第46話 自分も払う敵
ぽたり、と。
大理石の床に赤い血の雫が落ちる音が、静まり返った大広間にひどく重く響いた。
財務院総監セヴラン・アルノーは、自らの左手を切り裂き、その血で『第零頁』の補足契約書に寿命五年分を追加担保として刻み込んだ。痛みに顔をしかめることすらなく、彼はただ冷徹な瞳で私たちを見下ろしている。
彼は、安全な場所から弱者を搾取して私腹を肥やす、かつてのオルデン大司教のような卑劣な悪党ではなかった。
「私が払うのだ。私と私の家族が、誰よりも重い犠牲を払って国を救うと約束している」
血に濡れた羊皮紙を掲げ、セヴランは静かに言い放った。
「これで、特権階級の我慢が足りないという批判は的外れとなったはずだ。国境の結界を維持するためには、綺麗事ではなく絶対的な魔力の保証が必要だ。諸侯の皆様、ただちに強制案の可決を」
その圧倒的な覚悟の前に、大広間の空気は完全に一変していた。
自らの寿命を切り捨ててまで国を憂う財務院総監の姿に、暴動リスクを恐れて自発案に傾きかけていた諸侯たちも、返す言葉を失っていた。「総監がそこまで身を切るのなら……」という空気が、伝染病のように広間を支配していく。
「……違います」
私は、圧倒的な重圧に押し潰されそうになる両足に力を込め、もう一度、彼に向かって真っ直ぐに声を張り上げた。
「あなたが自分の寿命を払ったという事実は、あなたの覚悟の証明にはなるでしょう。ですが、だからといって、他人の人生を決める権限をあなたが持っていい理由にはなりません!」
セヴランが、微かに眉を動かした。
「あなたが身を切ったからといって、体力のない老人や子どもにまで致死量の魔力を強制していい権利など、どこにも生まれないんです。自分の犠牲を免罪符にして、他人に暴力を振るうことを正当化しないでください!」
私の叫びは、大広間の壁に虚しく反響した。
セヴランは小さく鼻を鳴らし、冷たい声で私を切り捨てた。
「その美しい理想論で、三十時間後に迫る十万の魔獣をどうやって防ぐというのだ? 犠牲を分かち合う覚悟のない者は、ただ国と共に滅びるがいい」
「……そこまでだ。会議を一時休会とする」
諸侯たちがセヴランの案に同調して決議を強行しようとする寸前、レオニス王太子が辛うじて待ったをかけた。
「両案のシミュレーション結果が魔法観測部から上がってくるまで、最終的な決断は下さない。一時間後、再びこの場に集まるように」
王太子の一言で、なんとか即時の強制案可決は免れた。
だが、会議の流れがセヴランの強烈な『自分も払う』という暴力的な論理に呑み込まれた事実は、どうしようもなく私たちに重くのしかかっていた。
大広間から退出した私は、足元がふらつき、まともに歩くことすら困難になっていた。
ダリオが無言で私の肩を抱き、広間から少し離れた、分厚い扉の閉ざされた古い記録室へと私を導いた。
誰もいない、埃の匂いがする薄暗い部屋。
扉が閉まった瞬間、私の中で張り詰めていた糸がプツリと切れ、その場に崩れ落ちそうになった。
セヴランは本気だ。私欲のない、ただ国を救うためだけに十万人を犠牲にできる男。その狂気にも似た合理性を、私はどうやってひっくり返せばいいのか。
「……ノエラ」
ダリオが、崩れ落ちそうになった私の身体を、その強い右腕で正面から抱き止めた。
「ダリオ、私……」
「今は、何も考えるな」
彼から紡がれたのは、作戦の確認でも、励ましの言葉でもなかった。
ダリオは右腕で私を自らの広い胸へ引き寄せ、不自由な左腕もそっと背に回して、私をすっぽりと包み込んだ。
「一分間だけ、俺に預けろ」
彼の硬い胸当て越しに、力強い心音だけが鼓膜に響いてくる。トクン、トクンという一定の規則正しいリズム。そして、彼から伝わってくる圧倒的な熱。
魔法の理屈も、国家の存亡も、セヴランの冷徹な論理も、この一分間だけは存在しなかった。
私はダリオの背中に腕を回し、ただ彼の匂いと体温だけを全身で感じ取った。怖い、苦しい、逃げ出したい。そんな私のすべてを、彼は無言のまま受け止め、溶かしていく。
彼がそばにいて、私を抱きしめてくれている。それだけで、冷え切っていた足先に少しずつ血が巡り、再び立つための力が湧き上がってくるのを感じた。
「……ありがとう、ダリオ。もう大丈夫です」
約束の一分が過ぎ、私がゆっくりと顔を上げると、ダリオは深く頷き、私の髪を一度だけ優しく撫でた。
記録室を出ると、廊下の向こうからミナが血相を変えて駆け寄ってきた。
「ノエラ、ダリオ様! 王城の魔法観測部から、両案の魔力供給シミュレーションの最新結果が出ました!」
ミナの手には、観測部から急ぎ出力された計算書が握られていた。
「魔獣潮の規模が、当初の予想をはるかに上回っているそうです。魔獣の先陣が国境の結界に激突した際、発生する負荷の数値が異常で……」
ミナは息を呑み、計算書の末尾に記された結論を読み上げた。
それは、セヴランの強制案が勝つか、私たちの自発案が勝つかという次元の低い問題ではなかった。
「……総監の強制契約を発動した場合。急激すぎる魔力搾取に末端の民が耐えきれず、次々と昏倒して供給網が連鎖的に崩壊。魔獣到達から『六時間』で国境崩壊」
セヴランの計算すら、十万の魔獣の圧倒的な暴力の前には破綻していたのだ。
「では、私たちの自発案はどうなんだ?」
ダリオの問いに、ミナは絶望的な表情で首を横に振った。
「自発案は限界を超えないため連鎖崩壊は起きません。ですが、魔力の絶対量が足りず、結界を維持しきれずに押し切られます。魔獣到達から『十時間』で、国境崩壊……」
強制契約なら六時間、自発案なら十時間で国境崩壊。
それは、どちらの道を選ぼうとも、この国が間違いなく滅びるという残酷な宣告だった。




