第17話 幸福の、なんとか
人はいつか死ぬってこと、気づいたのはいつ頃だろう。少なくとも、五、六歳くらいのときには知っていたんだと思う。
パパが死んだの、覚えているから。
ある日、お母さんから、
「パパね、病気なんだ」
と、改まった顔で話されて、それからはすぐだった。正直、そのときの生々しい感情はよく覚えていない。泣いたとは思うけれど。
李なんかまだぽかんとして、よく分かっていないみたいだった。というか、あのときちゃんと理解してたの、あたしだけだったんじゃないかな。
それから、お母さんはたくさん、仕事をするようになった。家にいない時間が増えて、あたしが妹らの面倒を見る時間が増えた。
李をいじめる胡桃を叱ったり、小梅の着替えを手伝ったり。散らかしたおもちゃを片付けるのも、洗濯物を畳むのも、あたしの仕事だった。
別に、やれって言われたわけじゃないけど。でも、忙しそうなお母さんを見ていたら、やらなきゃいけないような気がしたのだ。
李が慣れない自転車で転けて、膝を擦りむいて泣き出して、そのときあたしは、李をおぶったまま、二人分の自転車を押して帰った。
よろけて歩きながら、ふいに泣きそうになったのを覚えている。でも、泣いてもどうにもならないことも知っていた。あたしはお姉ちゃんだから。四人姉妹の一番上で、一番お姉ちゃんだから。
お姉ちゃんなら、お母さんの役に立たないといけない。しっかりしていないといけない。泣いてはいけない……。はずだったのに。
ある日、お兄ちゃんができた。
あたしのひとつ上。無愛想で、なんだか怖い。
そして、お父さんもできた。
優しそうな人だったけれど、あたしはなにそれ、と思った。あたし、お姉ちゃんだったんだけど。お母さんの役に立とうと思ってたんだけど。
あたしがダメだったから、お母さんは新しいお父さんを連れてきたのかな。
意外とすぐに受け入れてる他の姉妹が憎らしくて、わざと嫌な態度をとっていた。父の日なんて、ふざけるな、と思った。
誰もあたしのことなんか分かってくれない、と思って、家を飛び出した。
無我夢中で走って、気づけば近くの公園に来ていた。その中にある小高い丘でうずくまって、顔を覆って泣いていた。
ふと、手の隙間から、三葉のクローバーが見えた。その丘は、シロツメクサで覆われていたのだ。
気づかなかったな。ふとそう思ったとき、
***
「おい」
後ろから、声が聞こえた。
桜歌は振り返る。
「……なんで分かったの?」
桜歌の不機嫌そうな声に、桜歌の義理の兄―妹尾空翔はため息をついた。
「なんとなく、だ」
りるはが心配してたぞ。空翔の言葉に、桜歌はむっとする。りるはりるはって。
「夕飯までには帰るって言ったじゃない」
「別に、それを信じていないわけではない」
「じゃあ何しに来たの」
空翔はそれには答えず、シロツメクサの茂る丘を、しげしげと見回す。いつも通りの地味なスウェット。ポケットに手を突っ込んで、だらしない立ち姿だ。
「何探してたんだよ」
どうやら、桜歌が家を出た理由は、すでに勘づいているようだった。
意地を張ろうか、いやしかし。
そんなことしても、意味ないかな。桜歌はぼんやりと思う。急に自分がしていることが恥ずかしくなってきて、ついたため息が熱かった。
「キーホルダー、探してるのよ」
「キーホルダー?こんなとこで?」
「うん。ここ、よく来るのよ。学校帰りとかに。カバンにつけてたやつだから、もしかしたらここに落ちてるかもって」
空翔は首を傾げる。
「それが、俺と何か関係あるのか?」
あるよ。
桜歌は、心の中で舌打ちをした。やっぱり、見透かされている。
りるはの出した写真を見て、思った。これではだめだと。誕生日に貰ったリボンでは、勝てない。
こんなくだらない勝負に拘泥するなんて、自分でも情けないと分かっている。でも、どうしても負けられないのだ。
桜歌は拳を固く握りしめた。
「覚えてない?」
「え?」
「四つ葉のクローバー」
空翔は数秒間、記憶を探るようにどこか遠くを見ていたが、少ししてああ、と小さく声を上げた。
「まだ持ってたのか。あんなの」
あんなの、じゃない。
