になったというのに、この白さはなんだろう。どんな食生活をすればここまで漂白されるのだろうか。
「――お、お会いできて光栄です。……ぼく、いえ、私はヤシュタット・プネスと申します」エッセを守りながら、ヤシュタットは形式通りの挨拶をする。ユアナはそれがひどく不満なようだった。フムッとため息をつき、頬杖をした。翼が扇のように展開して、彼女の口を隠す。
「それは私が求めていた返事ではありませんよ、羽根飾りの勇者様」
「ぼくは羽根飾りの勇者なんかではありません」ヤシュタットは声を震わせながらも、毅然と応えた。「陛下を殺す理由もなにもありません。――どうか、これ以上のご乱心はやめてください」
部屋の中が再びどよめく。
「あなたが本物の勇者ではないのなら、私だって本物の王ではありません。〈おじいさま〉の気まぐれで祭り上げられた、詐欺師の娘です。――ひょっとしたらこの場所で、本物なのはそちらにおわす、小公女だけなのではないかしら?」そう言って女王はエッセを指し示す。群衆は一転歓喜の声を上げ、エッセは居心地悪そうにヤシュタットにしがみつく。
「――ああ、〈かの方〉の血を引くあなたさえいて下されば、文句など不要ですね。むしろ興ざめです。この王座に座るべきは、あなた様なのですよ」女王はすっと立ち上がり、ぎこちない動きでエッセに近寄る。「時代は変わりました。四〇〇年前にホードガレイが混沌の極みに達してしまったのは、導きの手を欠いていたからです。ですから贋物である私の存在によって、ホードガレイはニセモノの繁栄を謳歌した。しかしこの国のひずみはもはや限界に達しました。――さあ、かの方の娘、このマヤカシの王都と、私の命とを引き換えに、この国を裁定してくださいませ」女王はうすら笑いを浮かべている。「さあ勇者、私の胸を一突きしてください。ともに大地に黒焦げた骸を残しましょう!」
「この人も、みんなも、こわいよ――」エッセはヤシュタットにしか聞こえない声でささやき、ヤシュタットの後ろに隠れた。
「あ、あなたはどっちみちダルダションを滅ぼす気なのですか!?」
「私と都は贄なのです――。この運命を受け入れる覚悟はできています。……あなたもその、腰に下げた小刀を受け取った以上、それ相応の覚悟が出来ているのでしょう?」
「この子まで巻き添えなんですか?」ヤシュタットはエッセを庇いつつ後退する。ここに連れて来たことを、後悔した。……ユアナも同じく距離を詰める。
「この娘は裁定者、たとえ肉体が滅んでも、その魂は二千と四三年の旅の末、堕落の果て甦ったホードガレイに降臨します。痛くない、痛くない……」
「エッセは裁定者なんかじゃない!」ヤシュタットはたまりかねて、悲鳴のように叫ぶ。「それにぼくも勇者なんかじゃない。――この子をニセモノの宗教で縛るな! あんたたちの信仰は全部、まがい物だ、色んな神話をいいとこどりした、奇形の邪教だ! 『四〇二三年の旅』だって、元々はトン族の伝承から都合よく持ってきただけじゃないか。ぼくは知ってるんだ!」
女王ユアナの歩みがぴたりと止まる。彼女の取り巻きも、一気に静まり返った。
ヤシュタットは舌が止まらない。
「陛下、あなたは国を再生するとかなんとか言ったけど、本当は自分の人生に嫌気がさして、この国と一緒に心中したいだけなんだ。あなたは昔の自分とエッセを勝手に重ね合わせて、歪んだ同情心を抱いてるだけだ……。だけどぼくは、エッセをあなたみたいにはさせない。エッセは、日当たりのいい世界で生きるんだ。あなたの二の舞にはならない!」ヤシュタットはここまで言ったところで、主義主張こそ正反対ながら、まるでフシーオが憑依しているようだと気付き、動揺する。この場では、どんな正論でも爆弾へと化してしまうのだ。――冷や汗がつつつと流れる。
女王ユアナも色を失い、ヤシュタットたちの眼の前で棒立ちになった。魂が抜け出たようだった。
