第48話 拒む権利まで守れますか
通信魔導具から西部の光が消え、執務室に絶望的な静寂が落ちた。
水晶のゲージは、十万の魔獣潮を防ぐための絶対防衛ラインのわずか手前で、ピタリと停止したまま動かない。西部支所という大規模な供給源が、地元領主の反逆罪という脅迫に屈し、参加を『拒絶』したのだ。
「そんな……あと少しだったのに」
ミナが、集計表を握りしめたまま震える声で呟いた。
彼女は血の気を失った顔で私を振り返り、すがるような目を向けた。
「ノエラ……王太子殿下のお名前を使えませんか? あるいは、呪約監査院の権限で、領主の脅迫を無効化して、西部の支所に強制的に地方印を起動させる命令を出すとか……」
ミナの言いたいことは痛いほど分かった。王都と国を救うためだ。少しくらい強引な手を使ってでも、彼らを参加させなければ国が滅んでしまう。
だが、私はきつく唇を噛み締め、明確に首を横に振った。
「駄目よ、ミナ。私たちは、絶対に彼らを脅したり、強制したりはしない」
「でも、このままじゃ魔力が足りなくて、結界が破られてしまいます!」
「それでもです」
私は、かつて北辺の村で、自分が作った完璧な計算の代案を村人たちから「誇りを否定するものだ」と拒絶された時のことを思い出していた。
たとえ結果的に国を救うという正しい目的があったとしても、権力や恐怖を使って相手の選択を奪うなら、それは財務院総監セヴラン・アルノーのやり方と何一つ変わらない。
「拒む権利まで守れない契約は、ただの暴力です」
私は通信盤に手を置き、強い口調で断言した。
「彼らには、恐怖に怯え、参加を拒否する権利があります。私たちはその選択を尊重しなければなりません。西部の魔力は諦めます。別の方法で穴を埋めるのよ」
とはいえ、十万の魔獣の激突に耐えるためには、物理的なエネルギーの総量が絶対に必要だ。西部の魔力が得られないのなら、どうやってその不足分を補うのか。
私は閉ざされた鉄板の窓を見つめ、必死に思考を巡らせた。
自発的な魔力だけでは足りない。ならば、魔力『以外』のもので結界を支えることはできないか。
「……そうよ、魔導炉だわ」
私はハッとして顔を上げた。
国境の結界は、人々の魔力を吸い上げるだけでなく、基盤となる巨大な結界魔導炉を燃焼させて維持されている。
「ミナ、南部鉱山都市の支所に通信を繋いで! イリヤさんたち坑夫の代表を呼び出してちょうだい!」
私はかつて、第二部で彼らの寿命契約を緊急停止させた際、王都の病院の暖房魔導炉を支えるために、彼らが採掘した『青鉱石』の現物を燃料として使ったことを思い出した。
「南部ですね、はい!」
ミナが素早く通信の周波数を合わせる。ノイズ混じりの回線が繋がり、やがて太く力強い声が響いた。
『こちら南部第三坑道、イリヤだ! ノエラさんかい!?』
「イリヤさん、緊急のお願いがあります! 国境の結界維持魔力が足りません。魔力の代わりに、結界の基盤魔導炉にくべるための純度の高い青鉱石を、至急国境へ送ってもらえませんか!」
『ああ、話は支所から聞いてるよ! あんたたちには、寿命を取り戻してもらった恩がある。坑夫の共同組合は全員一致で、備蓄している最高純度の青鉱石を無償で提供すると決めた! すでに馬車十台分に積み込んである!』
イリヤの力強い返答に、私はパッと表情を明るくした。
これで魔力の不足分を、物理的な燃焼エネルギーで完全に底上げできる。
だが、安堵したのも束の間、通信の向こうからイリヤの舌打ちが聞こえた。
『だが、厄介なことになってるんだ。国境へ続く主要な街道が、軍の部隊に完全封鎖されてやがる。セヴラン総監の非常大権だとかで、軍事目的以外の輸送馬車は一切通さないって突っぱねられて、足止めを食らってるんだよ!』
「軍の封鎖……!」
セヴランは自分の強制案を通すために、自発案の助けとなる物資輸送の物理的な経路すらも塞いでいたのだ。
いくら代替物資があっても、運べなければ結界の穴は埋まらない。
「どうすれば……」
私が歯噛みした、その時だった。
『――心配するな。抜け道ならある』
不意に、別の回線が通信盤に割り込んできた。少し息を切らした、けれど頼もしい低音。
「ダリオ!」
『地下水路の妨害装置の破壊は完了した』
ダリオの声の背後で、崩れ落ちる瓦礫の音が聞こえた。彼は単独で地下に潜り、王城の軍が張った妨害の網を物理的に叩き潰してくれたのだ。
『イリヤと言ったな。主要街道が塞がれているなら、東の旧渓谷ルートへ馬車を回せ。あそこは足場が悪く地図にも載っていないが、軍の監視の目から完全に外れている。かつて近衛時代に、密輸の取り締まりで俺が把握していた裏道だ』
『旧渓谷ルートだな! 分かった、すぐに向かわせる! だが、護衛はどうする! 魔獣がはぐれてきているかもしれないぞ!』
『護衛と先導は、俺が直接引き受ける』
ダリオは迷いなく答えた。
『俺も今から王都を抜け、お前たちと合流して国境まで直接乗り込む。……ノエラ、西部の穴は俺たちが物資で埋める。あなたは、そのまま通信の中枢を死守して、自発魔力の同期を維持しろ』
「はい……! ダリオ、お願いします!」
通信が切れ、私は通信盤の前に座り直した。
西部支所が参加を拒み、軍が正面の道を塞いでも、私たちは決して相手の選択を力で脅したりはしなかった。代わりに、別の選択をしてくれた人々の善意と、ダリオが切り開いた別経路で、理不尽な穴を埋め合わせていく。
夫婦が別々の場所で、互いの担当を完全に信じ切って戦っていた。
それから数時間。
張り詰めた執務室の中で、私は監査印を通して全国から送られてくる魔力網のバランスを必死に調整し続けていた。
そして、ついにその瞬間が訪れた。
「ノエラ……来ました!」
ミナが、感極まった声で叫んだ。
ダリオの先導によって裏道を駆け抜けた南部の青鉱石が、無事に国境の結界魔導炉へと到着し、次々と炉に放り込まれたのだ。
圧倒的な物理的燃焼エネルギーが結界の基盤を真っ赤に熱し、全国三万人から自発的に集められた「安全な一晩の疲労」の魔力と完璧に結びつく。
通信盤の水晶のゲージが、鈍い輝きを放ちながら再び力強く上昇を始めた。
九割、九割五分、九割九分……そして。
ピィン、と高く澄んだ音が鳴り、ゲージの光が絶対防衛ラインの目盛りを完全に突破した。
「届きました……っ!」
ミナが両手で顔を覆い、安堵と歓喜の涙をボロボロとこぼしながら報告した。
「自発案が、結界を維持するための最低必要量へ到達しました!」




