第5話 次元を下げればこれも普通
シャワーを浴びていると、燻っていたはずの怒りもシューッと萎んでいってしまった。自分でも拍子抜けだ。
しょうがない。だってシャワー、気持ちいいんだもの。
俺は手のひらで顔を拭う。顔も髪も背中も、もうどこもベタついてはいなかった。
シャワーヘッドから降り注ぐ小さな雫の一つ一つが、朝日を透かしてキラキラと光っている。日が差していると、こうも風呂場は明るいのか。俺まるで今、星の粒を浴びているみたいだ……。
朝シャンか。盲点だったかもしれない。こんなにも簡単に非現実感を味わえるなんて。清涼だ。身体中が清められていくようだ。
バスルームの白いタイルも、濡れた自分の体も、なぜか神聖なものに思えてくる。なんかもう、ドラマの主人公にでもなった気分だ。
シャワーで一日を開始するってのも、結構いいもんなんじゃないか?朝シャンはハゲるとかって噂も聞いたことあるが、でもちょっとこれ、やみつきだ。だって、爽やかすぎる。
すっかり気分はルンルン。我ながら単純な奴だ。
シャワーだけ浴びて出るつもりだったが、こうなったらお湯を張って、しっかり入浴してしまってもいい。
そんでついでに、風呂場の掃除をしてもいい。
真っ白なバスタブに溜まっていくお湯を眺めながら、スポンジにボディーソープをつけて、床をささっと擦る。
掃除なんていっても、簡易的なものだ。風呂から上がる際にシャワーで泡を流せばOK。これくらいの作業を入浴中にしてしまえば、大掛かりな掃除をする回数も減らせる。
そんなことをしているうちに、湯船にはたっぷりのお湯と、昇り経つ湯気。
俺はじゃぽんと体を浸して、ほおとため息をついた。身体中に染み渡る心地良さが、それ以外の感情を鈍化させていく……。
ああ、良きかな、朝風呂。流石に毎日はお湯がもったいないけれど、たまのご褒美として導入してもバチは当たらん。
バスタブの手すりをスポンジで擦りながら、ぼんやり考えるのは、やはり妹らのことだ。
出会って一日で、こう何度も衝突されては、先が思いやられる。俺としても、りるはとの距離もまだ掴みかねているし、うーん、前途多難だ。
「どうしたものかな……」
「お兄ちゃん、お背中流しに来たよっ」
「ぎゃああああああああああ」
バスルームの半透明の扉から顔を出したのは、りるはだ。俺は予想外の来客に絶叫する。
彼女の体を見ると、かろうじて白いバスタオルは巻いている。でも巻いている、のみだ。胸元も際どいし、下なんてもう、鼠径部がこう、さ、見えそうだしさ。
「何しに来た!?」
俺の問いに、りるははきゅるんと首を傾げる。
「だから、お兄ちゃんの背中流しに……」
「なぜ!?」
「なんでって。普通、妹は兄の背中を流すものだよ?」
「そんな普通があってたまるか!」
あ、頭おかしいんじゃあ、ないのか。
「い、いいから出てけって」
「えー、やだよう。私お兄ちゃんと一緒にお風呂入りたい」
「どこに兄妹で風呂に入る高校生がいるんだよ!」
「昔はいつも一緒に入ってたよ」
「幼児はノーカンだろ!?」
りるははバスルームにのこのこと入ってきて、床がぬめぬめしてるだのなんだの、ぼやいている。
なんかもう、怖い。なんなの、この子。
「なんでお前はそんな平然としてるんだよ……」
「えー?そんなに変なことかな?」
あっけらかん、だ。
「変だよ、超変だ。まじでおかしい」
「うそぉ。私が読んだ本にも書いてあったよ、妹は兄と一緒に風呂に入るものだって。それが幸せなことなんだって」
「どこのどんな本だよ!?」
