第4話 ジャム、ジュース、フライパン
夢を見ていた。自分でもベタだと思うけど、幼い頃の夢だ。
ぼんやりと浮かび上がるのは、泣きじゃくるりるはと、歯を食いしばって涙をこらえる俺。
「手紙書くよ。写真も送るよ」
六歳のときに両親は離婚し、俺は父さんに、りるはは母さんについて行った。もっとも俺たちが決めたわけじゃないけれど。なんだか勝手にそういうことになっていたのだ。
妹との別れは、幼い俺にとって、受け入れ難いものだった。父さんにも八つ当たりしたな。なんでこんなことになったんだ、って。
今考えれば、両親にもどうにもならない事情があったんだとは思うけどさ。
当時の俺には、あまりにも理不尽なことだった。
たしか雨の日だった。春とはいえ、雨が降っているとひんやりして、肌寒かった。俺は、母に連れられ家を出ていくりるはに、約束した。
手紙を書くこと。写真を送ること。
りるはとの繋がりを、少しでも保っていたかったのだ。
そしてそれは実際、二年ほど続いた。
引越し先の近所の猫の写真や、旅行先で撮った俺のピースしてる写真を、手紙とともにりるはに送った。父さんも俺たちを可哀想だと思ったのか、それは許してくれたのだ。
りるはからも手紙がきた。拙い文字で、一生懸命素直な感情を綴っていた。少し身長が高くなった写真も送られてきた。寂しかった。
しかし、父さんは再婚し、俺には新しい妹ができた。それも四人も。
目まぐるしくも楽しい日々の中で、気づけば俺はりるはに手紙を送らなくなり、りるはからも返事は返ってこなくなった。
小学校を卒業し、中学校も卒業し、そうして、りるはは記憶の中でも徐々に薄れていった……。
「あんた何考えてんの?」
「桜歌ちゃんこそ、おかしいよっ」
目が覚めた。階下から聞こえる喧嘩で。
時刻は午前七時。カーテンから漏れる朝日が、埃を照らす。こんな朝っぱらから、あいつらは何をやっているんだ?
床の下から、桜歌とりるはの応酬が、くぐもって聞こえる。おそらく声の発生地はキッチン。
俺は目を擦りながら階段を下りる。ちなみに春休み中は、俺は朝食を用意しない。理由は明快。眠いからだ。
李なんて家を出るのは早朝だ。いちいちその為に俺まで早起きするんじゃ、貴重な春休みの意味が無い。一番布団が気持ちいい季節なんだからな。
「桜歌ちゃん邪魔しないでっ」
「邪魔なんかしてないわよ」
あーもう。どうもあの二人はいがみ合ってばかりだ。まだりるはがここに来て一日も経っていないのに、どうしてこうなる。
昨日の夜、結局りるはは、空き部屋に来客用の布団を運んで寝床とした。物置代わりに使っていた部屋だが、ちょっと前に掃除をしたので居心地は悪くないはずだ。
俺はリビングの扉を開ける。
二人はやはりキッチンにいた。フライパンを持ったりるはと、オレンジジュースのパックを抱えた桜歌が、互いに睨み合っている。
「お前ら何やってるんだよ」
俺が声をかけると、やっと俺の存在に気づいたのか、二人はびくっと肩を震わせてこちらを見る。
キッチンには、そこら中に味噌やらワカメやらパンやらご飯やらスープやらジャムやらなんやらかんやら。
本当に何をやっていたんだ?
