第9話 全員が望んで署名した
警告音は鳴りやまない。
魔導具の盤面に浮かび上がった血のような赤い文字が、私の目を焼いた。
『緊急事態。王都の三つの大病院にて、暖房用魔導炉が同時停止。外気温氷点下』
「ノエラ、これはどういうことだ」
ダリオの低く冷静な声が、凍りついた私の思考を揺さぶった。
「イリヤさんの契約の受益者は『王都施設群』でした。私が彼女の寿命の徴収を緊急停止したことで、王都の病院へ送られるはずだった魔力供給まで、完全に絶たれてしまったんです」
声が震えた。
病院には、自力で体温を保てない重症患者や幼い子どもたちがいるはずだ。私がイリヤ一人の命を救うために切った糸は、遠く離れた王都で、何百人もの命を雪の夜に放り出す結果を招いてしまった。
「……止まったの……?」
背後から、ひび割れたような声がした。
振り返ると、長椅子に横たえていたイリヤが、虚ろな目を開けて上体を起こそうとしていた。ダリオがすぐに駆け寄り、背中を支えて温かい茶の入った杯を彼女の手に握らせる。
「ゆっくり息をしろ。お前の命に関わる異常な代価徴収を、監査院の権限で一時停止した」
ダリオが事実だけを簡潔に伝えると、イリヤの皺だらけの顔が絶望に歪んだ。
「契約を、止めてしまったのですね……」
助かった安堵など、そこには微塵もなかった。彼女の目から、枯れ果てたはずの涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「どうして……どうして止めたんですか。あと少しだったのに」
「イリヤさん。あのままでは、あなたはここで老衰して死んでいました。いくら本人の同意があっても、あんな致死量の徴収は見過ごせません」
「死んでもよかったんです!」
イリヤが叫んだ。その声の大きさに、彼女自身がむせ返る。
「南部の村が……今年、どれほど不作だったか知っていますか。子どもたちは雑草を煮て食べ、お年寄りは口減らしのために雪山へ入ろうとしていた。村の三百人がこの冬を越すには、莫大な金が要るんです」
彼女は、握りしめていた契約書を自分の胸に押し当てた。
「この南部の鉱山で採れる『青鉱石』は、王都の魔導炉を動かす最高の燃料です。でも、精製には莫大な魔力が必要になる。私たちのような魔力を持たない平民は、自分の『寿命』を魔力に変換して炉に注ぐしかない」
私は息を呑んだ。
寿命を対価にする魔法契約が存在することは知識として知っていたが、それを労働の対価として、国が平民と結んでいるなど聞いたことがなかった。
「財務院が提示した報酬は、村全体が十年は遊んで暮らせるほどの額でした。だから、私たち若者三十人が志願したんです。村を救うために、自分たちの寿命を売ると決めて、全員で署名したんです!」
私はイリヤの震える手から、そっと契約書を受け取った。
監査の力で、インクの下の真実を読む。
黒い糸は、なかった。
誰かに騙された痕跡も、偽造された形跡もない。過剰徴収を示す赤い糸の奥にあったのは、銀色に輝く正当な同意の光だけだった。三十人の若者が、自分たちが老いて死ぬ恐怖を完全に理解した上で、それでも家族を救うために、一つ一つ力強く書き込んだ本物の署名。
『搾取は、隠されて行われる』
十三年間、教会で偽聖女と呼ばれ、第一部で隠された奇跡の嘘を暴いた私は、どこかでそう信じ込んでいた。権力者が弱者を騙すから悲劇が起きるのだと。
だが、現実は違った。
貧困という圧倒的な暴力の前では、人は自らの命すら喜んで差し出す。そして国は、それを騙し取るのではなく、ただ残酷なほど透明な取引として提示しただけなのだ。
「私は……」
契約書を持つ手が小刻みに震える。
私が「正しい」と信じて振り下ろした監査印は、彼女たちの崇高な自己犠牲を踏みにじり、村から生きる糧を奪い、さらには王都の無関係な患者たちを凍えさせている。
ダリオが、私の震える手に自分の右手を重ねた。
「自分を責めるのは後だ、ノエラ。今はまず、この状況をどう動かすか――」
ダリオが言いかけたその時、監査院の重い玄関扉が、外から乱暴に叩かれた。
ダリオが瞬時に私を背後へかばい、腰の剣へ手をかけながら扉を開ける。
吹き込む雪風とともに転がり込んできたのは、三人の男たちだった。彼らもまた、イリヤと同じ鉱山の作業着を着ている。しかし、その容貌はイリヤと同様に皺深く、白髪交じりの五十代、六十代に変わり果てていた。
二十二歳のイリヤと共に志願した、若き坑夫たちに違いなかった。
「イリヤ、無事か!」
一人が叫び、長椅子の彼女へ駆け寄る。
そして残る二人の男が、鋭い憎悪の目を私に向けた。
「あんたが、ここを取り仕切っている呪約師か」
「はい、私がノエラです」
私が前に出ようとすると、男の一人が血走った目で怒鳴りつけてきた。
「余計なことをしてくれたな! 王都への魔力供給が止まって、財務院から契約不履行を通告された! 報酬の支払いが差し止められたんだぞ!」
「今すぐ監査を解除しろ! 契約を再開してくれ!」
男たちは必死の形相で、私の足元にすがりつかんばかりに叫んだ。
「このままじゃ、村の家族が全員飢え死にするんだ!」
正しい監査を行ったはずの私は、私が救おうとした当事者たちから、絶対的な悪として断罪されていた。




