第10話 救えば、村が飢える
「今すぐ監査を解除しろ! 契約を再開してくれ!」
血走った目で怒鳴る男の言葉が、王立呪約監査院の玄関ホールに響き渡った。
吹き込んだ雪風の冷たさよりも、彼から放たれる圧倒的な絶望と怒りの熱に、私は思わず後ずさりそうになった。
ダリオが静かに私の斜め前に立ち、男たちとの間に見えない壁を作る。彼の右手は剣の柄にはなく、ただ自然に下ろされていたが、いざという時には即座に私をかばえる体勢だった。
「落ち着いてください」
私は震える声を必死に抑え、彼らと正面から向き合った。
「イリヤさんは限界でした。あのまま魔力を、寿命を吸い取られ続ければ、あと数分で彼女は命を落としていたんです。あなたたちだって同じです。二十代のはずなのに、そんなお姿になってまで……命より大切なものなんてありません!」
「命?」
男の一人が、ひび割れた声で嘲笑った。白髪交じりの頭を振り、皺深く刻まれた顔で私を睨みつける。
「誰の命だ? 俺たち三十人の命と、村に残った三百人の命、どっちが重いか教えてくれよ、呪約師様!」
怒号に、私は息を呑んだ。
「南部の土は痩せ切ってる。今年は記録的な不作で、冬を越すための麦すら育たなかった。子どもたちは空腹で泣き叫び、老人たちは口減らしのために自ら雪山に入ろうとしてるんだ。このままじゃ、村の三百人が春を迎えられずに飢え死にする!」
男は着古した作業着の胸ぐらを自分で掴み、ギリギリと歯を食いしばった。
「そんな時だ。財務院の役人が来て、王都の魔導炉を動かす『青鉱石』の精製に莫大な魔力が要ると言った。魔力を持たない俺たちでも、寿命を担保にすれば金になると。提示された報酬は、村全体が十年は食べていけるだけの額だった」
それは、隠された搾取ではなかった。
彼らは残酷なほどの真実を突きつけられ、その上で天秤にかけたのだ。
「俺たちは、納得して署名したんだ。自分たちが老いて死ぬと分かった上で、それでも家族に腹いっぱい飯を食わせるために、命を売ると決めたんだよ!」
別の男が一歩前に出て、私の足元にすがりつくように膝をついた。
「頼む……あんたが止めたせいで、契約不履行で報酬の支払いが差し止められちまった。このままじゃ、俺たちが寿命を削った意味がなくなる。残された家族が、全員飢え死にしちまうんだ。だから、再開してくれ……!」
私は、彼らにかける言葉を見つけられなかった。
十三年間、私は「隠して痛みを押しつける奇跡は間違っている」と信じてきた。本人の同意なき搾取を止めることこそが正義だと。
けれど、目の前の現実はどうだ。
貧困という圧倒的な暴力の前では、「寿命を差し出さなければ家族が死ぬ」という選択肢しかない。それは果たして自由な選択と呼べるのだろうか。
しかし、私がそれを「間違っている」と断じ、彼らの命を救うために監査の権限で契約を止めることは、彼らから生きるための唯一の手段を奪うことでもあった。
私が正しいと信じて振り下ろした監査印は、彼らの誇り高き自己犠牲を踏みにじり、三百人の村人を飢餓へ突き落とす暴力に他ならなかったのだ。
「……私は」
喉が干からびたように声が出ない。自分の無知と傲慢さが恐ろしかった。
「ノエラ」
ダリオが、私の肩にそっと左手を置いた。少しだけ不器用で、確かな温もりを持つその手が、崩れそうになる私の身体を支えてくれる。
彼は坑夫たちを見下ろさず、同じ目線になるようにゆっくりと膝を折った。
「あんたたちの覚悟は分かった。村を救うために、自分たちを差し出したことも。だが、今の流出速度は明らかに致死量を超えていた。契約を再開すれば、明日にはあんたたちは全員死ぬ」
「死んでもいいと言ってるだろうが!」
「俺が良くない」
ダリオの低く静かな声が、坑夫たちの怒声を制した。
「家族を救うための金なら、あんたたちが生きて持ち帰らなければ意味がない。監査院は、あんたたちの命も、村の生活も、どちらも諦めない方法を探す。だから今は、再開の要求は呑めない」
ダリオは私を庇って彼らを追い返すようなことはしなかった。坑夫たちの現実から目を背けず、それでも「死を前提とした契約」をよしとはしない、彼自身の強い意志を言葉に乗せていた。
坑夫たちが何かを言い返そうとした、その時だった。
執務室の奥から、再び通信魔導具の鋭い警告音が鳴り響いた。
ダリオと顔を見合わせ、私は急いで執務室へと駆け込む。盤面には、先ほどよりもさらに強い赤い光で、新たな文字が刻み込まれようとしていた。
『緊急報告。王都・東区第一病院より。魔導炉の完全停止により、病棟内の気温が氷点下へ低下』
私の指先が、冷たく震え始める。
『重症病棟にて、子どもを含む三名の低体温症患者が発生。心拍低下。このまま魔力供給が再開されなければ、一時間以内に凍死の危険あり』
呼吸が止まりそうになった。
私がイリヤの命を救うために寿命の流出を止めた。その結果が、これだ。
契約を止めたままにすれば、村の三百人が飢え、王都の病院で患者が凍え死ぬ。
かといって契約を再開すれば、イリヤや目の前の坑夫たちが、数日のうちに老衰して命を落とす。
どちらを選んでも、誰かの命が奪われる。
それが、私が初めて直面した「本人が署名した代価契約」の、逃げ場のない現実だった。




