第50話 偽物のまま、家族になる
十万の魔獣潮という未曾有の危機を、全国の民が自発的に負担を分け合うことで退けてから、一年が過ぎた。
王都の空に不気味に張り巡らされていた金黒の契約網『第零頁』は、新たな法整備によって完全にその強制起動の仕組みを解体された。
セヴラン・アルノーは財務院総監の座を退き、越権行為についての裁きを受けたが、彼が築き上げた備蓄と病院網は有用なものとして破壊されることなく、監査院の監視の下で国のために運用され続けている。
そして、王立呪約監査院は、王家、教会、財務院のいずれの権力をもってしても、単独では決して介入や閉鎖ができない強固な独立機関としての地位を確立した。
今や全国の地方支所には、魔力を持つ呪約師と、記録の不一致を文字で照合する『監査書記』が必ず一人ずつ配置されている。魔力と記録。二つの異なる視点からの相互監視により、かつてのような隠された搾取は、二度と起きない仕組みが出来上がっていた。
レオニス王太子は、戻った痛みの療養を続けながら、非常大権を一人の判断だけで発動できないよう法改正を主導している。
セヴランの失脚と同時に拘束を解かれたエステルは、王都の治療院へ戻った。医師と薬師を増やし、奇跡に頼りきらず患者を支える医療を各地へ広げている。
北辺支所では、トーマが新しく保護された年少者の世話を自分から買って出ていた。細い傷跡の残る右腕で包帯を巻き、「今度は僕が教える番だ」と笑っているという。
私は今日も、監査院の調査官として各地の支所から上がってくる報告書に目を通し、忙しくも充実した日々を送っていた。
王都にある監査院の明るい面会室で、ミナは実母であるサーラと向かい合って座っていた。
十三歳になった彼女は、特注で仕立てられた真新しい『監査書記見習い』の制服に身を包んでいる。かつて教会で『北部第十七号』と呼ばれ、自分の名前すら書けずに震えていた少女は、今や堂々とした監査院の一員だった。
「……ミナ。その制服、とてもよく似合っているわ」
サーラが、テーブル越しに優しく微笑みかける。
「ありがとうございます、お母さん」
ミナは少しだけ頬を赤くしてはにかんだ。
この一年間、二人は定期的に面会や手紙のやり取りを重ね、失われた七年間の時間を少しずつ、丁寧に埋め直してきた。
ミナはテーブルの上で自らの両手をぎゅっと握り合わせ、少しだけ緊張した面持ちで、真っ直ぐにサーラの目を見た。
「あのね、お母さん。私……お母さんのこと、本当に大好きです。離れていた時の分も、これからずっと、お話ししたいことがたくさんあります」
「ええ、私もよ。ミナ」
「でも……」
ミナは小さく深呼吸をして、自分の意思を、はっきりとした言葉で告げた。
「私、成人するまでは……ノエラとダリオ様の家で、一緒に暮らしたいんです」
サーラの目がわずかに見開かれ、そして、ほんの少しだけ寂しそうに伏せられた。
血の繋がった実の親の元へ帰る。それが一般的な『幸せな家族』の形なのかもしれない。けれどミナは、監査の仕事に誇りを持ち、自分を暗闇から救い出した私やダリオと共に生活し、学び続けることを選んだ。
「……ごめんなさい」
「謝らないで、ミナ」
サーラは、テーブル越しに手を伸ばし、娘の小さな手を優しく包み込んだ。
「あなたが自分で考えて、自分で選んだ道でしょう。……私は、あなたが幸せなら、どこで暮らしていても嬉しいのよ。いつでも会いに行けるのだから」
彼女は、娘が『母を選ばなかった』と責めることは一切しなかった。
ミナの目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちる。
本当の家族とは、決して一つに決めなければならないものではない。実の母親との温かい繋がりを持ちながら、後見人である私たちと共に暮らす。ミナは、自分自身で二つの帰る場所を選び取り、その両方を大切にして生きていく道を見つけたのだ。
夕暮れ時。
監査院の敷地の東側にある私たちの家には、温かなランプの灯りが点っていた。
台所では、ダリオが夕食後の茶の準備をしている。
彼の左手には、四年前の戦場で負った傷による痛みと微かな震えが、今も確実に残っている。失われたものは、魔法のように一夜にして元通りになるわけではない。
それでも彼は、その不自由な左手でできることを少しずつ増やしながら、自分の力で確かな日常を紡いでいた。
コトン、と。
ダリオは右手で盆を支え、左の指先を縁へ添えながら、二つの茶杯と、ミナのための温かいミルクが入ったマグカップを居間の食卓へ運んだ。
「ダリオ様、お茶請けのお菓子、買ってきました!」
監査院での仕事を終えて帰宅していたミナが、嬉しそうに紙包みを広げ、三人分の焼き菓子を綺麗にお皿に並べていく。
「あぁ、ありがとう。……そろそろ帰ってくる頃だな」
ダリオが窓の外、夕闇の迫る道をちらりと見やった。
ストーブの火がパチパチと爆ぜ、お茶の湯気が甘い香りと共に部屋の中に満ちていく。何の変哲もない、ただの穏やかな夕暮れ。だが、この温かい食卓こそが、私たちが命を懸けて守り抜いた日々の結晶だった。
カチャリと、玄関の扉が開く音がした。
冷たい夜風の匂いと共に、仕事を終えた私が家の中に足を踏み入れる。
「遅くなりました。今日は西部の支所からの報告書が多くて……」
私が外套の留め具に手をかけた時、奥の居間からダリオが歩み寄ってきた。
彼は私の前に立ち、何も言わず、ただ右手を私に向けてそっと差し出した。
それは、「手を繋げ」という命令ではない。
「触れてもいいか」という許可の要求でもない。
いつでも取っていいし、取らなくてもいい。ただそこにある、温かく開かれた手。
かつて中央教会で、『聖女候補』として命じられた祈りを拒むことさえ許されなかった頃、私の意思を尋ねてくれる者は誰もいなかった。役に立つかどうかで価値を決められ、人生の行き先まで他人に選ばれる存在だった。
けれど、今は違う。
仕事も、夫も、家も、家族も、帰る時刻でさえも。私はすべて、自分自身の意思で選び取っている。
私は微笑み、自分からためらうことなく、彼の手の上に自らの手をしっかりと重ねた。
重なり合った手のひらから、彼がそこに生きているという確かな熱が伝わってくる。
「ただいま」
私の言葉に、ダリオは目を細め、不器用で、けれど誰よりも優しい微笑みを浮かべた。
「おかえりなさい」
偽物の聖女として追放された日から始まった私の物語は、彼と共に生きる家族として、この温かな帰る場所で、静かに幕を下ろした。




