第10話 何もかも、上手くいかない日
《臨時休園のお知らせ》
「う、嘘だぁ……」
動物園の入場ゲートの前に張り出された紙を見て、りるはは膝から崩れ落ちた。
周囲からも、落胆の声が上がっている。ぐずり出す子供に、必死にあやす親、残念だったねぇ、とこんな状況でもいちゃつきだすカップル。
そんな中でも、ぶっちぎりで落ち込んでいるのはうちの妹だ。
「な、なじぇ……」
そう言って嘆くりるはの手から、はらりとルーズリーフが落ちた。
俺は屈んで拾い上げる。そこに書いてあったのは、
『お兄ちゃんとのデート♡計画表』
事態は、数時間前に戻る。
***
朝九時。欠伸をしながら一階へ下りると、すでに家中の掃除が済んでいた。
床を見ても、髪一本落ちていない。洗面所の鏡も、磨きあげられてピッカピカ。毛穴まで見える。
なんだこりゃ、と驚いていると、
「お掃除、終わらせといたよお兄ちゃん♡」
「りるは……」
はたきを手に後ろから現れたのはりるはだ。そして、
「あたしにばっか重いの持たせんの、やめてよね」
りるはに続いて、掃除機を担いだ桜歌も姿を現す。
「お前ら……。掃除、やってくれたのか?」
りるはは満面の笑みで頷く。
「もっちろん。お兄ちゃんにはお世話になりっぱなしだもん。家事くらい分担させてよ」
桜歌も、ふんと鼻を鳴らす。それは同意なのかなんなのか分からないが。
「りるは……桜歌……」
お兄ちゃんは感動した!
そうか、そうだな。温かくなる胸を押さえ、俺はうんうん、と頷く。
今まで俺は、自分が家事を受け持つということに、プライドがあった。自分が一番家事ができるのだという、自負があった。
しかし、磨きあげられた家を見て、俺は感慨を覚えていた。こうも簡単に、こだわりはころりと覆る。
人に家事を任せる。うん、これはこれで、なかなか気分がいい。
そうだ、別に俺が全部やる必要なんてない。掃除なんて、気づいた人が率先してやればいいのだ。
「ありがとな、二人とも」
そう言って、俺はキッチンへ向かう。遅い朝だが、軽く朝飯くらいは食っときたい。
「二人は、何か食べたか?」
そう聞くと、桜歌とりるはは、顔を見合せる。そして、頷いた。
「戸棚に入ってたパンと、」
「ヨーグルトも食べたわ」
あれ、と思う。
シンクの三角コーナーに、卵の殻がいくつか入っていたからだ。しかし、二人はパンとヨーグルトを食べたと言う。
……まあ、いいか。わざわざ言っていないだけかもしれないし、胡桃が夜食にオムレツでも食べたのかもしれない。胡桃は結構、夜にがさごそ冷蔵庫を漁る習性があるからな。
「じゃあ、俺もパンでも食おうかな」
りるはが、あ、と声を上げる。
「あんまり、たくさんは食べないでね」
「え?ああ、もとからそのつもりだが……なんでだ?」
りるははそれには答えず、曖昧な笑みを浮かべる。
戸棚から出した薄皮クリームパンを、一つ手に取り頬張る。起き抜けの口内に、濃厚な甘さが広がる。頬がだらしなく緩んでしまう。
りるはは黙り込んで、俺の様子をじっと観察……していると思ったら、
「お兄ちゃん、今日デートしよう」
突拍子もない誘いだった。
「デート?」
りるはは頷く。隣にいる桜歌を見ると、腕を組んでこちらを見ている。何言ってんのよ、と突っかかる様子もなく、さては事前に知っていたようだ。
「第二の勝負、それは『癒し』なの」
人差し指をぴっと立て、りるはは言った。
甘えの次は、癒し?また訳の分からないことを言い出して。俺はため息をつく。
「お兄ちゃんをどれだけ癒せるか。妹としては、絶対譲れないスキルだよね」
「はあ……それで、デート?」
りるはは満足気に頷いた。
「今日は三人でデートしよう。私と、お兄ちゃんと、桜歌ちゃん。どっちがよりお兄ちゃんを癒せてるか、見極めてね」
そんなことを言われ……。
連れてこられたのは動物園だった。
電車に慣れぬりるはをサポートしながら、乗り換えをクリアし、ガタンゴトンと揺られること一時間ほど。
そうして昼前に俺たちは動物園につき、目の当たりにしたのは例の張り紙だった。
「あー、ほんとね。SNSでも告知されてる」
桜歌はスマホに視線を落とし、あっさりと言い放った。半泣きのりるはとはえらい違いだ。
「えーっと、なんだって?」
俺もスマホで確認する。なんだっていきなり、休園だなんて。
「サルが園外に脱走……」
えらいこっちゃ。そりゃあ、臨時でも休園にしないとなあ。
「はあ……。お兄ちゃんとおさるさん見たかったのになぁ」
「しょうがないよ、りるは。こればっかりはどうしようもない」
項垂れるりるはに声をかける。りるはは、んんぅ、と返事ともつかない唸り声を上げた。
周りにいた人達も、わらわらとUターンして帰っていく。いつまでもここにいても、どうにもならないからな。