「あ、あの――……」気丈から一転、ヤシュタットは腫れものに触れるように、恐る恐る声を掛ける。
しかし彼の言葉を聞くこともなく、女王はいきなり、跳躍した! いや、正しくはヤシュタットとエッセの元に駆け寄っただけなのだが、まるで操り人形が、操者によって一足飛びに動かされたかのように見えたのだ。
ユアナは血管の浮く細い両腕でヤシュタットの身体を真横にはねとばす。彼女の身体のどこに、こんな力があるのか。不意をつかれたヤシュタットはごろん、と転ぶ。彼女にひっついていたエッセも一緒に転倒し、彼に覆い被さる形になった。――ユアナはかまきりのように、エッセの首に手をかける……。
彼女の絞首は、じりじりと粘着したものだった。ヤシュタットも、そして命を絶たれつつあったエッセも、一体この女王が何をしているのか、すぐには把握できなかった。彼女の瞳に、役者に裏切られた一方的な憎しみと、「選ばれし者」にもかかわらず自分とは異なる、不自由だが自由な世界に適応した娘への嫉妬心が燃えたぎっているのに気付くまでは。
「あ、ぷ、くぅ――」エッセの口から、か細い吐息が漏れる。彼女は首根っこを掴まれたまま女王に引っ立てられ、喉笛をギリギリと潰されている。――女王は真顔で泡吹くエッセを見つめている。
「その人を、止めて!」ティーティーがはるか後方で叫び、拘束具を引っ張られて仰向けに倒れる。彼女に言われるまでもなく、ヤシュタットは転がりながらも下敷きになった短刀に手を掛け、なんとか鞘から引き抜く。その間にも、エッセの顔色は、赤から紫色に変わっていく。――女王はエッセが死に至る過程を、長い時間味わっていたいらしい。狂気につかれているなか、どれほどまでこの殺人について考えているかは不明だった。
「やめろ! エッセを離せ!」ヤシュタットは動きづらい礼服にもかかわらず精いっぱいの力で跳ね起き、全力で女王に体当たりした。もちろん、あの小刀の身を輝かせて。女王ユアナは一瞬、そのきらめきに目がくらみ、手の力と顔を弛緩させた。彼女はそこで、己の生を、あきらめた。
――ダン! と、ユアナが倒される鈍い音が、これも予想外の規模で構内に響く。ヤシュタットは女王に、馬乗りでまたがっていた。彼の刃物は、ユアナの首筋でさまよう。――どうしたのです、早く終わらせましょう――と、彼女の瞳が訴えかける。ユアナはエッセを殺しにかかったその手で、自分のドレスを引き裂いた。青い血管が浮き、肋骨が浮き出て、その乳房はまるで浜に打ち上げられたくらげのようにしぼんでいた。
「殺せ……殺せ……」「羽根飾りの恨み……」外野がシュプレヒコールを始める。それはヤシュタットの頭をガンガン打ちならし、彼を酩酊状態にした。
「今です、早く!」ティーティーもねじ伏せられながらも、訴える。「大丈夫、あなたは人を殺せない――」その言葉に背中を押されて、とうとうヤシュタットは短刀を振り下ろした。腰の鎖が、その拍子にガチャンと鳴った。
ビンディーは四人の工作員とともに、あっけなく地下の上水道に侵入した。彼らはビンディーと同じくアルプだったが、馬車の中では話が盛り上がらず、彼女は一人、気まずい思いをした。
水道の中はもちろん真っ暗だが、彼らは水の音で周囲を認識している。湖から引かれた清水がシクシクと足元を濡らして気持ち悪い。この国の権威と権力が袂を分かち、水面下で睨みあいをしているというのに、都市機能は今まで通り駆動し続けているようだ。
「眉は濡らさないようにな。空気の震えを捉え続けろ」
「わかってるってば」
ビンディーはヤシュタットとエッセたちの方も上手く事が運ぶよう、入ってきたマンホールを見上げる。――その直後、空気が鳴動した。アルプ兵たちはピタッと動きをとめ、退路を確認する。危険が迫っていることに気付いた。民間人でありそういう感覚がないビンディーも、この重低音の正体はわかった。……上から来る! 彼は縦穴の真下から退いた。
