表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「その奇跡は、誰かに傷を移すだけです」偽聖女として追放された私、辺境で王家の傷を背負う騎士と「奇跡の代価」を暴きます  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/50

第8話 二十二歳の老女

穏やかな約束を交わしたその日の夕刻。王立呪約監査院となった建物の玄関で、けたたましく鐘が鳴った。


 急いで扉を開けると、雪混じりの風とともに一人の女性が石床へ倒れ込んだ。


「大丈夫ですか!」


 ダリオがいち早く駆け寄り、彼女の上体を起こす。


 ランプの灯りに照らされたその姿を見て、私は息を呑んだ。


 着ているのは、南部鉱山の紋章が入った坑夫の作業着だ。だが、問題はそこではない。彼女の顔には深い皺が刻まれ、手は枯れ木のように痩せ細っている。誰が見ても六十を優に超えた老女だった。


 しかし、彼女が震える手で差し出した身分証には、はっきりと『イリヤ・二十二歳』と記されている。


 見間違いではない。彼女が一息つくたびに、残っていた茶色の髪が根元から真っ白に染まり、肌から急速に水分が失われていく。異常な速度で、彼女の『時間』が奪われていた。


「ノエラ、これは」


 ダリオの険しい声に、私は彼女の胸元へ意識を集中させた。


 見える。彼女の心臓のあたりから、空へ向かって一本の太い糸が伸びている。糸は赤黒く脈打ち、不気味なほどの速度で何かを吸い上げていた。急速に代価を徴収している契約の証だ。


「寿命が、奪われています。このままではあと数分で……」


 私はイリヤの冷たい手を握り、彼女がもう片方の手で固く握りしめている羊皮紙に目を落とした。


 それは契約書だった。


 代価の欄には、極端に高い報酬額とともに『魔力供給の担保として、必要に応じ寿命を徴収する』という一文が明記されている。そして一番下には、イリヤ本人の署名があった。


「騙されたのですね。こんな条項が隠されていたなんて」


 私が言いかけると、虚ろだったイリヤの目がカッと見開かれた。


「騙されて、なんかいません」


 ひゅう、ひゅうと掠れた息を吐きながら、彼女は私の手を強く握り返した。


「寿命を売ると知って……私たちは、全員で署名したんです。これで、村の家族が、飢えずに済むから」


 頭を殴られたような衝撃だった。


 これまで私が止めてきたのは、本人が知らされないまま押しつけられた犠牲だ。しかし、目の前の彼女は、対価の重さを知った上で、自らの意志で命を切り売りしている。


 契約に嘘はない。同意もある。


 だが、このまま彼女が老衰で死ぬのを見過ごすことなどできない。


「ノエラ。どうする」


 ダリオの冷静な声が、私を現実へ引き戻した。彼の灰色の目は、私に決断を求めている。


「止めます」


 私は立ち上がり、執務室から監査院の新たな印章を取り出した。


「本人が望んだ署名だとしても、短時間で致死量に至る代価の徴収は、監査の対象になるはずです。少なくとも、この異常な流出速度は止めなければ、彼女はここで死にます」


「反動は来るか」


「来るかもしれません。でも、一人では読みません」


 ダリオが力強く頷き、私の背中に右手を添えた。彼の体温が、震えそうになる私の心を支えてくれる。


 私は印章を強く握り、イリヤの胸から伸びる赤黒い糸に触れた。


 瞬間、凍りつくような冷気と、途方もない疲労感が私の腕を伝って流れ込んでくる。イリヤが奪われていた数十年の時間が、黒い濁流となって私の精神を押し潰そうとした。


「契約番号、三〇一四。代価負担者、イリヤ。受益者……王都施設群。生命維持を脅かす過剰徴収を認め、本契約の効力を一時停止する!」


 印章から透明な光が放たれ、赤黒い糸に打ち込まれる。


 ガラスが砕けるような鋭い音が監査院に響き渡った。


 脈打っていた糸が弾け、生命力を吸い上げる動きがピタリと止まる。糸の色が危険な赤黒から、監査停止中を示すくすんだ灰色へと変わった。


 私を襲っていた重圧も消え失せ、大きく息を吐き出して膝をついた。ダリオがしっかりと私の肩を支えてくれている。


「……イリヤ?」


 ダリオが呼びかける。


 イリヤの髪が元の色に戻ることはなく、刻まれた皺が消えることもなかった。失われた時間は戻らない。それでも、一息ごとに進んでいた老女化は完全に止まり、彼女の呼吸は穏やかさを取り戻していた。


 命の危機は去ったのだ。


「間に合った……」


 私は額の汗を拭い、小さく安堵の息を漏らした。本人の同意という壁はあったが、最悪の事態は防げた。監査院としての正しい処置ができたはずだった。


 しかし、その安堵は一分も続かなかった。


 執務室の奥、王都の中枢と直結している緊急用の通信魔導具が、けたたましい警告音を鳴らし始めたのだ。


 ダリオと顔を見合わせ、急いで執務室へ向かう。


 魔導具の盤面には、血のように赤い文字が浮かび上がっていた。


『緊急事態。王都の三つの大病院にて、暖房用魔導炉が同時停止。備蓄魔力なし』


 私は盤面の文字を凝視し、血の気が引いていくのを感じた。


『外気温氷点下。低体温により重症患者に生命の危機。至急、魔力供給網の確認を求む』


 イリヤの契約の受益者は『王都施設群』だった。


 私が彼女の命を救うために「正しい」と信じて停止した契約。それが、王都の病院を温める魔導炉の炎を、すべて消し去ったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