腕時計を確認すると、今の時刻は十一時半。
「もうすぐ昼だし、どこかお店でも探そう。少し早いけど、昼ごはんにしないか?」
そう声をかけると、りるははぱっと飛び跳ねるように顔を上げる。
「お昼ご飯っ」
「あ、ああ」
悲嘆にくれていたさっきまでの様子はどこへやら。すっくと立ち上がると、意味ありげに背負っているリュックをかたんと鳴らす。
「お店、探す必要は無いよ」
「え?」
「ふふ、実はね、」
「早起きしてお弁当作ったみたいよ」
りるはのセリフを遮って、桜歌が言う。
「ちょ、桜歌ちゃん、私に言わせてよっ」
「もったいぶったってしょうがないでしょ」
頬を膨らませるりるはを横目に、俺は今朝見かけた卵の殻を思い出す。ああ、それで。
「じゃあ、どこか公園でも探さないとな」
俺は地図アプリを開こうとスマホを取り出す。しかし、
「あそこにちょうどいい公園があるじゃない」
桜歌の指さした先を見ると、確かに。横断歩道の向こう側に青々とした芝生の広がる公園がある。
近づくと、その公園は思いのほか広い。そして、公園と言っても、遊具があるようなものじゃないのだ。よく分からないモニュメントに、辺りに生えているのはしゅっとした細い木々。
周りを見回すと、高くそびえ立ったビルがきらりと光る。どこもかしこも整然と手入れされており、なんだかスタイリッシュ。
「都会の公園って感じだなあ~」
きょろきょろと忙しなく視線を動かしながら、田舎者丸出しのコメントをするりるは。
春休み中ということもあり、親子連れが多い。芝生で走り回る子もいれば、フリスビーを投げ合う女の子も。シートを広げてピクニックをしている人もちらほら。
ポカポカの春の日。のどかなもんだった。
端に並ぶ木製のベンチを見つけると、俺たちはそこへ腰掛け、荷物を置いた。ちょうど三人が座れる長さだ。
「じゃじゃーん」
りるはが、リュックからお弁当を取り出す。
「おお、すごいな!」
俺は思わず、感嘆の声を上げた。
使い捨てのパックに入っているそれは、お手本のような見事なお弁当だった。ハート型の卵焼きに、唐揚げ、アスパラのベーコン巻き、海苔巻きおにぎり……。定番にして、王道。彩り豊かで、見ているだけでよだれが滲む。
「うぇへへ。お兄ちゃんに喜んで欲しくて、頑張って準備したんだー♡」
「あたしも手伝ったわよ」
すかさず桜歌が言う。りるははむっと目を細めた。
「桜歌ちゃんは卵割っただけでしょ」
「買い出しの荷物持ちもやったわ」
「それは……そうだけどっ」
「まあまあ、こんなとこで喧嘩なんてするな」
せっかく作ってくれたのだから、早くいただこう。そう言って促すと、二人もしぶしぶ睨み合いをやめた。
手を合わせていただきます……と、そのとき、
「あ、ごめん。あたし先にお手洗い行きたいかも」
続いて、
「わ、私も……」
りるはもおずおずと手を上げる。
先ほどのよく分からないモニュメントの近くに、トイレと思しきブラウンの四角い建物がある。
「行っておいで」
遠くなっていく二人の背中を見つめながら、残された俺は手持ち無沙汰で、暇を持て余す。
しっかし、こういう所って、トイレまで洒落てるよなあ。遠くからだが、色味が冴えていることははっきり分かる。無駄を削ぎ落としたようなスッキリとしたデザインも、こう、「公衆便所」ってワードが似合わない感じというか。
そんなことをだらだらと考えていると、
「おっと」
箸を落としてしまった。
割り箸ではない。棚にしまっていた弁当用の箸を、りるはかわざわざ用意してくれていたのだ。
芝生の中に埋もれてしまったそれを拾い上げ、
「流石に洗った方がいいよな……」
微かに泥がついている。このくらいなら払えば落ちるが、まあ、清潔なのに越したことはない。
公園の奥まった場所に、水飲み場があるのを発見する。一応あそこで洗っておこうか。
俺はベンチに荷物と弁当を残し、水飲み場へ向かう。その場を離れることに、ほんの少し抵抗を感じたが……ま、すぐに戻ってくるし。大丈夫だろう、と俺は思った。
考えが甘かったと、言わざるを得ない。
事件は起きた。
箸を水で洗い流している、その時だった。
「きゃーーーーーーーっ」
甲高い悲鳴が聞こえた。ちょうど、俺たちが陣取ったベンチの辺りからだ。
なんだ、と俺は顔を上げる。殺人事件でも起きました?なんて思って視線を向けると。
まず目に入ったのは、逃げ惑う人々だった。しかし、中には好奇の目線を向ける者も。そして、若者の多くは撮影をしているのか、スマホを掲げている。
いずれも、視線の先は俺たちのベンチ。
理解が追いつかないまま、よくよく目を凝らしてみる。
俺の喉が奇妙に鳴った。
そこにいたのは、りるはの作った弁当を貪り食う、サルだった。




