第7話 偽物のまま、あなたと生きる
半年後、辺境聖痕院の門から、欠けた聖印が取り外された。
新しい看板には「王立呪約監査院」と刻まれている。王家と教会のどちらからも独立し、代価を伴う魔法契約を調べるための場所だ。
オルデンの私有財産と、制度を支えていた教会資産の一部は、四十一人の治療と補償へ充てられた。彼自身は王都の公開法廷で審理を受けている。
トーマの右腕には細い傷跡が残ったが、雪玉を投げられるまでに回復した。ミナは熱を出さずに一月を過ごし、今は文字を習っている。
エステルは王都に残った。
彼女の祈りに代価が生じるときは、術を使う前に内容を公開する。今のところ、他人へ傷を移す治癒は一度も行っていない。医師と薬師を増やし、奇跡で省いていた療養を支えることが、彼女の最初の改革になった。
レオニスは療養を続けながら、摂政団との分担で政務へ戻った。受苦者補償法と、魔法契約の説明義務が成立したという報せも届いている。
ダリオの左腕は、少しずつ動くようになった。指先を動かし、茶杯ほどの軽い物を短時間持つことはできる。けれど、強く握ること、重い物を支えること、剣を長く振るうことは、まだできなかった。
回復してからも、彼は私を勝手に守ろうとはしなかった。
「今夜も帳簿を読むのか」
「そのつもりです」
「命令はしない。だが、明日のあなたが倒れない方を、一緒に選びたい」
そう言って、二人分の温かい茶を用意する。
私が休むと決めれば、彼も自分の左腕の訓練を切り上げた。どちらか一人だけが我慢するのではなく、明日のために二人で止まる。それが、私たちの新しい習慣になっていた。
左手で初めて持てたものは、木の訓練剣ではなく、私に渡すための茶杯だった。
「こぼすかもしれない」
「そのときは、一緒に拭きましょう」
少し震える手から受け取った茶は、冷めかけていた。それでも私には、どんな祝宴の飲み物より温かかった。
その朝、彼は書類の束を左手で支え、右手で私の机へ置いた。まだ長く持つことはできない。それでも半年前には動かなかった指が、紙の端を確かにつかんでいる。
「南部の鉱山から、新しい契約の調査依頼だ」
「代価の記載は?」
「報酬だけ大きく書いて、寿命が縮む条項は裏に隠してあった」
「行きましょう」
「ああ。ただし、その前に話がある」
ダリオは珍しく言いよどんだ。
「腕が治れば、王都の騎士団へ戻るのだと思っていました」
先に口にすると、彼は首を横に振った。
「戻らない。俺はここで、監査院の調査官を続ける」
安堵が胸へ広がる。
けれど、仕事を続けることと、私の隣にいることは同じではない。そう言い聞かせたとき、ダリオが机の上へ一枚の紙を置いた。
小さな家の見取り図だった。
「院の東に、空き家がある。屋根を直せば住める。部屋は二つ、台所は一つだ」
「職員住宅の申請ですか」
「違う」
彼は灰色の目で私を見た。
「仕事の相棒としてだけではなく、あなたと同じ家で暮らしたい。朝も夜も同じ食卓につき、これから先のことを二人で選びたい」
私の返事を急かさず、続ける。
「恩を返すためではない。腕を救われたからでもない。あなたが誰にも命じられず選ぶ言葉を、これからも一番近くで聞きたい。ノエラ、あなたが好きだ」
聖女になるかと問われれば、教会が望む答えを探した。
何が食べたいかと聞かれても、残ったものでいいと答えてきた。
自分が何を望むかを口にするのは、今も怖い。
それでも、今度は沈黙しなかった。
「私も、ダリオと暮らしたいです」
彼の目がわずかに見開かれる。
「調査へ出て、帰ってきて、同じ食卓で話したい。あなたが一人で傷を引き受けようとしたら止めたいし、私が帳簿の上で倒れそうになったら、止めてほしいです」
「分かった」
「それから……私も、あなたが好きです」
ダリオが右手を差し出した。
私は自分から、その手へ指を重ねる。
「触れても?」
「はい」
彼は私の頬へ手を添え、ゆっくり顔を寄せた。
重なった唇は、雪の日に飲んだスープよりも温かかった。
教会は私を偽物と呼んだ。
今も、本物の聖女になるつもりはない。
誰かの痛みを見えない場所へ押しつけず、自分の望みも隠さず、選んだ人と生きていく。
私には、それで十分な奇跡だった。




