第4話 聖女が祈るたび、辺境で誰かが倒れる
翌朝。
一本や二本ではない。四十一人の寝台から伸びた糸が、赤黒く染まっていく。これまでで最大の転送が始まろうとしていた。
直後、中央教会から命令が届いた。
『王都東区で熱病が発生。聖女エステルによる大祈祷を実施する。辺境聖痕院は受苦者を全床受け入れ態勢とせよ』
全床。
それは、ここにいる者全員を王都の代わりに病ませるという意味だった。
「地方印で四十一件すべてを個別に止める時間はありません」
私たちは書庫へ走った。
監査手引書をめくる手が震える。個人転送は三日だけ止められる。だが、登録そのものに広範な不正がある場合はどうなるのか。
削られた頁を火へ透かすと、薄い文字が浮かんだ。
――三件以上の無署名登録、または契約権者による記録改変を確認した場合、全系統を中央審査まで停止する。
「ありました」
「証拠は?」
「四十一件あります」
地方印を受苦台帳の表紙へ押す。
古い印章が耐えきれず、中央から二つに割れた。
しかし光は消えなかった。受益者台帳と受苦台帳の間を青い線が走り、別々だった二冊が一つの契約として開く。
「受苦者四十一名のうち、本人署名なし二十六名。説明欠落十二名。期間改変三名。契約全系統を中央審査まで停止します」
院内に、太い鐘の音が響いた。
赤黒く染まっていた糸が、すべて灰色へ変わる。
遠く王都で始まろうとしていた祈りが、行き先を失って止まった。
同時に、門を叩く音がした。
ダリオが剣の柄へ右手を置く。私たちが中庭へ出ると、雪まみれの馬車から白い外套の少女が降りてきた。
「ノエラ!」
エステルだった。
彼女は礼拝堂で王太子の傷を治した翌日、私の言葉が頭から離れず、辺境へ向かったのだという。中央教会には聖痕院の視察と届け出たが、道中で王都へ戻り大祈祷を行うよう命令を受けた。それでも引き返さなかった。
「確かめるまで、もう祈れなかったの」
エステルの頬は寒さで赤く、目の下には深い隈があった。
私は彼女をトーマの部屋へ案内した。
包帯を外した右腕には、まだ新しい傷が残っている。
「この傷は、認定試験の日につきました」
私が告げると、エステルの顔から血の気が引いた。
「私が、殿下を治したから……?」
「あなたが知らされないまま起動した契約が、この子へ移しました」
エステルはトーマの寝台の脇へ膝をついた。
「ごめんなさい」
「エステル様が切ったんじゃないんでしょ?」
「知らなかった。でも、知らないまま力を使ったのは私です」
彼女は泣いて許しを求めなかった。立ち上がると、私たちとともに二冊の台帳を読み始めた。
「王都に戻れば、大司教様は私に祈らせます。私は拒みます」
「王都では、治療を待つ方もいます」
「だから医師と薬を集める。時間はかかっても、誰かを代わりに病ませるよりいい」
エステルは白い聖女章を外し、机へ置いた。
「辞めるためじゃない。聖女の権限で、この審査を要求するために使うわ」
日暮れ前、北部教区の教会騎士が六人到着した。
「偽聖女ノエラを、奇跡妨害および禁呪行使の罪で拘束する。地方管理印と台帳を引き渡せ」
隊長が令状を読み上げる。
ダリオは私の前へ出た。右手の剣は抜かない。けれど六人の騎士は、元近衛隊長の構えを知っているのか、誰もすぐには近づかなかった。
「その令状は無効です」
エステルは机に置いていた聖女章を取り上げ、私たちの隣に立った。
「聖恩呪約の起動権者である私が、監査停止を承認しました。中央審査が終わるまで、証拠となる人、印、台帳の移送を禁じます」
「しかし、大司教猊下の命令が――」
「では猊下に、中央契約印を持ってお越しいただきなさい。偽りがないのなら、公開審査で証明できるはずです」
聖女章を掲げるエステルの手は震えていた。それでも下ろさなかった。
騎士たちは私を連行できず、門外へ監視を置いて引き下がった。
その夜から、私たちは四十一人全員の意思確認を行った。
帳簿を見せ、これまで何を負わされていたか、停止すれば何が起きるかを伝える。字を書けない者には読み上げ、未成年者には本人と、教会から独立した老医師の両方に確認を取った。
「王都の人が困るんじゃないのか」
元兵士の老人が尋ねた。
「困ります。けれど、普通の医療と休養で回復できます。これまで省かれた時間を、今度は本人が過ごすだけです」
「なら、返してやれ。俺はもう、知らない傷で夜中に起こされたくない」
四十一枚の意思確認書が揃った。
最後の一枚は、ダリオだった。
「説明を聞いたうえで、もう一度尋ねます。あなたは、これからも王家や騎士の傷を引き受けたいですか」
彼は長く、自分の左腕を見た。
「あの日、部下十二人を助けるために選んだことは後悔していない」
「はい」
「だが、その一度を理由に、その後の人生まで差し出すとは言っていない」
ダリオは右手で羽根ペンを取り、継続拒否の欄へ署名した。
「俺も、生き残る方を選ぶ」
署名を見た瞬間、胸の奥に詰まっていた息が、ようやく抜けた。
四十一枚の意思確認書が揃ってから、十二日後。
雪の向こうから、銀の馬車が現れた。
扉から降りてきたのは、中央契約印を抱えたオルデン大司教と、傷の戻り始めたレオニス王太子だった。