あの日、うずくまっていた桜歌に、空翔が差し出したのは四つ葉のクローバーだった。てっきり怒られるのだと思っていた桜歌は、拍子抜けし、泣くのも一瞬忘れてしまった。
なんで、と聞いても、拾ったから、としか返ってこなかった。
「これあげるから、泣き止んでくれ」
そんなことを言われて、年下扱いされているなと思った。そして気づいた。年下なのだ、自分は。
なぜか分からないが、家に帰ろう、とすんなり思った。
ぎこちなく差し出された空翔の手を握って、並んで帰っているとき、恐る恐る聞いた。
なんで探しに来たの、と。
うーんと悩んだ後に、
「兄だからなあ」
と、ぶっきらぼうに返された。
すとん、と何かが自分の中で落ちたようだった。
頼っていいのかな、この人に。
貰った四つ葉のクローバーは、ラミネートしてキーホルダーにした。出来は拙いし、もう随分変色してしまっているけれど、ずっとカバンに付けていたのだ。
「諦めたほうがいいんじゃないか。そこにあるっていう確証もないんだろ」
「うん……」
「そもそも、お前だって分かってるだろう。りるはは別に、本気で勝とうとしてるわけじゃない。単にお前とじゃれあいたいだけだ。勝負なんて単なる口実だろう。マジになる必要なんてない」
分かっている。それでも。
桜歌と空翔以外、人はいなかった。空がオレンジ色に染まり始め、生暖かい春の風が頬を撫でる。
諦めのような、甘えのような、そんなものが桜歌の喉をするりと抜けた。否応もなしに、本音が漏れ出る。
「悔しかったの」
「……なにが」
「写真、見たときに、悔しいって思った」
「りるはのやつか?」
桜歌は頷く。
「なんで、あんなので」
だって。桜歌の語気が強くなる。
「あたし、あの姿のあんた、知らないんだもん。ぶっちゃけ、楽勝だって思ってたの。あたしの方があんたと長く過ごしてるから。でも……。あたしと出会う前のあんたって、赤の他人だったのよね。全然、なんにも、あたしのことなんか知らない人だったのよね。そういうの、なんか、実感しちゃって」
空翔は困惑している様子だ。ポケットから出した腕を胸の前で組んで、何やら難しい顔をしている。桜歌の言っていることが、よく分からない。そんな顔だ。
「今は、桜歌のこと知ってる」
「……うん」
「それに、りるはは知らないだろう。俺が桜歌と出会ってから、今までのことは。おあいこじゃないか」
まあそもそも、なんでそこまで俺との思い出に拘ってるのか、よく分からないが。そう呟いて、空翔は首を捻っている。
拘るよ。好きな気持ち、負けたくないんだもん。桜歌は、心の中でそう思う。
一番、空翔のことを分かっていたい。
「けど、見つからないもんは仕方ないだろう。夕飯までに帰るって約束だしさ」
桜歌は口を噤む。頭では理解していても、どうしても頷けなかった。
空翔は黙り込む桜歌をじっと見ていたが、ふと足元を見たかと思うと、小さく声をあげ、その場にかがみ込んだ。
そして、
「こういうのはどうだ」
何かを摘み取ったかと思うと、それを桜歌に差し出す。
困惑しながらも受け取ると、
「四つ葉のクローバー……?」
傷ひとつない、変色もしていない、きれいな四つ葉。手のひらに乗せて、桜歌はまじまじとそれを見る。
「今、見つけたの?今ここで?」
「ああ。なんか、たまたま足元にあったんだ」
うそ、と漏れた言葉に、嘘じゃない、と空翔は笑う。
「これ、またキーホルダーにすればいいだろ」
そう言って、柔らかく微笑む。桜歌の喉がきゅっと鳴った。
「……うん」
新鮮な感動が、胸の中にわだかまっていた感傷を、さらりと洗い流してしまった。桜歌は、自分でも意識しないまま、こくりと頷いていた。
「桜歌がなにに拘っているのかは、よく分からないけど。なんというかまあ、りるはも結構、あれで色々と考えているやつだと思うんだよ。でも、桜歌のことは気に入ってるみたいなんだ。だからあいつと、これからも仲良くしてやってくれ」
言われなくたって。
「兄面って感じ。なんか上から目線」
「実際、兄なんだから仕方ないだろ」
桜歌は、四つ葉のクローバーを丁寧にポケットに忍ばせて、空翔とともに帰路に着く。
先を歩くのは、空翔。あの頃は桜歌と大差なかった背丈が、今ではひと回り以上大きい。ふと、灰色の背中に、本音をぶつけてしまいたくなった。




