第5話 奇跡の代価を、全員の前へ
四十一枚の意思確認書が揃ってから十二日後、オルデン大司教とレオニス王太子が、中央契約印を携えて聖痕院へ入った。
国王は、過去に消した病が戻って王都で療養しているという。レオニスは王家を代表する全権委任状を携えていた。
王家の騎士と教会騎士が雪の中へ二列に並び、中庭は逃げ場のない審査場へ変わった。
王太子は認定試験の日より痩せていた。右腕をかばい、ときおり顔をしかめている。監査停止のあと、幼い頃に奇跡で消した骨折の痛みと、幾度もの発熱が少しずつ戻り始めたらしい。
「ずいぶんなことをしてくれたな、ノエラ」
オルデン大司教は院内へ入るなり言った。
「王都では官吏も将軍も床につき、民の治療まで滞っている。今すぐ呪約を再稼働させなさい」
「中央審査が先です」
「聖女候補へ戻す。偽聖女の認定も撤回しよう。望むならエステルと並ぶ聖女の地位を与える」
十三年間、欲しかった言葉だった。
けれど、驚くほど心は動かなかった。
「必要ありません。ここにいる四十一人へ、何を負わせたか公開してください」
大司教の目が冷たく細くなる。
「国家の安定より、身寄りのない四十一人を優先するというのか」
「比べる前に、本人へ説明すべきだったと言っています」
「政治を知らぬ娘の理想論だ」
「ならば、審査の場でお話しください。払っていない側だけで決めることが、なぜ必要な犠牲と呼べるのかを」
中庭には、院の四十一人と職員、王家の騎士、教会騎士が集まっていた。
中央に机を置き、二冊の台帳、四十一枚の意思確認書、ダリオの報告書を並べる。
中央契約印は、大司教が持つ金色の箱に収められていた。初代王の冠と初代聖女の杖を組み合わせた印が、蓋に刻まれている。
「これは教会の機密だ」
大司教は箱へ手を置いたまま言った。
「開示すれば敵国に奇跡の仕組みを知られ、王家が狙われる」
「仕組みを知らないまま狙われていたのは、私たちです」
トーマの声だった。
大勢の前で震えながらも、少年は包帯の残る右腕を下ろさなかった。
王太子がその傷を見る。
「それは……私の試験の?」
「はい」
私が答えた。
「殿下の古い傷の一部は、ダリオにも移されています」
王太子の視線が、革帯で吊られた左腕へ向く。
「ダリオ。お前は近衛隊を負傷で退いたと聞いていた」
ダリオが口を開こうとした途端、聖痕が首へ這い上がった。
私は彼の前に立つ。
「証言を妨げる沈黙呪約があります。違法登録の審査に必要な範囲で、一時停止できます。触れてもいいですか」
「頼む」
彼の左肩と、割れた地方印へ同時に手を置く。
「契約番号、無記載。受益者、中央教会。代価負担者、ダリオ・ヴェルン。告発を妨げる条項を、審査終了まで停止します」
黒い筋が首元から退いた。
ダリオは息を整え、王太子を見た。
「四年前、私は戦場で部下十二人の傷を引き受けることに同意しました。一度だけです。教会はその署名を恒久登録へ転用しました。異議を申し立てると、この沈黙呪約を掛け、私をここへ送りました」
彼は控えの報告書と異動命令を机へ置いた。
「虚偽だ」
オルデン大司教が吐き捨てる。
「ならば、中央印で確かめましょう」
私は王太子へ向き直った。
「殿下。受益者側の最高代理人として、利益と代価をご覧になりますか。一度見れば、知らなかった頃には戻れません」
王太子はすぐには答えなかった。
右腕を押さえ、息を呑む。
「見れば、これまで治された傷が私へ戻るのか」
「見るだけでは戻りません。ですが、改定を選べば、本来必要だった療養の痛みと時間を、段階的に引き受けることになります」
「私は王太子だ。何か月も政務を休めば、国が止まる」
「そうです。簡単な選択ではありません」
「殿下」
オルデン大司教が低く呼びかけた。
「迷われる必要はありません。王家の健康は王国のもの。孤児や罪人が負うわずかな苦痛で国が保たれるなら、それは慈悲ある配分です」
王太子の顔に迷いが浮かぶ。
私は答えを急がせなかった。
やがて彼は、トーマからダリオへ、ミナから四十一人の顔へと視線を動かした。
「わずかな苦痛かどうかを、私は一度も見たことがなかった」
王太子は中央契約印の箱へ手を置いた。
「見る。王太子レオニスの名で、公開審査を命じる」
オルデン大司教の顔が初めて歪んだ。
エステルが聖女章を中央印へ重ねる。私が二冊の台帳に手を置き、ダリオは四十一枚の意思確認書を支えた。
金色の箱が開く。
世界が、痛みの線で満ちた。
黒い糸が中庭を埋め尽くした。
王太子の右腕からトーマへ。第三王女の胸からミナへ。王都の方向から何百本もの糸が伸び、四十一人の身体へ突き刺さっている。
ダリオの左腕には、王家と軍の糸が太い縄のように絡んでいた。
今度は私だけではない。
中央印の光によって、その場にいる全員に見えていた。
悲鳴が上がった。
王家の騎士たちが、自分の古傷から伸びる糸を見つける。教会騎士の一人は、糸の先にいた老人と目が合い、兜を脱いだ。
台帳の番号が剥がれ落ち、その下に実名が浮かぶ。
さらに、ダリオの署名へ継ぎ足された頁が赤く染まった。
改変者――中央教会契約局。
承認印――オルデン大司教。
沈黙呪約の命令者にも、同じ名が現れた。
「必要だった!」
オルデン大司教の声が中庭に響く。
「先王が戦場で倒れたとき、奇跡がなければ軍は崩れ、何千人も死んだ。疫病の最中に行政官まで倒れれば、食糧も薬も届かぬ。私は国を守ったのだ!」
「最初の一度、ダリオは内容を知って選びました」
私は黒い線の中で大司教を見る。
「それを否定してはいません。ですが、必要な制度だったのなら、なぜ対象も期間も隠したのですか。なぜ五歳のミナに署名があることにしたのですか。なぜ拒んだ人を黙らせたのですか」
「説明すれば、誰も引き受けぬ」
「誰も選ばない犠牲を、必要だからと押しつけた。それを搾取と呼ぶのです」
オルデン大司教は答えなかった。
中央印の光が、偽造された頁を一枚ずつ赤く染めていく。
教会の嘘は、全員の前へさらされた。
けれど、暴くだけでは誰も救えない。
契約を書き換える者には、四十一人分の痛みが一度に流れ込む。途中で意識を失えば、ダリオを含む受苦者と受益者の双方を傷つける。
今度は私が、命を懸けて選ぶ番だった。




