第9話 二人の時間
先ほど勝負とやらに使われたプリンは、李が彼女自身のために買ってきたものであった。
俺と桜歌は、りるはを見る。冷蔵庫から持ってきた張本人。彼女は、ぎりぎりと、油切れを起こした人形のようにぎこちなく目を逸らし、
「アレ、お兄ちゃんが買ってきたものじゃなかったの……?」
「ちげえよ。お前が買ってきたやつじゃなかったのかよ……」
俺、桜歌、りるはの三人の間に、沈黙が降りる。
なんか、急にさっきやってたこと(膝枕であーん)が猛烈に馬鹿らしくなってきた。いや、もともと馬鹿らしさの骨頂ではあったんだけどさ。
りるはをちらりと見ると、面白いくらい目が泳いでいる。気まずかろう、気まずかろう。相手はほぼ初対面の年下だもん。
被害者の李は、冷蔵庫にもたれながら頬をぽりぽり掻いている。黙り込んだ年上三人衆を見て、なにか言おうとしたのか口を開き、しかし、
「もーしわけ、ございませんでしたっ」
りるはの全力の謝罪がそれを遮った。
「わ、私、今からコンビニ行って、同じやつ買ってきますっ」
だだだっと二階に上がったかと思うと、財布を手に玄関から飛び出して行った。
「あ、ちょ」
時計を見る。短針は九時を指していた。
夜の帳はすっかり下りて、窓の外には暗闇が広がっている。
ここから一番近いコンビニは、歩いて十分もかからない。しかし、歩くのは人通りの少ない住宅街だ。街灯だって満足に付いていないし、お世辞にも安心安全な道とは言えない。
帰りの遅い李にも、一通り防犯グッズは持たせているけれど、それでも正直不安に思うことはある。
りるはに関しては、何よりこの土地にまだ慣れていないのだ。迷子……にはならないかもしれんが、ちょっとばかし心配だ。
「俺もついていくよ」
椅子にかけてあった上着を羽織り、既にコンビニに向かったりるはを追って、玄関へ向かう。
「兄ちゃん」
靴の踵をとんとん、と合わせていると、李の声が背中に聞こえた。
振り向くと、李は素直さ全開の爽やかな笑顔を浮かべ、
「コンビニ行くんなら、アイスも買ってきてよ」
ああ、と俺は頷いた。
「種類は適当でいいか?」
「兄ちゃんの好みに任せるよ」
うちの末っ子は、プリンを食べられたくらいでキレる奴ではない。まあこっちが悪いんだから、別にキレたっていいんだけどさ。でも、その無邪気な笑顔になんだか救われる。
「じゃあ、行ってくるよ」
「ねえ、あんた」
再度引き止めたのは、リビングから顔を出した桜歌だった。どこか気まずそうにもじもじと指先を弄んでいる。
「なんだ?桜歌も何か買ってきて欲しいものでもあるのか?」
「え?あ、いや……」
一瞬口ごもり、しかしすぐに首を振る。
「ううん、何でもなかった。気にしないで」
「……おう、そうか」
俺は外へ出て、小走りでコンビニへ向かう。
少し風があった。春を迎えたからといって、夜はまだ肌寒い。もっさりとした街路樹は、さわさわとざわめくように音を立てていた。
比較的、古い家が多い。人が住んでいるのか分からない家屋も、ちらほら。正直言って、不気味な通りだった。
あの曲がり角を曲がれば、もしや殺人鬼が……。そんなベタな想像が頭をめぐり、肝がすり減っていくような感覚がする。
誤魔化すように俺は足を早める。遠くに見えるマンション群の光が、生活の温かみをほのかに感じさせた。
次第に人通りが多くなる。駅が近くなったからだ。りるはは小走りで向かったのか、俺が彼女に追いついたのは、コンビニの前での事だった。
「あれ、お兄ちゃん?なんで?」
りるはは後ろにいる俺に気がつくと、驚いたように目を見開く。
「ここらへん、夜はちょっと危ないから。それに、りるははまだ慣れてないだろ?道とか」
「だから、着いてきたの?」
俺が頷くと、りるはは眉尻を下げてはにかむ。
「心配なんてしなくていいんだよ?私もう高校生なんだし」
「何歳だろうが、夜は危ないさ」
俺が店内へ入ると、りるはも俺の後に続く。
ピカっとした照明に、少々目が眩む。陽気な店内放送に、店員の気だるげな声。客は俺たち含め、五、六人くらいだろうか。
木々のさざめく音しか聞こえなかった住宅街とは、大きな違いだ。「俗」で構成されているこの空間は、何かから守られているような安心感を与える。
デザートコーナーを覗けば、プリンはすぐに見つかった。250円。なるほど、確かにちょっとばかし高い。
そして。
「ア、イ、ス……っとな」
李は、確かフルーツ系の棒アイスを好んで食べていたはずだ。六本入りの箱をカゴに入れる。五人で分けて、あと一つは李の分。そういう計算だ。
「何か他に、買うものあるか?」
俺が聞くと、りるはは首を横に振った。会計に向かう途中、りるはがこっそり俺に言う。
「……その、プリンの分、私に払わせてね?」
「李のやつだと気づかなかった俺も悪いと思う」
「うー、でも。流石に悪いよ。私だって責任感じてるし、そこまでお兄ちゃんに甘えられないよ」
「……まあ、なら後でプリン代だけ貰おうかな」
無理にこちらの主張を押し通すのも面倒だし。
でも、甘えられない、ね。
りるはの横顔をちらりと見る。感情の読めないその顔は、俺の膝にいたそれとは別人のようだ。甘え対決とかなんとか、それはもう終わっているのだろうか。
レジを済ませて、外に出る。りるはから貰った小銭を財布に突っ込む。俺たちは並んで、来た道を戻り始めた。
比較的明るかったコンビニ前から離れ、道は暗闇に飲み込まれ始める。スニーカーがアスファルトを蹴る音が、二人分。
会話はなかった。そして、会話がないことに、やけに居心地の悪さを感じる。
無言でも気まずくならないのは、その人とそれだけ親しいってことだよね、なんて。
至る所で囁かれる、そんな言説が頭に浮かび、ちょっと苛立った。何も切り出せない自分に。
続く無言の中、意味もなく夜空を見上げても、星のひとつも見つけられない。
隣で歩くりるはが、ははっと乾いた笑いを漏らした。
「桜歌ちゃんいないと、やっぱりちょっと気まずいね」
はっきり言うなあ。
「そう、思うか」
「うん。なんか二人きりだと、上手くこう、乗っていけないな、会話に」
「そうだなあ」
いつものように―いつも、と言えるほど長く過ごしてはいないけれど―「お兄ちゃん♡」なんて言って、くっついてくることもない。
彼女は彼女なりに、十年の月日を埋める方法を、模索しているのだろうか。方向が少しずれているような気がするけれど。ああやって過剰に甘えるのも、ぎこちなさを誤魔化すためなのかもしれない。
「星、見えないね」
りるはが言った。
「ああ、そうだな。まあ、ここくらいの都会だと、なかなか難しいよ」
ここは郊外だが、少しばかし離れると、繁華街に続く。夜に自室の窓から外を見ると、星の光を地上で吸い取ったように光り輝く一帯が見える。
「羨ましいなあ」
羨ましい?