「聞いてよお兄ちゃん。桜歌ちゃんが私の邪魔するのっ」
りるははフライパンを持ったまま、俺に駆け寄る。せめてその鉄の塊はどこかへ置いてくれないか。
「じゃ、邪魔?」
「そうだよ。私が朝ごはん作ろうとしてるのに、桜歌ちゃんが邪魔して、作らせてくれないの」
は、はあ。
くだらねえことでよくも喧嘩できますね。これでも二人とも、新高校一年生なのだろうか。
よく分からんが、おそらくよく分かる日なんて未来永劫来ないので、俺はため息をついて桜歌の方を向く。
「桜歌。お前あんまりりるはにつっかかるなよ」
いつもだったら桜歌もまだ寝てる時間だ。わざわざりるはの邪魔をしに起きてきたのだろうか。
桜歌は白い肌をかっと紅潮させ、持っていたオレンジジュースをどん、とテーブルに置く。
「……なんでよ」
「いや、なんでって」
「なんでその子の味方するの?」
「味方なんて」
「あたしの言い分、まだ聞いてないじゃない。なんであたしにだけ注意するのよ」
……む。それを言われると、困る。正直、痛いところではある。すまないとは思っている。
「あたしだって朝ごはん作ろうと思っただけなのよ。でも、この子がどうしてもキッチンを譲らないから、だからなのよ」
「う、うーむ」
そもそもお前料理なんてできないだろ、というのはこの際置いておいて。まあ確かに、いきなり桜歌を責めたのは悪かったかもしれない。
一応さあ、ほら、まだりるははお客様感が抜けないというか。だって昨日の今日だぞ?実の妹とはいえ十年会ってないんだぞ?
りるは側は「お兄ちゃん♡」って感じで、なぜか距離は近いが、それもぶっちゃけ対応に困る、といいますか。こちら側がどういうノリを取ればいいのか分からない。
正直言って、りるはに強い言葉は使えない。
それに対して桜歌は、義理とはいえ八年一緒に暮らしているわけで。ついつい桜歌に矛先が向いてしまうのは、しょうがない事なのだった。
とはいえ、そんな心の機微を分かってくれと言うのも、ナンなので。
「ま、まあ確かにそれは悪かったよ。でもその、なんだ。りるはもまだこの家に慣れてないわけで……」
歩み寄る姿勢が大事だ。
そう思って、二人に歩み寄った。物理的に。
足の裏に、ぬめっとした感覚が走る。まずい。そう思ったときには遅かった。摩擦係数は低下し、俺の足はぬめりけの上でスライドし、とにかく俺は盛大に滑った。
世界が回る。咄嗟にテーブルに手をつこうとして、それがさらなる不公平の種だった。
さきほど桜歌が置いたジュースのパックに手がかかり、口の空いた1000mLのオレンジジュースは傾く。
そのまま床と熱烈なキスをした俺の頭の上に、降り注ぐオレンジジュース。まだ不幸は終わらない。
たまたま転んだ先がりるはの足元で、驚いた彼女は持っていたフライパンから手を離してしまった。俺の後頭部に降ってくる鉄の塊。
ゴン、と鈍い音がする。
なんたる不幸。昨日できたたんこぶにクリティカルヒットした。
「ね、ねえ、大丈夫なの?」
「お兄ちゃん、生きてる……?」
事実、数秒間意識が飛んだような気がする。
鈍器で殴られたような……いや実際そんな感じなんだけど、とにかくそんな痛みがじんわりと頭全体に広がっていく。
のろのろと起き上がって、俺は足の裏を見る。べったりとまとわりつく、淡い薄透明のゼリー状のこれは。
「あ、ごめん。りんごジャム落としたままだった」
……りんごジャム。
ふつふつと怒りが湧き上がる。最初はマッチ棒程度だった怒りの火が、冷静になるにつれてどんどん木がくべられていく。
痛いし、ベトベトだし、眠いし。
そのとき、頭から被ったオレンジジュースが背中をつーっと伝った。ひいいい。僅かにとろみのある液体が、肌を走る。鳥肌が立った。
「お前ら……」
立ち上がった俺に、桜歌とりるはは気まずそうに視線を逸らす。
「頼むから、朝飯くらい協力して作ってくれ!」
俺はシャワー浴びに行ってくるから。そう言い残し、俺はリビングを去る。怒りより、甘ったるいベタつきの不快感が勝った。
やれやれ。ほんと、とんでもない朝になった。




