第14話 ノーブラ、ノーライフ
「ねえ、なんであんたブラしてないの?」
ぴしっ、と。空気の凍る音が聞こえたような気がした。
「あ、が、が……」
胸を鷲掴みにされたまま、りるはの喉がひくひくと震える。轢き潰されたカエルのようなうめき声が、漏れていた。
引きつったその顔が、徐々に赤みを増していく。
「なんであんたブラ……」
「お、おおお桜歌ちゃん、声、声っ」
懲りずにリピート再生しだす桜歌に、りるはは慌てて人差し指を口の前に掲げた。
桜歌は、はっと周りを見回す。見たところ、近くにいるのは俺たち三人のみ。安心した様子でほっと胸を撫で下ろすと、
「ねえ、なんで付けてないわけ?」
店内には響かない程度に―しかし俺には届くほどの声量で、こそっとりるはに尋ねた。
「うう……」
艶のある黒髪から、真っ赤に染った耳がちらりと見える。若干半泣きで、くしゃくしゃになったその顔は、まるで干しぶどうのようだ。
……ちょっと例えが悪かったかな。
とにかく、それくらい憔悴しきっている、ということだ。
「持って、ないんだよぉ」
「持ってない?ブ……らを?」
桜歌は、いきおい上がった声のボリュームを、すんでですんと下げる。
遠慮がちに頷いたりるは。
「そんなことある?今まで付けたことないってこと?」
「う、ううん。ジュニア用のは、付けてたんだけど。去年くらいから、なんか入らなくなって」
「それで、ノーブラってこと?」
「ま、まあ。そうなります」
桜歌ははあ、とため息をつき、呆れ返った様子で腕を組む。
「なんで新しいの買わないのよ?」
「だ、だって、買い方とかよく分かんないし。なんかちょっと。その、恥ずかしいし」
「付けてない方が恥ずかしいに決まってるじゃない!?」
彼女らのやり取りは、意識せずとも俺の耳に流れ込んでくる。
俺は試着室から数歩ほど離れ、商品を物色しているフリを決め込み始めた。
そりゃ、りるはの現状に、思うところがないでもないけれど……。
いかんせんそっちの知識はないもので、なにか口出ししようものなら、恐らく双方向から侮蔑の眼差しで見られるに違いない。
ここは、他人事を徹底するのが正解であり、気遣いであろう……。どうかそうであってくれ。
そんなことを考えながら、並べられたジーパンの色味を、眺めたりする。
「でも、私そんなに大きくないし……」
「それでもあたしよりは大きいじゃない。もしかして、さっきの生地がどうとかってのは、透けるからってこと?」
「……うん」
「厚手のベスト着なきゃ透ける状態なんて、健全なわけないじゃない。あーもう、やたらいつも野暮ったい格好してるな、とは思ってたのよ。そんなことなら、早く言いなさいよね」
それ、サイズは合ってたんでしょ?桜歌はワンピースを指さして聞く。りるはは力なく頷いた。
「じゃあ、さっさと買ってきなさい。今すぐにね」
そう言って、りるはをレジへ向かわせると、くるりと振り向いて俺を見た。
「ちょっと急用ができたから、悪いけどそこらへんぶらぶらしててくれない?用事が終わったら連絡するから、待ち合わせしましょ」
急用。
「へいへい。了解」
会計を済ませたりるはが、ワンピースの入った紙袋を引っさげ、遠慮がちにこちらを伺っている。
「じゃ、行きましょ」
「ど、どこに?」
「決まってるじゃない。あなたの下着を買いに行くのよ」
戸惑うりるはの手を引いて、桜歌は大股歩きでその場から去っていく。小さくなっていく二人の背中は、まるで仲の良い友達同士みたいだ。
……さて、俺はどうするか。
置いていかれてしまったわけだが。いや別に、ついて行きたかったわけでもないのだが、な。
これといって買うべきものもないし、そうだなあ、本屋でも覗こうか。
数年前に近所の本屋が潰れて以降、このショッピングモール内にある書店が、この辺りでは最も規模の大きい店になる。
五時を過ぎ、モール内は少し落ち着いてきたようだ。階下に見えるフードコートも、空席が目立っている。ふと、そこに見慣れぬ店があることに気づく。
ドーナツ屋だ。
ああ、もしかしてあれが、先日胡桃が言っていたやつだろうか。桜歌らと合流した後、夕飯の弁当と一緒に人数分買って帰ろう。
そんなことを考えながら、本屋の前に到着。入口付近には、話題の新刊がずらりと積まれてあった。
何やら小難しい政治の本に、アニメ調のイラストが描かれたライト文芸、鉄道旅のガイドブック……。
特段気を引くものもなく、俺は目の前にあった文庫本を開いてみる。
「けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」
何やら懐かしい文言が目に飛び込んでくる。そういやこれ、中学の頃にやったなあ。
ふむ。どうやらこの本は詩について論じているものらしい。これが、どのような文脈で引用されているのかはよく分からないが。
分かったような分からないような、ふんふんと首を振りながらぱらぱら立ち読みをしていると、
「妹尾か?」
後ろから声をかけられた。
振り向くと、手を振っているのは短髪の男子。通っている高校の同級生だった。
「おお、おっす」
俺は持っていた本を書棚に戻し、彼の方へ向き直る。立ち読みしていたのがこの本で良かったな、と思う。知的に見えただろうか。
「一人か?」
短髪の彼が聞く。
「いんや、妹と」
ほおん、と興味無さそうに返された。お前は?と尋ね返すと、
「家族と待ち合わせだよ。今日の夜、この下で食うんだ」
この下。一階のレストラン街のことだろう。
彼は制服を着ている。部活帰りだろうか。春休みだというのに、ご苦労なこった。
俺は妹と。彼は家族と。さらりと言ってのけたことに、僅かな成長を感じる。数年前までは、家族と一緒だなんて、友達には死んでも知られたくなかった。
羞恥心が薄れたのはいつからだろうか。
「しっかし、お前ほんと妹と仲良いんだな」
「そうか?」
彼は頷く。
「たまにお前の話聞くけど、いつも思うよ。俺も妹いるけど、一緒に買い物とか有り得んわ。兄妹仲悪いしさ」
俺は苦笑した。
「別に、うちだって特別仲がいいってわけでもないさ。ただ、親が海外行ってるからさ、どうしても色々と世話を焼くことがあるというか……」
「世話を焼く?」
「ああ。飯作ったり、帰りが遅い時には迎えに行ったりとかさ」
彼はぷっと吹き出した。小馬鹿にしたような笑みに、俺は少々むっとする。
「めちゃくちゃ献身的じゃねえか。やれやれ系気取ってるくせして。なんか、お前もしやシスコンか?いや、いい意味でな。いい意味で」
いい意味でシスコンとは。
彼は腕時計に視線をやったあと、スマホから携帯を取り出し、ちらりと確認する。
「ああ、もう着いたみたいだ。んじゃ、な」
右手を掲げて去っていく彼に、俺も手を振り返す。
今年は同じクラスになるだろうか。久方ぶりに学校のことを考える。春休みは生活が妹に蝕まれがちで、学生としての本分を忘れてしまう。
シスコンかあ。
先ほど言われた彼の言葉を反芻すると、俺の脳裏に浮かぶのは、懐かしい記憶だった。
四人の姉妹と家族になったばかりのこと。俺は桜歌とともに、このショッピングモールに来ていた。確か両親も一緒で、しかし何かの拍子に俺たち二人だけになってしまったのだ。
まだ親しさなんて欠片もなくて、俺たちはぽつぽつと会話をしながら両親が戻ってくるのを待っていた。
そのとき、偶然ばったりと、同級生の集団と鉢合わせてしまったのだ。向こうは友達同士で来ていたようで、ゲームセンターで手に入れたのであろう、でかいぬいぐるみなんかを抱えていた。
ショッピングモールに、
向こうは友達と。俺は妹と。
恥ずかしかった。しかも、桜歌は当時、妹になりたてほやほや。小学生なりに複雑な感情があったのだ。
「これがぼくの新しい妹です」
なんて紹介する気もさらさら起きず、そもそも妹と一緒にいること自体がどうも知られたくなくて、結局俺がどうしたかと言うと。
撒いたのだ、桜歌を。
俺はそのまま友達と一緒にふらふらと歩き、撒かれた桜歌は一人になった。
当然、その後親父にこっぴどく叱られた。当たり前だ。罪悪感も湧いた。でも、「お兄ちゃんだろ?」と言われ、桜歌は本当の妹じゃないのに、とも思った。
古い記憶だった。その時に俺たちがいたおもちゃ屋さんも、とうの昔に別の店に変わってしまった。
ちょうどこの辺りだったよな、なんて考えながらぶらぶら歩いていると、桜歌からメッセージが来る。
"用事"とやらが終わったのだろう。一階のエレベーター近くのソファで待ち合わせとのことだ。
俺は思い出の余韻を引きずりながら、桜歌らに会いに行く。エレベーターに乗って、待ち合わせ場所まで向かっていると、
「おい、ふざけんなよ」
何やら下の方から、男性の怒鳴り声が聞こえる。周囲の人々は、迷惑そうな顔で階下を覗き込んでいる。
「何度も言ってるじゃないっ」
続いて聞こえた張り上げた声は……桜歌のものだ。小さく、りるはの声も聞こえる。なにやってんだ、あいつら。
俺は歯を食いしばって、走り出した。