そんなヤバい知識をりるはに植え付けたのは。
「んーとね。『彼女に振られましたが、疎遠になった妹が嫁として帰ってきたので大丈夫です〜新妻妹との新婚イチャイチャ生活〜』第15巻」
「そんな本を参考にするな!」
あとそのタイトルでよくも15巻まで出せたな。
俺はバスタブの隅で縮こまりながら、あまりの無念に嘆く。
なんてことだ。兄は悲しい、悲しいぞ。会わなかった十年で、妹は何か大事な部分が歪んでしまっている。
「お兄ちゃんは悲しいです」
「妹は嬉しいよ?お兄ちゃんともう一度一緒にお風呂に入れて」
りるははバスタブに片足を浸して、俺に微笑みかける。天使の笑顔だった。華やかだけどどこか素朴で、心が落ち着く笑み。今は全然落ち着かないけれど。
りるはの足が、すぐ近くまで迫っている。白くて細くて長い。昔のぷにぷにのちぎりパンのような足はもうどこにもない。
ふと、その透き通った肌に、いくつか浅黒いあざができているのに気づいた。指摘するのもどこか憚られて、俺は口をつぐむ。
「お兄ちゃんと離れてから、私ずっと一人っ子だったから。お兄ちゃんにずうっと会いたかったんだよ。寂しかったから、本も読んだし、アニメも観たよ。いつかこんな風にお兄ちゃんとくっつけたらいいなって思ってたんだ」
にこにこと笑いながら、バスタブに半身入れるりるは。今はその笑顔が怖い。
え?可愛い妹と一緒にお風呂なんて最高じゃないか、と?……そう思う君は、アホなラブコメに毒されている。
考えても見ろ、十年会っていない実の妹が裸同然で迫ってくるんだ。それでデレデレできるなら才能だ。
残念ながら、俺にラブコメの才能はない。
「や、やめろ」
「実はね、朝ごはん、お兄ちゃんに食べて欲しかったんだ」
「え?」
突然のトーンの転換にたじろぐ。急にどうした?
りるはは妙に神妙な顔だ。
「昨日、お兄ちゃん言ってたよね。私の料理食べてみたいって」
「あ、ああ。言ってたかな?」
「うん、言ってた。だから、食べさせてあげようと思ったんだ」
先程の話であると気づく。ああ、それでキッチンに。たまたま朝ごはんを作ろうとしていた桜歌と鉢合わせて、喧嘩に発展したのか。
「ごめんね?フライパン頭に落として。お兄ちゃん怒ってたから、お詫びとして背中流したかったんだ」
なるほど。なんとなく理屈は分かった。理屈は、な。共感はできないけど。だって、別に俺、背中流されて喜ばないぞ。
「ま、まあそれはもういいよ」
だから頼むから出てってくれ。そう言おうとした時だった。
りるはの体がこちらに傾くのに気づく。
手すりに塗りたくったボディーソープで、足を滑らせたのだ。
突然のことに表情の消えたりるはの顔が、接近する。小さな手は空を切り、唇から悲鳴ともつかない掠れた声が漏れる。
「……ひゃっ」
衝突する直前、俺はすんででりるはの肩を掴む。
衝撃で俺の尾てい骨はバスタブへガツン。痛みに耐えながらりるはを見ると、良かった、怪我はなさそうだ。
ゆっくりと顔を上げた彼女と、目が合う。掴んだ肩はやけに骨ばっていて、すべすべの肌が手のひらに吸い付くようだ。
俺と同じ色の髪が、水滴を浴びて微かに湿っている。息のかかりそうな距離で、心臓がどくんと跳ねた。
と、そのとき。
「ねえ」
聞き慣れた声と共に、がらりと扉が開く。
あ、やべ。
見下ろす桜歌の表情は、ただただ冷たい。冷たいってのも、怒りとか嘲りとか、色んな感情を通り越してたどり着いたものなんだと、なぜか予測できてしまう。
「……やっぱり、不埒なんじゃない」




