第15話 幸せな日
「お前そんな口聞いて、タダで済むと思ってんのか?」
「元はと言えば、あんたが無理やり引っ張ったんじゃないっ」
「黙れブス!」
「うっさいわね、カス」
何やら低レベルな争いを繰り広げているのは、他でもない、うちの妹だった。
一階エレベーターの横の、休憩スペース。ソファがいくつか並んでいるその場所で、桜歌とその男性は睨み合っていた。
何やらチャラそうな男である。黒髪と金髪が混じりあったその髪型は、彼が生きている世界ではイケているとされているのだろう。じゃらじゃらとした銀のアクセサリーに、だるっとした服は上下黒。
見るからにワルってんでも無さそうだが、大学生だろうか。
その男は、桜歌の腕を掴んで、よく分からないことを喚いている。桜歌も負けじと言い返す。そしてその後ろで、半泣きで止めているりるは。
あーあー、もう。
静観しているわけにもいかないので、エレベーターを下りた俺は、えいや、とその場に踏み出した。
「うちの妹がどうもすみません〜」
桜歌の手首を掴むその腕を、俺は軽く握る。不意をつかれたその男は、ぎょっとした顔で桜歌を離した。
「あ、あんた……」
桜歌はいきなり現れた俺に、目を見開く。なにやってんだ、と責め立てたい気持ちを抑え、
「えっと、うちの妹がなにか……」
努めて穏やかに、男性に話しかける。が、そいつは俺の姿を認めると、気まずそうに顔を歪めてその場を去っていった。特大の舌打ちとともに。
なんなんですか、あいつ……。
「お兄ちゃあ〜ん」
よろよろと抱きつくのはりるはだ。怖かったあ、と訴える彼女の背中をさすりながら、何があったのかを聞くと、
「……ナンパ?」
こんなとこで?
二人は頷いた。
「一緒に遊ばないかって、誘われたのよ」
腕を組んでふんぞり返った桜歌は、どうやらまだ怒り心頭だ。ふん、と鼻を鳴らし、
「もちろん断ったけどね」
「でも、なかなか諦めてくれなかったんだよ」
りるはが言うには、いくら断っても手を替え品を替え、引き下がる様子は無かったとのこと。しまいには桜歌の腕を掴み、無理やり連れていこうとしたんだと。
「そしたら桜歌ちゃんがブチ切れて……」
「それでああっなったと」
二人は頷いた。
俺はため息をついた。
二人の話を信じるとしたら、全面的にあの男が悪い。立ち去る前に、一言くらい謝らせたかったと思う。しかし、
「頼むから、あんまり突っかかるなよ」
桜歌にそう言うと、彼女の形の良い眉がぎりぎりと釣りあがった。
「なんでよ、あたし何も悪くないっ!」
「ああ、悪くないよ。桜歌は何も悪くない」
「あいつが悪いの。あいつがしつこいから。あたしは言うべきことを言っただけよ。何もせずにただ怯えてるだけなんて、あたしはできない」
でも怖かったよお、とりるはは涙の溜まった目で桜歌を見る。その手には、ワンピースのほか、淡いピンクの紙袋が握られていた。
俺は桜歌の目を見る。真っ直ぐ見つめると、彼女は顔を赤くしてたじろいだ。なによ、と掠れた声がこぼれる。
「心配なんだよ」
「え?」
「今回は良かったけど、次はもっと怖い相手かもしれない。それこそ、本当に冗談が通じないような奴かもしれないだろ。そういうときに、逆上されたらどうする」
「……酷いこと言われて、黙ってろっての」
「なるべく、穏当な対応をしてくれ。桜歌に嫌な目にあってほしくないんだ」
「無理やり、連れていかれそうになったら?」
「そのときは……そのときは、俺が助けに行くよ」
「……ほんとに?」
「本当だよ」
桜歌は口元をもにょもにょさせながら、か細い声で、
「分かった」
桜歌の気高さが好きだ。年上の男に怯まずに立ち向かう強さも、好きだ。しかし、兄としては心配だ。
「ごめん。すぐに駆けつけられなくて」
今目の前にいる桜歌にも、りるはにも、そして遠いあの日の桜歌にも、りるはにも、全部あわせて謝る。
桜歌の瞳が少し赤くなって、喉からうぅ、と掠れた声が聞こえた。
「ばかぁ」
***
「そういや、勝負はどうなったわけ?」
桜歌の声に、りるはの顔が硬直する。
「わ、忘れてた……」
「ほんと、散々な一日だったわね」
動物園も弁当も映画も上手くいかないし、変な男に暴言吐かれるし。桜歌がそう吐き捨てる。
ショッピングモールを出ると、外は微かに薄暗くなっていた。東の空は既に群青に染まっており、星がちかちかと瞬いている。
俺の手には夕飯の弁当と、そしておやつのドーナツ。胡桃は喜ぶかな。
二人は俺の前を歩いている。駅までは徒歩一分程度、歩道橋を渡ってすぐだ。
「お兄ちゃんのこと、全然癒せなかったよ。むしろ、迷惑ばっかかけてるよね」
ごめんね、と振り向きかけたりるはの首が、四十五度あたりで固定される。その横顔は、惚けたようにぼうっと緩んでいる。
桜歌とともに、りるはの視線の先を見る。
「……!」
息を飲んだ。
燃えるような夕焼けだった。遠くに見える太陽は、まるで宝石のよう。広い西の空が、果てしなく伸びていく線路が、敷き詰められた家々が、熱を持ったオレンジ色に染まっている。
「綺麗……!」
りるはの口から、ぽろりと漏れる。俺と桜歌は、ゆっくりと頷いた。
夕焼けから目を離して、一瞬だけ、二人の横顔を盗み見る。
十分癒されてるよ。
心の中でそう言う。
別に特別なにかしてもらわなくたって、そうだ、俺は超シスコンなのだから。こういう何でもない休日を一緒に過ごせるだけで、十分幸せなのだ。
「帰ろうか」




