第49話 その奇跡は、誰にも押しつけない
ピィン、と高く澄んだ音が通信盤から鳴り響き、水晶のゲージが絶対防衛ラインを完全に突破した。
ダリオが先導した南部の青鉱石が放つ圧倒的な物理熱と、全国三万人から寄せられた「安全な一晩の疲労」の魔力が、通信網を介して完璧に同期したのだ。
私は通信盤に両手を突き、震える声で全国の支所に呼びかけた。
「今です! 各支所の監査官、十二個の地方印による『自発防衛網』を同時起動してください!」
『北部第一支所、起動!』
『南部第四支所、起動!』
『東部第二……起動します!』
通信機から次々と力強い返答が響く。中央印の権限を塞がれた私に代わり、全国に散った十二人の名もなき監査官たちが、一斉に地方印を台座に打ち込んだ。
その瞬間、鉄板で塞がれた窓の外、王都の空で決定的な変化が起きた。
財務院総監セヴランが強制起動させようとしていた『第零頁』の禍々しい金黒の網のさらに下から、眩いばかりの純銀の糸が幾重にも編み込まれた巨大な網が、天を覆い尽くすように展開されたのだ。
それは、誰かの命を削ることも、特定の誰かに傷を押し付けることもない。全員が自らの意思で安全な限界を見極め、少しずつ痛みを分け合った『透明な奇跡』だった。
銀の防衛網は金黒の網を完全に下から支え、押し上げ、やがてその強圧的な術式をシステムごと上書きしてしまった。
「……代案は、成立しました」
私は、繋がったままの王城の回線に向けて、はっきりと宣言した。
「これにより、強制案を発動するための『代案なし』という非常事態の前提は消滅しました! セヴラン総監、あなたの強制案は法的根拠を完全に失いました!」
私の声は、王城の大広間にも響き渡っていた。
大広間の大理石の床には、セヴランの左手から滴った血が水たまりを作っている。しかし、彼が命を賭してまで起動しようとした強制の網は、今や完全に銀色の自発網に取って代わられていた。
玉座の下段に立つレオニス王太子が、静かに、だが威厳に満ちた声で口を開いた。
「……聞いたな、セヴラン。地方からの確かな意思と、監査院が構築した安全な術式によって、魔獣潮を防ぐための絶対的な魔力は確保された」
諸侯たちも、窓の外で輝く巨大な銀の結界を見上げ、言葉を失っている。暴動の火種を抱えた強制案よりも、はるかに強靭で安定した防衛網が完成したことは、誰の目にも明らかだった。
「非常大権の発動条件は崩れた。財務院総監セヴラン・アルノー」
レオニスの声が、大広間に響く。
「法を無視し、権限を越えて強制契約の起動を試みた事実により、お前をその職から解任する。……近衛兵、彼を拘束しろ」
数人の兵士が、セヴランを取り囲む。
だが、彼は逃げようとも、言い訳をしようともしなかった。血に濡れた左手を力なく下ろし、窓の外で眩く光る銀の結界を、ただ静かに見上げていた。
「……十時間のタイムリミットを、あの別経路の物理燃料で強引に塞ぐとはな。監査院の執念、私の計算を上回ったということか」
セヴランは、自虐するでもなく、ただ事実を事実として受け入れるように呟いた。
「南部の魔導炉で払った一年と、第零頁の追加担保に刻んだ五年。失った合計六年分の寿命は、もう戻らん。だが……この国が明日も残るというのであれば、それでいい」
彼は私腹を肥やすために国を掌握しようとしたのではない。彼なりの残酷な合理性で、本気で十万の民を救おうとしていたのだ。そのための自己犠牲すら厭わなかった、恐ろしくも純粋な敵。
セヴランは抵抗することなく兵士たちに両腕を預け、静かに大広間から引き立てられていった。
こうして、一人の権力者に命の選択を委ねるという恐怖のシステムは、名実ともに崩れ去った。
監査院の執務室では、ミナと通信技官が抱き合って歓喜の涙を流していた。
私も、張り詰めていた緊張の糸が解け、机に突っ伏すようにして深く息を吐き出した。
「終わった……終わったのね」
王城への接続が切られ、すべての支所からの魔力供給が完全に安定稼働に入ったことを確認した時だった。
重厚な扉に打ち付けられていた鉄板が外から乱暴に引き剥がされ、凄まじい音と共に扉が開け放たれた。
冷たい風と共に飛び込んできたのは、雪と煤にまみれ、息を切らした大柄な影。
「ダリオ!」
私は椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、彼のもとへと駆け寄った。
裏道での先導任務を完遂し、魔獣の先陣との小競り合いをくぐり抜けてきたのだろう。彼の近衛の軍装は所々が破れ、長時間の騎乗で聖痕の残る左腕を痙攣させていたが、その灰色の瞳には確かな安堵の光が宿っていた。
「ダリオ……怪我は、熱はぶり返していませんか!」
私が彼の胸元にすがりつくようにして怪我の有無を確かめようとすると、彼は「問題ない」と短く答え、私の両肩をがっしりと掴んだ。
そして、周囲にミナや通信技官たち、さらには外から駆けつけた兵士たちの目があるにもかかわらず、私を強く抱き寄せた。
「ダ、ダリオ……? みんな、見て……」
「見させておけ」
彼は私が抗議する間も与えず、私の額に深く、長い口づけを落とした。
不器用な彼が、人前でこんな大胆な真似をするなんて。私の顔が一気に熱くなるのを感じたが、彼から伝わってくる体温と、生き延びて再会できたという圧倒的な幸福感の前には、恥ずかしさなどすぐに吹き飛んでしまった。
「よくやった、ノエラ。お前が、この国を救ったんだ」
「違います。あなたが道を開いてくれたから、皆が力を貸してくれたからですよ」
私が彼の広い胸に額を押し付けて微笑むと、彼は私の髪を優しく撫でた。
セヴランは失脚し、強制契約の設計権は永久に剥奪されるだろう。
奇跡は、もう誰か一人の特権ではない。誰かの尊厳を奪って成り立つような平和は、この国にはもう必要ないのだ。
ダリオは私の肩を抱いたまま、不自由な左手で私の手を取り、その指先をそっと絡めた。
「約束どおり、帰ろう」




