第8話 二十二歳の老女
穏やかな約束を交わしたその日の夕刻。王立呪約監査院となった建物の玄関で、けたたましく鐘が鳴った。
急いで扉を開けると、雪混じりの風とともに一人の女性が石床へ倒れ込んだ。
「大丈夫ですか!」
ダリオがいち早く駆け寄り、彼女の上体を起こす。
ランプの灯りに照らされたその姿を見て、私は息を呑んだ。
着ているのは、南部鉱山の紋章が入った坑夫の作業着だ。だが、問題はそこではない。彼女の顔には深い皺が刻まれ、手は枯れ木のように痩せ細っている。誰が見ても六十を優に超えた老女だった。
しかし、彼女が震える手で差し出した身分証には、はっきりと『イリヤ・二十二歳』と記されている。
見間違いではない。彼女が一息つくたびに、残っていた茶色の髪が根元から真っ白に染まり、肌から急速に水分が失われていく。異常な速度で、彼女の『時間』が奪われていた。
「ノエラ、これは」
ダリオの険しい声に、私は彼女の胸元へ意識を集中させた。
見える。彼女の心臓のあたりから、空へ向かって一本の太い糸が伸びている。糸は赤黒く脈打ち、不気味なほどの速度で何かを吸い上げていた。急速に代価を徴収している契約の証だ。
「寿命が、奪われています。このままではあと数分で……」
私はイリヤの冷たい手を握り、彼女がもう片方の手で固く握りしめている羊皮紙に目を落とした。
それは契約書だった。
代価の欄には、極端に高い報酬額とともに『魔力供給の担保として、必要に応じ寿命を徴収する』という一文が明記されている。そして一番下には、イリヤ本人の署名があった。
「騙されたのですね。こんな条項が隠されていたなんて」
私が言いかけると、虚ろだったイリヤの目がカッと見開かれた。
「騙されて、なんかいません」
ひゅう、ひゅうと掠れた息を吐きながら、彼女は私の手を強く握り返した。
「寿命を売ると知って……私たちは、全員で署名したんです。これで、村の家族が、飢えずに済むから」
頭を殴られたような衝撃だった。
これまで私が止めてきたのは、本人が知らされないまま押しつけられた犠牲だ。しかし、目の前の彼女は、対価の重さを知った上で、自らの意志で命を切り売りしている。
契約に嘘はない。同意もある。
だが、このまま彼女が老衰で死ぬのを見過ごすことなどできない。
「ノエラ。どうする」
ダリオの冷静な声が、私を現実へ引き戻した。彼の灰色の目は、私に決断を求めている。
「止めます」
私は立ち上がり、執務室から監査院の新たな印章を取り出した。
「本人が望んだ署名だとしても、短時間で致死量に至る代価の徴収は、監査の対象になるはずです。少なくとも、この異常な流出速度は止めなければ、彼女はここで死にます」
「反動は来るか」
「来るかもしれません。でも、一人では読みません」
ダリオが力強く頷き、私の背中に右手を添えた。彼の体温が、震えそうになる私の心を支えてくれる。
私は印章を強く握り、イリヤの胸から伸びる赤黒い糸に触れた。
瞬間、凍りつくような冷気と、途方もない疲労感が私の腕を伝って流れ込んでくる。イリヤが奪われていた数十年の時間が、黒い濁流となって私の精神を押し潰そうとした。
「契約番号、三〇一四。代価負担者、イリヤ。受益者……王都施設群。生命維持を脅かす過剰徴収を認め、本契約の効力を一時停止する!」
印章から透明な光が放たれ、赤黒い糸に打ち込まれる。
ガラスが砕けるような鋭い音が監査院に響き渡った。
脈打っていた糸が弾け、生命力を吸い上げる動きがピタリと止まる。糸の色が危険な赤黒から、監査停止中を示すくすんだ灰色へと変わった。
私を襲っていた重圧も消え失せ、大きく息を吐き出して膝をついた。ダリオがしっかりと私の肩を支えてくれている。
「……イリヤ?」
ダリオが呼びかける。
イリヤの髪が元の色に戻ることはなく、刻まれた皺が消えることもなかった。失われた時間は戻らない。それでも、一息ごとに進んでいた老女化は完全に止まり、彼女の呼吸は穏やかさを取り戻していた。
命の危機は去ったのだ。
「間に合った……」
私は額の汗を拭い、小さく安堵の息を漏らした。本人の同意という壁はあったが、最悪の事態は防げた。監査院としての正しい処置ができたはずだった。
しかし、その安堵は一分も続かなかった。
執務室の奥、王都の中枢と直結している緊急用の通信魔導具が、けたたましい警告音を鳴らし始めたのだ。
ダリオと顔を見合わせ、急いで執務室へ向かう。
魔導具の盤面には、血のように赤い文字が浮かび上がっていた。
『緊急事態。王都の三つの大病院にて、暖房用魔導炉が同時停止。備蓄魔力なし』
私は盤面の文字を凝視し、血の気が引いていくのを感じた。
『外気温氷点下。低体温により重症患者に生命の危機。至急、魔力供給網の確認を求む』
イリヤの契約の受益者は『王都施設群』だった。
私が彼女の命を救うために「正しい」と信じて停止した契約。それが、王都の病院を温める魔導炉の炎を、すべて消し去ったのだ。