「星が見えないのが?」
「うーん、それより、コンビニがこんなに近くにあることとか、高ーいビルがほら、あんなに並んでるのとか」
りるはが指さした先には、遠くに並ぶビルの群れ。
「あんなに高くて眩しい建物見るの、いつぶりだろう」
俺にとっては見慣れた風景だった。
ふと、りるはからもらった手紙を思い出す。そこに写っていたのはのどかな田園風景と、そびえ立つ山々。
確か、りるはは母親と一緒に、母方の祖母の家に身を寄せることになったはずだが。
「あれから、引っ越してなかったのか?」
りるはは小さく頷いた。
「ほんと、クソ田舎だよ。うんざりするくらい」
「でも、星は見えるだろう。少なくとも、ここより」
「見慣れれば大したことないよ。私はそれより、地上の光の方が眩しくて、素敵だと思う」
それだって見慣れれば辟易するもんだけど。
「母さん、元気にしてるか?」
何気ない風を装って聞いてみる。ずっと気になっていたことだった。
隣から、小さなため息が聞こえた。無力感を孕むそれが、何を意味するのかは分からなかった。闇に紛れて、りるはの表情は読み取れない。
「元気だよ」
セリフに似合わぬ声色で、そう答えた。声から滲む暗い感情が、俺の心にのしかかる。
彼女を置いて、海外出張に行った母親。何か二人の間に、確執があったのだろうか。そんなことを考えざるを得ない。
しかし、そこで問いただすこともできない。よその家庭事情に首を突っ込むのはあまり褒められた行為ではない。それが分かるほどに大人になったし、もう、俺にとっては"よその家庭"なのだ。
りるははよその子ではない。でも、よその家庭だ。
「あは、それにしても嬉しかったなあ。りるは姉ちゃんって呼んでもらえたの」
わざとらしく話題を変え、明るい声を出すりるは。
「そうだな、りるはも長女の仲間入りだからな」
俺も顔を上げ、調子を合わせる。
そうだ、この方がいい。ただでさえ暗い道なのだから、雰囲気くらい明るくなくちゃ。たとえかりそめであったとしても。
「桜歌も昔は桜歌姉ちゃんって呼ばれてたんだけどな。いつの間にか呼び捨てになってたよ」
「そうなんだ」
「ああ。いつかりるはも、"姉ちゃん"が外れる日が来るかもな」
「あははっ。なんだか複雑~」
そんなことを話している間に、我が家が見えてくる。少しほっとしている自分がいた。
「ただいま」
そう言いながらドアを開けると、リビングからひょこっと顔を出すのは李だ。
「おかえり。兄ちゃん、とりるは姉ちゃん……んー」
顎に手を当て、首を捻る。
「リルハネーチャン……ちょっと言いにくいな。りるはちゃん……りる……りるちゃん、うん、りるちゃん」
李は満足気に頷く。
「りるちゃんって呼んでいいか?」
さっそく"姉ちゃん"が外れた。りる姉ちゃんじゃだめなのだろうか。
「う、うん。いいよ……」
若干引きつった顔のりるはに、きらきらとした笑顔を浮かべる李。
「あんたたち、いつまで玄関にいるのよ」
李の後ろから、桜歌が姿を見せる。上から目線のその物言いが、桜歌流の「おかえり」なのだ。
「アイス、フルーツので良かったか?」
「やったあ!兄ちゃん最高」
「みんなの分もあるから、風呂上がりにでも食ってくれ」
「わたし桃味がいい!」
「じゃあ、あたしはオレンジ」
俺からビニール袋を受け取った李が、桜歌と共にリビングに戻っていく。俺も靴を脱いでそれに続く。
ふと、横にいるりるはを見た。遠いところを見るようなその瞳には、桜歌らの後ろ姿が写っている。
俺の視線に気づいたのか、ぱっと彼女は顔を上げる。にこりと微笑み、
「アイス、分けっこして食べようねお兄ちゃん♡」
「棒アイスをどうやって分けるってのよ」
桜歌が振り向いてそう言う。
りるはの顔がふっと緩むのに、俺は気づいた。




