第8話:崩壊する日常
翌朝、教室を支配していたのは、昨日の穏やかな時間とは対極にある、凍り付くような沈黙だった。
ざわめきの中に、聞き捨てならない言葉が混じる。
「……マジかよ」
「山田の奴が……まさか、いったい誰が?……」
青い顔をして入ってきた担任が、掠れた声で告げた。
――昨夜遅く、阿波流川家の裏山に通じる神社の鳥居の近くで、山田ミナさんが遺体で見つかった、と。
――ミナ?
昨日、あの見晴らし台で笑い合い、心を重ね合ったばかりの、ミナが。
血の気が引く俺の視線の先で、クラスの隅に座る阿波流川博が、狂気に満ちた目を血走らせてこちらを睨みつけていた。
その視線を見た瞬間、背筋が凍るような確信があった。
昨夜、見晴らし台で俺たちが重なり合っていたとき、ふと闇の向こうで気配を感じ、その後すぐに慌ただしく走り去る足音が聞こえていた。
あれは恐らく博だったのだ。あの夜、逃げるように姿を消した博は、一晩かけて狂気を煮詰めていたのだ。
「よくも……! よくも俺の目の前で、俺のミナを汚してくれたな、外様がっ!」
放課後、人目のない校舎裏の古びた渡り廊下。待ち構えていた博が、数人の手下を引き連れて俺の前に立ち塞がった。その顔は嫉妬と怒りに歪み、もはや理性の光のかけらもない。
これは村の粛々とした儀式のための捕縛などではない。好きだった女を奪われた絶望と、昨夜の密会を目撃した屈辱に狂った男の、私的な殺意の暴走だった。
「ミナを殺したのはお前だな! 逃がすか、ぶっ殺してやる……!」
博の怒号を合図に、旧家の手下たちが一斉に襲いかかってきた。
教室から廊下へ、そして校舎の外へと飛び出した俺を、阿波流川家の手下たちが容赦なく追いかける。
山道のあちこちに見張りが立ち、「あそこにいるぞ! 殺せ!」という博の絶叫が木霊した。
山中を全力で駆け抜け、裏手の斜面へと飛び出した瞬間、背後から木の枝や石つぶてが容赦なく投げつけられた。
「ぐっ……!」
足を踏み外し、苔むした斜面を転げ落ちる。擦り剥いた膝や手のひらから血が滲むが、振り返る暇すらない。立ち上がろうとした視界の先ですでに、手下たちが藪をかき分けて迫ってきていた。
山道へ逃げ込もうにもあちこちに網が張られ、「あっちに逃げたぞ! 包囲を縮めろ!」という怒号が四方から重なる。
肺が焼き切れるように熱く、呼吸のたびに喉の奥が鉄の味で満たされた。
足は鉛のように重く、幾度となく木の根につまづき、そのたびに泥まみれになりながら這い上がる。
冷や汗が全身を流れ落ち、恐怖と疲労で意識が遠のきそうになる。それでも「ここで止まったら、あの博の狂気に殺される」という恐怖だけが、狂ったように足を動かし続けていた。
太陽が山の向こうへと沈みかけ、薄暗い森の陰が不気味な魔物の形相を帯び始める。
山奥深く、電波すら届かない深い樹林帯へ追い詰められた俺の前に、ついに血走った目を光らせた刺客たちが立ちはだかった。
「もう逃げ場はないぞ、外様め。博さんの命令通り、その首を置いていけ!」
男たちが容赦なく凶刃を振り下ろす。追い詰められた俺が踏ん張ったその時、追っ手の背後からもう一人の人物が歩み寄ってきた。
姥井山守だった。彼は冷ややかな目を向けたまま、刺客たちを制するように片手を挙げる。
「おい、博はどこだ?」
「守さん……。博さんは『自らの手で外様を八つ裂きにする』と、別の斜面から先回りしておられます」
部下の報告を聞き、守はやれやれといったふうに小さく息を吐いた。
実は今朝、博から「一緒にあの外様をぶっ殺してくれ」と狂ったように協力を迫られていたのだ。だが、守はそれを一蹴していた。
「……やれやれ。あいつは一族の計画の道具でしかない外様に、個人的な嫉妬の私刑なんて私情を挟み込みやがって。そんな見苦しい暴走に付き合う気はないと、あれほど断ったのに……。まったく、これだから頭に血が上った男は救えない」
守は呆れ果てたように吐き捨てると、興味を失ったかのように背を向けた。
「勝手にしろ。ただし、儀式の生け贄としての価値まで損なうような真似は許さん。……殺さない程度に痛めつけておくんだな」
冷徹に言い残し、守はその場から去っていく。
だが、守が去ったところで状況が好転するわけではない。狂気に囚われた刺客たちの刃が、容赦なく迫ってくる。
絶望の中、死を覚悟したその瞬間――。
「させません!」
暗闇の茂みから、一筋の影が飛び込んできた。
田中サヤだった。彼女は全身に泥を纏いながらも、自らの身体を盾にして俺の前に立ちはだかった。
鈍い肉の裂ける音が、静まり返った森に響く。
刺客の振るった刃が、サヤの背中深くまで突き刺さっていた。
「サヤ……っ! なんで……!」
崩れ落ちる彼女を慌てて抱き止めると、サヤは鮮血に濡れた口元を微かに震わせ、苦しげに微笑んだ。
「……変なことばかり言って、怖がらせてごめんね。本当は、あの変な宗教のノリも……全部、あなたをあの連中から遠ざけるための芝居だったの……」
サヤの目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「でも、本当は……あなたと一緒にいたかった。あなたと過ごす時間は、私にとって、たった一つの救いだったから。……だから、お願い。私を置いて、あなただけでも生きて……!」
力なく彼女の手が落ち、サヤは冷たい森の土の上に静かに息絶えた。
あふれ出る涙を乱暴に拭い、俺は彼女の温もりが残るその場から、狂ったように再び山奥へと走り出した。