それと同時に空砲を撃ったような轟音が、水道管内を貫通する! ドオォーン――と、アルプの感覚を停止させるには十二分な音量だ。ビンディーは衝撃で真後ろに吹き飛ばされ、アルプ兵の一人に受け止められた。――ドロドロに溶け、緑色に光る蓋が水の中に飛び込み、じゅわわっと濃密な湯気を立てて消えた。
「〈双子〉が動かされたのか!」縦穴からは火の粉がボロボロと落ちてくる。
「み、みんなは?」
ビンディーはヤシュタットたちを救おうとするが、アルプ兵たちはそれを許さない。彼女の羽根をしっかと掴んで、痛いぐらいに握りしめる。
「今はこっちの任務の方こそ重要だ。早く行かないと、おれたちが忍び込んだこともばれるぞ!」有無を言わさず、彼らはビンディーを引きずっていく。
四人は水道を逆流していき、ダルダション湖に取り付けられた取水口にたどり着く。水路には所々、隠し扉が仕掛けられており、それらの多くは女王が計画を実行に移したと同時に塗り固められていた。――二本のルートだけを残して。彼らはその内、もっとも遠回りになる道を選んだ。
(翼が重い……)ビンディーはシャワーこそ隙だったが、濡れ鼠になるのは大嫌いだった。
取水口から外を見る。生きてさえいれば、右手にある王宮に、ヤシュタットとエッセがいるはずだ。そこからは完成したばかりの橋が伸び、霧の中でもその影を落としている。――それが繋ぐダルダション城は、影形すら見えない。
男の一人が、ごみ避けの格子をがちゃんとはずした。ビンディーの顔に流れてきた枯れ葉がひっつく。
「ちょっとだけ泳ぐぞ」
「ほんとにちょっとだけ?」
「安心しろ、すぐに済む。――あんたはおれたちにしがみついてりゃいい」アルプ兵たちは水鳥のように、波音を極力立てずビンディーをひっぱっていく。
水面に、ぷかりとポンポン・ボートが一艘浮いている。そこには近衛兵の一人がライフル片手に周囲を警戒していた。――彼はひどく無力かつ、無防備な存在だった。こんな濃霧の中では、遠距離武器では使い勝手が悪く、むやみやたらと発砲できない。
……彼は案の定、背後からアルプ兵に飛びかかられ、抵抗する暇もなく水面にひきずりこまれた。ポンポン・ボートは転覆するかと思うほど大きく傾ぐが、なんとか体勢を維持する。――それっきり近衛兵は浮かび上がってこず、アルプ兵は悠々と、主を失ったボートに乗り込んだ。
ビンディーたち残り三人は、ボートのともに掴まった。ポンポン・ボートには蒸気船のようなスクリューがないので、こうしてさえいれば身を隠しながら湖面を移動できた。――ビンディーは、ひょっとしてあの兵士は捨て駒だったのではないかと思った。つまり、女王陛下の陰謀に全く関わっておらず、純粋な使命感でこのダルダション湖の岸辺を警備していた、ということだ。自分の知らない事情で殺したり殺されたりする。彼女の少ない語彙でも、それはとてつもなく怖いことなのだと解釈できた。――そして彼女がダルダション城にたどり着かないと、もっと大勢の人たちが何も知らされずに殺されるのだ。
「橋の下は危ない。当たり前だが、警備は厳重だからな」
「だから、――えっほ、直接お城に乗り込んじゃうんだよね」水をいっぺんに飲んでしまった。
「それは半分正解、半分ハズレだ」
「は?」
「ここでおれはお別れだ。――つまり陽動ってことだ。おれは橋に突入してその隙に突入しろ」
「またちょっと泳ぐことになるぜ」右で支えるアルプ兵が言う。
「え、ちょ――、泳ぐとかはいいんだけどさ。それじゃあんた、死んじゃうよ!」
「〈あんた〉じゃなくて、〈あんたたち〉だな」左で支えるアルプ兵も言う――。「つまりおれたちは全員おとりってことさ。アンタさえ〈双子〉に接近できれば、任務完了だ」
「な――」
「静かに! それ以上言うな。もう水杯も交わしているんだ。あんたも覚悟を決めて、職務を果たせ」両脇の男たちはビンディーの腕をつかんだまま、パッと舟から手を離した。重しを失ったポンポン・ボートは加速度をつけて突進していく。飛沫で顔中を濡らしてしまい、ビンディーは前後不覚になった。銃声、誰かの悲鳴、警笛――。
残った二人のアルプ兵は、ダルダション城の建つ小島の岩盤と橋台との隙間にビンディーをしがみつかせて、肩車をした。欄干に手をついて、ゆっくりと古城の入口を観察する。――ドダドダドダと足音がして、さっと首を引っ込める。……また遠くで火薬の炸裂する音。どうやら彼は、善戦しているらしい。
上段に乗った方が、助走もなしに欄干へ上がる。……なにやらビンディーの親父殿がとっ捕まった時と同じような、鈍い音が二回する。やがて黒い影がひょっこりとあらわれて、手を伸ばす。
「まずはアンタ――、今みたいにおれを踏み台にしろ」
言われた通り、ビンディーは肩に足を載せて、手を伸ばす。羽根が水を吸って、鉛のように重い。それでも何とか引きあげられると、二人の兵士が気を失って倒れているのを発見した。
「あんまり見たことない格好の兵隊さんだね……」彼女はシャツと羽根の水を絞った。最後に眉毛を整える。
「これは海軍省の制服だな」
そう言われてビンディーは〈双子〉の管轄が海軍だったということを思い出す。〈双子〉を起動するための技術を保有しているのも、スンズ親子や大学のお偉いさんを除けば彼らだけということになる。
橋こそ完成していたが、ダルダション城本体の工事は事実上凍結されており、屋根はアーチの梁が乗っかっているだけで吹きさらしも同然だった。そんななか二本の塔だけは作業用の足場で囲まれつつも、少なくとも外観はほぼ完成していた。三人は再びビンディーを前後に挟んで守る態勢で、出入り口から堂々と中に入る。これがアルプ兵単騎なら、もっとアクロバティックな方法で潜入できただろう。しかしビンディーは民間人だ。
「あっちにあるのが西塔、もう一方が東塔。西塔に設置されているのが鐘で――」
「東塔には〈双子〉が置かれているわけだね。わかった」根元まで走りきれば、あとは足場をよじ登ればいい。それぐらいなら、ビンディーでも楽勝だ。城は王宮とは違い、左右対称とはなっておらず、東塔の方が侵入地点から近い。
「あんた、滑空はできるか?」
「うーん、ちょっとは羽根が伸びたからできるかもしれないけどさ」
「いざとなったら湖に飛び込むだけでも構わないからな」
三人は建築資材が放置され、ホコリを被った廊下を進む――。
ヤシュタットは肩で息をしながら、女王ユアナの両腕を掴んでいた。真横ではエッセが激しくむせ返っていた。一気に噴き出した汗が、女王の胸に落ちる。
――彼らの真横では、翡翠色の短刀が絨毯に突き刺さり、ユアナのドレスの端をわずかに切り裂いていた。――その刀身は、引っ込まずに、確実な殺傷能力を持っていた。
「やっぱりあなた方、この人を殺すつもりだったんですね、ぼくをだまして……」ヤシュタットはふらふらと、半ば放心状態で立ち上がり、ティーティーの姿を探した。短刀は自分の重さに負けて、ぱたりと倒れる。
「――結局四〇〇年前と同じ過ちを繰り返すつもりだったんだ。また嘘を塗り固めて」
短刀の鞘には、寄木細工と同じようなからくりが施されていた。つまり鞘から引き抜く時の手順によって、内部の引っかかりが動いて、刀身が固定されたり、自由になったりするのだ。旅芸人に変装した暗殺屋がこれを小道具に紛れこませたり、何も知らない無関係な人物――主に女子供――に握らせて、悪戯のつもりで殺人を行わせるというわけだ。
ヤシュタットはこの悪趣味な暗殺道具のことを事前に知っていたわけではなかった。もうどんな役も演じるな――という心の声に、寸でのところで従っただけである。
ひざまずかされていたティーティーは苦しげに呻いた。それと同じく、は、は、は――と、乾いた笑みが聞こえる。それは身体を起こしたユアナ女王のものだった。ヤシュタットは恐れ戦いて、彼女の顔を今一度見た。
「お分かりになったでしょう? これがヌガンのおじいさまの正体、そしてこの国の正体なのです。――どうです? 勇者様、この国に見切りをお付けになられてはいかがですか?」
彼は情けなかった。自分もフシーオと同じように大きな嘘にだまされて、誰かの命を奪うところだった。それがなんとも不甲斐なく、心身がくじけそうだった。
涙で潤む視野で何とか捉えられたのは、へたり込むエッセだけだった。陰謀権謀に縛られず、共に旅を続けた彼女だけが、この場でとても愛しいものに感じられた。――彼女の瞳に映る自分は、とてもひどい顔をしているだろう。その瞳の奥に、ビンディーと『イ』の姿が見えたような気がした。
ヤシュタットは涙をぬぐって、彼女を抱き上げる。
「苦しくなかった?」彼女の眼も潤んでいたが、健気に首を、横に振る。
「ここはぼくらの行く場所じゃない。――巡礼の終わりはここなんかじゃないんだよ、エッセ」
「いいえ、ここで終わりです。勇者様」そう言ったのは王女だった。「あなたが私と一緒に死んでくれないのなら、自らの手で命を絶つまでです。――もう、己を偽るのに、疲れました」
ユアナは転がる短刀に手を掛けた。切っ先は欠けていた。ユアナは自分の喉を、引っ掻こうとしていた。
「だめだ、死ぬな!」ヤシュタットの悲痛な叫びとは裏腹に、群衆たちは没趣味な歓声を挙げた。
バチン――と、目もくらむような緑色の火花に、ユアナの頭部は包まれた。オータット伝説では、沈黙王の身体から溢れ出した炎が、勇者の身体を焼き尽くしたとある。
しかし、その炎はヤシュタットの身体を焼くことはなかった。そもそもそれは、切り開いたユアナの喉笛から発したものでもなかったからである。
閃光が収まった後も、その場に居合わせた全員の眼に、光は焼きついていた。――放たれた光の筋は小刀のつばを貫き、刀身をつららのように溶かし尽くしていた。そして蒸発し飛び散った鋼鉄の蒸気は、ユアナの腕、それから顔を焼き焦がしていた。
光の軌跡は、蛍のような火の粉を残していた。――ヤシュタットがそれを追うと、どうしても彼が抱っこする、足萎えのお姫様の左手にたどり着くのだった。火を放ったエッセ本人も訳がわからず、ハッハッハッ……と、過呼吸になりかけながら自分の手の平をこわごわ見つめているのだった。
「血が目覚めた!」背後から、誰かが上ずった声で叫んだ。
ビンディーたちは二人で東塔を見上げていた。――もう一人のアルプ兵とは、電信線と〈双子〉の動力源を断ち切るために、途中で別れたのである。東塔は新素材の鉄骨製で、高さは五〇米くらい。ダルダション城自体が半地下で扁平な建物だったので、中々の迫力だ。頂上は〈双子〉を据え置くためだろう、麦わら帽子をかぶったネギ坊主、といった格好をしていた。
塔の入口は固く閉ざされていた。どうやら燃素や電気などは塔の中を通して供給されているらしい。そちらの方を叩くことの方が、骨の折れる作業のようだ。
「一度あそこの足場に登って、湖に背を向けながら登ろう――」
塔は細くて輸送が楽な鋼材を鳥の巣のように編んで組まれていたので、取りかかりがたくさんあって昇りやすかった。中央のシャフトには昇降機にパイプ、電線が通っているが、ビンディーにはこちらから昇った方が、圧倒的に楽だった。
下から見上げたときに帽子のつばにみえたところは外縁の部分で、鉄の網から、軍靴の裏が透けている。二人の水兵によって守られているらしい。――なんと固定式の機関銃まで備え付けられていて、まるで海賊の襲撃に備えているようだ。
ビンディーたちはしばらく様子を伺っていたが、アルプ兵はしばらく思案したあと、柵のない外縁のふちを音もなく、懸垂しながら移動した。そして水兵の一人のそばまで近付いた刹那、彼の足を掴み、全体重をかけて下へひきずりこんだのである。
水兵は「あああ」と悲鳴を挙げ、船上では味わうはずのない恐怖とともに、下界へ落ちた。――数秒後ドップンという水の音が響く。一方のアルプは彼と道連れに落ちることなく、ひらりと宙で一回転すると、そのまま外縁の影に隠れる。道化師のビンディーでもほれぼれする光景だ。
さてこの物音を不審がったもう一人の見張りが近寄り、もう一人の相棒がいなくなっていることに血相を変えた。……その隙にビンディーたちは外縁に躍りあがり、巨大な鳥かごのような『ネギ坊主』の中に侵入した。
『ネギ坊主』は天井の低い二層に分かれていて、下層は昇降機の発着場となっていて、ビンディーたちが忍び込んだ場所は上層にあたる。上下ともに、小劇場程度の広さがあった。中では紺色の、複数の勲章を身に付けた軍人と、乳白色の衣装を着た女性が抑揚のない、古い宗教歌を唄っていた。彼らの中央では、黄金色の半球カバーに覆われた物体が置かれており、カバーの隙間からは蒸気がスンスンと上がっている。どうやらあの中に〈双子〉が格納されているらしい。しかし彼らのとっている行動がクラシックすぎて、最新の機械が置かれている場であるとはどうも思えなかった。――ビンディーたちは隠れる間もなく、すぐさま仕事に取り掛かる。
「――動くな」アルプ兵は、もっともたくさんの勲章をぶら下げた将校に標的を定め、またもや見事な身のこなしで彼の背後に立った。そして首筋にナイフを突き付ける。
女たちは歌をやめるが、かといって悲鳴も挙げない。一瞬だたじろぐとアルプ兵と水兵をぼんやりと見つめた。
「――あっ、ゴタク大尉!」先ほど落とされた同僚のことを報告するべく、外縁を見張っていた魔族の水兵が室内に飛び込んできた。彼は動揺を隠そうとしない。
「騒ぐな!」そう叫んだのはゴタク大尉という男だった。「お前たち、この宰相の犬の言うことを今だけは聞いておくのだ。――貴様らは〈双子〉を狙いに来たんだな?」
「……話が早いな」
ここでビンディーは室内をぐるっと見渡す。
「〈双子〉を引っ張り出すのは、このレバーを引けばいいのね?」そう言うなりビンディーは、床のあからさまなところに設置してある装置とそのレバーに手を掛けた。
「アハハ、小娘。貴様が我々を止めようとするのか? それは無理だ、絶対に」ゴタク大尉は、息をたっぷり吸って嘲笑する。あまりにも力を込めて笑うので身体が上下し、首筋のナイフがこすれて血が滴った。
「だまってろ!」アルプ兵が諌めても、笑うのをやめない。――それどころか、彼を取り巻く女たちも、狂ったように笑うのだ。外で見張っていた水兵も、上司がとうとう狂ったのではないかと思い、呆然とゴタクを見つめていた。
ビンディーは彼らの馬鹿笑いを無視してレバーを勢いよく下に降ろす。――ガタン! と鉄の塔は揺れ、カバーが二つに開き中身がせり上がって来る。ビンディーは正直ドキドキした。これから壊してしまうとはいえ、ホードガレイ最高の技術を費やした悪魔の機械がここに眠っているのである。ブワッと噴出する蒸気の量がすさまじい。思わず武者ぶるいする。
閉じ込められていた蒸気が解放され、きのこ雲が鳥かごのような天井をすり抜けていった。背中に背負った工具袋――念のため、フシーオが携帯していた〈銃〉も持ってきた――からバールを、まるで剣のように引き抜く。まるで自分までも勇者になった気分だった。
……しかし彼女の意気込みは、とんだ肩すかしになった。
「な、何よこれ……」
「ハハハ、小娘。これが見たかったか! ……そうかそうか、それはご愁傷さまだったな!」
一方のゴタク大尉は高笑いが止まらない。女たちも若い顔を壊し、まるでカエルのようにケタケタと笑う。ビンディーの目の前には〈双子〉だった物のスクラップ――もはやインゴットとしか呼べないもの――が横たわっていた。まるで失敗したパンケーキだった。




